何をするのも恥ずかしい【閲覧注意】
まいど、黒井です。
きょうはいつになく朝の憂うつがひどく、まいっています。
この頃は「鼻とのどの不調」のほうが気になって、朝のしんどさとか、憂うつな気持ちには気が向かなかったんだけど、きょうは違う。
ひさしぶりに友人に会えるということでいつも以上に元気な母を見ると、嬉しいような、少し憎らしいような気持ちになりました。他者の幸せをゆるすことができないというのは、こどもっぽくて、自分にがっかりしましたよ。
また、ことしも年末に彼女が遊びに来てくれるらしいことが、いつのまにか彼女から送られていたメッセージでわかった。でも日帰りなんだって。なんだかさみしいなあと、思ってしまう。
でも、ぼくはせいぜい部屋を掃除して待っているだけ。いっぽう彼女は栃木県からはるばる神奈川県まで三時間以上も電車とバスに揺られてやってくる。ただ待っているだけのぼくが「なんだかさみしいなあ」なんて言ってちゃ、いけませんよね。
ぼくはバカだけど、相手の事情を考えられないようなクズではありません。そのはずなのに、自分のことばかり考えて悲しくなったり、さみしくなったりするのは、それだけ楽しくない、つまらないということなんでしょう。
ぼくは子どものころから「楽しい」が分からない人間でした。遊園地へ連れていってもらっても、ひとつのアトラクションにも乗らない。大きなプールへ連れていってもらっても、流れるプールや波の出るプール、ウォータースライダーなどでは遊ばず、ただ水に浸かっているだけの子どもだったのです。
いま思えば、何をするのにも恥ずかしかったんだよなあ……
その「恥ずかしい気持ち」は、学校でイジメられているときに植え付けられ、頭から離れなくなってしまったもののひとつ。
殴られたり蹴られたりすることは、時間が経つともとどおりになったけど、お金をもってこい、カードをもってこい、あの店から商品を盗んでこいなどと脅迫されたり、ぼくの口癖や声などを、クラスのみんなで真似されたりした、あの屈辱的な記憶だけは、さすがにもう鮮明に覚えているとは言えないけど、その排泄をしているところを大勢にまじまじと見られているかのような恥ずかしさと、不快感だけは、抽象化されて胸のもっとも深いところにありありと刻まれたままなのです。
それでも、むかしよりは少しだけマシになったかもしれません。
ブログを書いているときのぼくは、所詮は虚勢であるが、楽しさを感じていると思う。
とくにレビュー記事を書くときなんかは、自分ひとりで箱をあけて、自分ひとりで使ってみて、とやるより、記事のためとはいえ写真を撮ったり、使用感を文章にするためによく味わってみたりすることが、少しは楽しいと感じているのだと思います。
ただ、それにしたって「楽しい」というのは何なのか、まったく分からないんですけどね。