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うつわ 人器と天器 その9

 自分のうつわを大きくする。人物ができて参りますと、ささやかな事で怒ったり、悲しみに振り回されたり、過度に恐れる事もなくなるでしょう。
 かつて、私が、TA(Transactional Analysis)に傾倒し勉強していた頃、カール・ロジャースの出会いへの道(エンカウンターグループの記録ビデオ)とグロリアと三人のセラピストと云うビデオを観たのを思い出します。現実生活に悩みをもつ若い女性グロリアが、ロジャーズ(来談者中心療法)、パールズ(ゲシュタルト療法)、エリス(論理療法)という心理療法の3大創始者のカウンセリングを1日の間に続けて受け、その様子を収めた記録映画です。
 その3大創始者、カール・ロジャーズ(1902年‐1987年)アメリカの臨床心理学者で、来談者中心療法(Client-Centered Therapy)を創始。カウンセリングの研究手法として現在では当然の面接内容の記録・逐語化や、心理相談の対象者を患者(patient)ではなくクライエント(来談者:client)と称したのも彼が最初。
 フレデリック・パールズ(1893‐1970)ユダヤ人の精神科医、フレデリック・パールズ(フリッツ・パールズ)と妻のローラによって創始されたゲシュタルト療法は、問題の原因を過去に求めるのではなく、身体感覚も含めた「今、ここ」での深い気づきを目指すところに大きな特色がある。
 アルバート・エリス(1913‐2007)アメリカの臨床心理学者であり、論理療法(Rational Therapy:RT)の創始者として知られる。論理療法とは、不合理な信念を持つ人に自問自答を促進させ、その応答を論議していくことで不合理な信念からの束縛を解く統合的手法。
 両方共にビデオの逐語録が出版されてますので、興味を覚えた方は検索して見てください。人との言葉のキャチボールで変化して行く過程は、実に面白いものです。特に三人のセラピストは、一人のクライエントに対して立場を異なる三人のセラピストの関わりでグロリアは、同じ悩みを話しているのに言葉のキャッチボールに違いが出ます。三人三様の手法には目を見張る物があります。一度視聴あれってとこですね。
 もう一つカウンセラーとクライエントの例え話に、このようなお話があります。CというクライエントがA氏とB氏と云う二人のカウンセラーと面談します。数回もの面談の末についにCさんが、A氏B氏それぞれのカウンセラーに「分かりました、先生がそんなに言われるのなら、やってみましょうか?」と云いその回の面談は終了します。A氏はやっと労が報われる時が来たと有頂天。B氏は泰然自若と平然としている。次の面談日が来て、A氏はどうなったのか結果が気がかりでしょうがなく、誘導して結果を聞きだようとするが、巧みに逸らされてしまう。B氏はその件に触れることも無く淡々と面談は進む。Cさんは自責の念に駆られたのか面談の最後に、「先生、前回約束した事なんですけど」・・・・沢山の出来なかった理由を並べた挙句「出来ませんでした」と告げる。B氏は、「そうでしたか」と一言告げ「それでは、次回の面談で」と平然としている。方やA氏は、ガッカリして、怒りすら頭を過り「あんなに約束したではありませんか」と怒り気味。同じ事を体験したA氏とB氏なのにA氏は怒りを感じB氏は感じてないのは何故でしょうか?考えてみましょう。
 それは、B氏は知っていた事が有ったからなのです。心理学の統計上、人は「やってみましょうか」「やってみます」と云った時には90%はやらないと云うデーターがあることを知っていたからなのです。
 そうするとA氏の怒りは、どうしても怒らなければならなかった事なのでしょうか? 私にはA氏は認識不足で怒りを覚えなくとも良いシーンなのに勝手に怒ってる様にしか思えませんが如何でしょうか?
 前回記したように怒りは、逞しく生き抜くために必要な一面もありますが、反面心身に多大な害も及ぼします。A氏のような無駄な怒りは発しない方が得な様ですね。
 今、怒ってる貴方、その怒りは正しい怒りですか?その悲しみは、どうしても悲しまなくてはならない悲しみですか?その恐れは不必要な恐れではありませんか?もう一度確認してみたら如何でしょうか?
 太閤秀吉の時世の句は、「つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事もゆめの又ゆめ」と詠んでいますが、現実を知り再点検、再認識も必要ですね。

                                   つづく

 

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