ハッカの香りに誘われて
夏のオホーツクに初めて来ました。
旭川から北見山地の峠を抜けると、それまでの空気がガラッと変わります。
涼しく通り抜ける北の風。
広大な土地に青空が広がる風景は、本州に馴染みのない新鮮なものばかりです。
峠を通り抜けて真っすぐ伸びる国道39号線を進むと、程なくして北見市に入ります。
オホーツク圏の中心都市、北見市はハッカ(薄荷)の生産で日本一となった街です。
ハッカといえばスッとした香りの植物ですが、私はサクマドロップスのあの白くて辛い飴のイメージが強いです。
パインやいちごの飴と一緒にハッカを食べてしまって、美味しくないので急いで噛み砕いていた幼少期を思い出します。
そんなハッカの歴史と町の発展がどのように関わってきたのでしょうか。
今回は北見市にあるハッカ記念館に足を運んでみました。
入口に立ってすぐに見えるこの建物は昭和初期、北見薄荷工場が作られた際に作られたもので、当初は薄荷研究施設として使われていました。
中に入ると、いたるところに西洋風の装飾が施されており、気品が漂います。
そもそもハッカとはシソ科ハッカ属の植物の名前で、英語ではミントといいます。
主成分のメントールには皮膚刺激を与える作用や冷感作用があり、清涼剤として利用されています。
日本におけるハッカの最も古い記録は「本草和名」という平安時代の書物です。本草和名は中国の薬草の名前を日本語に直したいわゆる薬草辞典でした。
当時貴族の間でハッカは山菜として食べられていたそうですが、やがて胃腸薬や鎮痛剤として使われ始めます。きっと美味しくはなかったんでしょうね。
ハッカが栽培されるようになったのは江戸時代です。その頃、ハッカからハッカ油を抽出する方法を独自に得ていたようです。
ハッカの葉や茎を乾燥した後、蒸溜させて抽出した液体をハッカ油といい、見た目が油のようですが、油ではありません。
ハッカ油の抽出は収穫量のわずか2%ほどにしかなりません。ハッカを草のまま輸送するより遥かにコンパクトになるため、基本的には産地でハッカ油を生成します。
ちなみに、薄荷という文字はハッカからハッカ油を抽出すると荷(ハッカ)が薄く(軽く)なるので薄荷という字になったという説がありますが、定かではありません。
生産が本格化したのは明治時代のことです。
国内ではすでに岡山や山形などで栽培されていました。ハッカは寒さに強く栽培が容易だったため、当時開拓途上だった北海道でも試験栽培が始まります。その後試行錯誤を経て、現在の北見周辺でハッカ栽培が始まります。
ハッカの生産は利益率が高く、ハッカ油は高価な取引がされていました。
北見では冬の間は近くの港が使えず、陸路も現在のように発達していなかったため、嵩張らずに物を輸送できることが好都合でした。
また、北見周辺には栽培できる広大な土地があります。このような条件が重なり、開拓農家の副業として、北見でハッカ栽培が爆発的に広まります。
そして野付牛(後の北見市)に生産量世界トップとなる薄荷工場が作られることとなりました。
世界の7割以上のハッカがここ北見で作られており、特にハッカ農家の利益は莫大なものでした。
しかし、それも長くは続かず、戦争によって嗜好品の制限がかかるとハッカの生産も途絶えてしまいます。
戦後になって多少は持ち直すものの、ブラジルなどから安いミントが輸入され始めます。北見のハッカは徐々に右肩下がりになっていきました。
高度経済成長期になると、石油からハッカの主成分であるメントールが抽出できるようになり、ハッカ草を用いない「合成ハッカ」が市場に出回り始めます。
ハッカを栽培するより安く大量生産できるため、特に北見ハッカの衰退は時間の問題でした。
1983年に北見ハッカ工場は閉鎖となり、北見でのハッカ生産は幕を下ろしたのです。
現在はハッカを利用した製品のほぼ9割が合成ハッカを使用しています。
記念館を出て隣の建物は薄荷蒸溜館です。ハッカ油が作られる工程を見学することができます。
館内に足を踏み入れると、薄荷の清涼な香りが鼻をくすぐります。
できたてのハッカ油を手に取ると、鼻を抜ける香りと皮膚がスーッと涼しく感じます。
記念館の周りには様々なハッカが植えられており、近づくとその香りを楽しむことができます。
ハッカの栄枯盛衰を見つめてきた北見の街に、ロマンの香りを感じた旅でした。