見出し画像

蜃気楼の行方

 彼がその決定的な違和感に辿り着いたのは今日の昼のことだった。
 彼は昼食をとるために会社の界隈を歩いていた。この間まで春を匂わせていた空気もここ数日で急に夏の湿り気をふくみはじめ、シャツと肌の間にねっとりとわだかまっている。彼は無意識に眉間に皺を寄せ、シャツを肘の上まで雑に巻き上げた。
 普段なら近い部下や同僚と連れ立っているのだが、今日は誰もつかまらなかった。こういう一人の昼食は久しぶりだった。  
 彼はどこに向かうわけでもなく、人並みに乗るように信号待ちの塊の中で歩み止めた。日に照らされたままじっとしていると、皮膚の肌理を這うように汗が体中から滲み出るのを感じた。頭皮からこめかみへ一筋、しずくが流れ落ちた。
 青信号になり歩き出すと同時に、向かいに見えるそば屋へ入ろうと考える。どの駅前にもあるような、食券で注文を受ける簡易な造りのそば屋だった。
 店内に入ると昼時の割に客は少なく、彼は「天ぷら・ざる」と書かれた食券を厨房の若い男にカウンター越しに渡す。奥側の四人掛けの席に座った。
 さっき食券を渡した男とは違う、赤茶けた髪の色をした若い男がやってきて、水の入ったグラスを置く。若い男の手は濡れたままで、グラスもさっき洗ったばかりのように濡れていた。彼は多少の嫌悪を感じながらもその水を飲み干し、机の脇に置かれているピッチャーから新たに水を注ぎ、それも飲み干した。喉の渇きが満たされ、よく効いたエアコンもあって体の火照りが引いていく。深く息を吐きながらグラスを机へ置いた。
 何気なく厨房の方へ顔を向けると、二人の若い男の頭がこちらからは見えない手元を追い、右往左往と忙しなく何か作業をしている。彼は視線を戻し、壁際のにあった「夏季限定メニュー」と書かれたそれ専用の小さなメニュー表を手に取り眺めてみた。「梅とおろしと茗荷とねぎのそば」の夏バテ防止効用を事細かに読み耽っていると、水を持ってきた男がそばの乗ったおぼんを彼の前に置いた。やはりその手は濡れたままで、男の触れていた部分は水滴がいくらか付いていた。
 彼はもう気に留めず割り箸を手に取り、そばを啜り始めた。薬味を足し入れたり天ぷらを頬張りながら冷たいそばを啜っていると、なんとも不思議な感覚に襲われた。ふと、右手に持っていた割り箸にただならぬ違和感を感じたのだ。そもそも自分が右利きだったか左利きだったかわからなくなってしまった。
 わからなくなった?わからなくなったというのとは違う。
 右利きと知りながら、そのことに確証を自分の中で得られなくなってしまったのだ。彼は箸を止めたまま動かせない。目はそばと、箸と、箸を持つ自分の手を行き来している。何か声を発したくなった。声を発さなければこのままどこか異空間に取り残されそうな気持ちになった。
 視線をようやく上げ、辺りを見回すも客はさらに減り、カウンターで汗染みのくっきり浮いた背を丸め、肩を大袈裟に上下させながら何かを啜っている太った男と、カウンター越しで相変わらず見えない手元を追う頭が右往左往しているだけだった。
 彼は喉元でくすぶるものを飲み込んだ。箸を今一度見つめ、左手に持ち替えてそばを掴もうとする。しかし掴む以前に器用に扱えず箸同士がどうしてもバツ印に重なってしまう。彼はばかばかしくなった。右利きでないかもしれないというような思い付きをしてしまったことも、それに振り回された自分自身も。
 彼は箸を右に持ち改め、またそばを啜り始める。ずるずる、ずるずる、といくらか啜った後で、また彼の腹部にきゅっと締め付けるような不安が走った。やはり右利きでないのかもしれないという思いが、箸を掴む右手から違和感が拭えないのだ。もはや左利きでないということは右利きだという証明にはなり得なかった。動機が耳の奥で響いていた。その音に耳を澄ますと、血液が重くぬらりと血管内を流れていくようだった。その生温い血の流れを空で追いかけていると、彼は他人の体を借りているような気分になった。もはや自分が自分自身だと証明するようなものは何一つ無いように思えた。
 これから先も、私が右利きだと証明できる日はやってこないまま、左利きで無いことを理由に生きていくのか。思えばそうやって生きてきたのかもしれない。言い訳を重ねるように、決定的な判断を避けてきたのかもしれない。
 辺りを見回すと汗染みの男はいつの間にかいなくなり、若い店員の男達も談笑をしているようだった。 彼はつゆに浸かり伸びてしまったそばを口に入れると、笊の上のそばは残したまま席を立った。
 外は変わらず蒸していて、店内の静けさや冷たさを全てなかったことのようにした。会社へ戻る人の流れの中を歩いていると、さっきの思いさえも悪い冗談だったかのように人波に呑まれて消えていった。そして夏の湿り気だけがまた、彼のシャツと肌の間にわだかまり始めていた。

いいなと思ったら応援しよう!