まんが専門誌『ぱふ』(清彗社)の1979年(昭和54年)10月号【特集 メモランダム手塚治虫】内の30,000字インタビュー「珈琲と紅茶で深夜まで…」より。
手塚氏は当時50歳で、インタビュアーで「企画・構成・制作」の香月千成子氏が20歳、同行している「編集長兼カメラマン」の可部達郎氏が27歳。9月3日の夜8時から1時間の予定で始まり、深夜まで4時間に及ぶインタビュー。
常に「現役」で「最前線」に立ちたいという手塚の欲望の源は何なのかな。
医師の免許を持つ手塚氏は、一般的?なイメージの「熱いヒューマニスト」ではなく、最近、解剖用の遺体を明るいノリでSNSにアップして批判されていた美容外科の女医さんのような?「冷めたマテリアリスト」ではないか⁈
その点を、宮崎 駿監督は手塚没後のインタビューで「神の手」として批判。
「アルチザン(職人的芸術家)」というのは、日本映画では岡本喜八監督がそう呼ばれているし、手塚追悼の『アトムの子』を収録したミュージシャンの山下達郎氏のアルバムタイトルが『ARTISAN(アルチザン)』(1991年)らしい。
唐沢俊一が漫画家の横山光輝氏を高く評価した時の賛辞も「アルチザン」。アルチザンは「技術は優秀であるが、芸術的感動をよばない制作をする人を批判的にいう語」なんて解釈も。作品より「前」に作者が出てるのが「アーティスト」、作品の「後ろ(裏側)」にいるのが「アルチザン」と理解した。
私はジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)監督の映画は、代表作でも何でもない『にんじん』と『自殺への契約書』の2本だけビデオで観たが、特に強い印象は無い(良くも悪くもない)。日本では敗戦時(1945年)に若者だった世代に受けた?? 《日本では彼の作品が戦前から異常なほど人気があり、映画史研究家ジョルジュ・サドゥールによれば、「この監督は、東洋の一小国だけにおいて、熱烈な観客がいる」と言わしめているほどであった。》 ↓
↓『大アンケートによる洋画ベスト150』では「監督ベストテン」の第3位。
↓「ニヒリズム(虚無主義)」「懐疑主義」「冷笑主義」の違いがわからない。
■宮崎 駿監督の「先達・手塚治虫」批判(1989年)
『COMIC BOX(コミックボックス)』(ふゅーじょんぷろだくと)の1989年(平成元年)5月号の追悼特集【ぼくらの手塚治虫先生】に収録の「宮崎 駿・特別インタヴュー」で【手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した。】
少年時代に手塚の影響を受け、漫画家(アニメ作家も?)として大成してから「〈内なる手塚〉との葛藤(超克)」を表明していたのは、宮崎 駿以外で私が知っているのは、赤塚不二夫と楳図かずおがそうだったと思います。藤子・F・不二雄にとっては師弟関係か。ある世代(の多く)の漫画家・アニメ作家にとっての手塚は「教師(恩師、先達)であり、越えるべき壁(ライバル)」か。
●手塚治虫(1928-1989) ※17才(敗戦時(1945年)の年齢)
●藤子・F・不二雄(1933-1996) ※12才
●赤塚不二夫(1935-2008) ※10才
●楳図かずお(1936-2024) ※9才
●宮崎 駿(1941-) ※4才
■手塚治虫の本インタビューを収録(再録)している雑誌/書籍・3冊
初出誌の『ぱふ』を含めて、合計3冊あります。私はこの手塚のインタビューが「一部(マンガ通?)で話題になった」と知ったのは、発行から10年以上たって古本屋で買った『漫金超』(1980~1981年)という、最近亡くなられた村上知彦氏が編集長を務めたニューウェーブ系漫画誌のコラム(亜庭じゅん?)。
◆『ぱふ』(清彗社) 1979年(昭和54年)10月号 ※初出誌
◆『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと) 1989年(平成元年)5月号
◆『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版/2021年) ※未確認
↓いしいひさいちが「少女漫画ばかり買う」村上知彦を描いた四コマ漫画。
◆『ぱふ』1979年10月号【特集 メモランダム手塚治虫】の表紙と目次など
◆『COMIC BOX』1989年5月号【特集ぼくらの手塚治虫先生】の表紙と目次
◆『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版/2021年)
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