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手塚治虫が語った【悪役と正義の味方】+宮崎 駿監督の「先達・手塚治虫」批判

まんが専門誌『ぱふ』(清彗社)の1979年(昭和54年)10月号【特集  メモランダム手塚治虫】内の30,000字インタビュー「珈琲と紅茶で深夜まで…」より。
手塚氏は当時50歳で、インタビュアーで「企画・構成・制作」の香月千成子氏が20歳、同行している「編集長兼カメラマン」の可部達郎氏が27歳。9月3日の夜8時から1時間の予定で始まり、深夜まで4時間に及ぶインタビュー。
常に「現役」で「最前線」に立ちたいという手塚の欲望の源は何なのかな。



手塚 僕はね、職人ですよ。徹底してアルチザン(※職人的芸術家)だな。ぼくの尊敬してるのはデュヴィヴィエ(※フランスの映画監督)なんだ。彼の映画は本当に子供の時から見ててね、あんなに手をひろげているくせにひとつひとつが全部まとまっていて、しかもあのひとの個性あふれたね、商品にしあがっているなと思って。それで、是非デュヴィヴィエの生きかたを踏襲しようと決めたんですよ。つまり、あのひとは本当にオプティミズム(※楽観主義)の映画から、ペシミスティック(※悲観主義的)な映画まで幅が広いでしょ。そこら辺の開きをどういう風に料理するのかっていうと、やはりあのひとはものすごく自分を大事にする職人なのね。_僕もそういうものをつくりたいなって思ったのは、まんがっていうのは本当にファッションだと思ったのね。その時代のその感性に一番ぴったりしたものを描いていけば、まんがとしては一番納得いくんじゃないかと思う。それにはね、どの時代にもわりとていよく使えるキャラクターをつくっておくと一番得だな、と思ったんです(※手塚が命名した“バンクシステム”と同じ⁉)。だから、ヒゲオヤジ(※手塚漫画の常連キャラクター)にしても、いろんな役するでしょ。要するに、自分てものがないんですよ。ヒゲオヤジの思想はどうかというと、何もないんですね。ランプ(※手塚漫画の常連キャラクター)だってそうだよ。ランプっていうのはね、さめてるでしょ、いつでも。あれは俺じゃないかな、という気がするのね。というのは、僕は自分でストーリーつくっててもなんか話のなかにのめりこめないのね、どうしても客観的にストーリーを見ちゃうんです。だから、何でも主人公本位じゃないでしょ。主人公をどんどん殺しちゃったりね。どちらかというと、お話の方に重要性があるのね、僕の場合。このキャラクターが本当に好きでね、彼こそ造形化された自分の心情だ、なんて思うことできないのね。結局、ちょっとそのキャラクターをつらいめにあわせたりしちゃってね。(笑)~~~_僕は一時、アトムでも何でも、「手塚ヒューマニズムは鼻もちならん」とか「楽天主義でアナクロ(※時代錯誤)だ」とかいろいろ言われたことがあって、そのころの作品を今読みかえしてみると、悪役が本当に精彩ないのね。正義とかヒューマニズムが先にたっちゃって、つまり赤胴鈴之助とか月光仮面とかね、やたら正義がもてはやされた時代があったでしょ。そういう時代に僕のつくったものっていうのは、とにかく悪役よりも正義の味方の方がやたら強いわけですよ。それが僕は、描いてていやでね。そういう時、一番精彩ないのね僕のまんがっていうのは。~~_まんがってのはやっぱり楽しんで描かなきゃだめで、正義の味方がほめそやされて正義の味方ばっかり描いていたら、とてものらないですね。その時はいいですよ。でも、今読みかえしてみるとね。大体、今の読者にはうけないですね。~~~でね、ヒゲオヤジも悪役にしたくて、しょうがないわけ。(笑) だから、時々なってるんですよ。_それはね、ぼくの感性のなかに若いころ裏切られたことが多すぎてね、最近も確かにずいぶんあるんだけど、特に子供のころね、信じこんでいたものがずいぶんひっくりかえされて。その辺の、さめたというか、シラけたというか、あきらめたみたいなものがあるんだろうな。意識はしないけれどね。どうせ、こういう正義を描いたって、誰かから見ればエゴイズム(※利己主義、自己中心主義)じゃないかってね。_たとえば「光」ってまんがね。あれは、徹底して浪花節を描こうと思って描き始めたんだけど、描いててつらくてつらくてね。丁度、石原裕次郎とか赤木圭一郎とかが活躍したころでね。最後の方で「僕は悪と闘うためにどこまでも行くんだ」っていうセリフを言わせたけど、描いてて本当につらくてね。何言ってやんでぇ、とね。もう、自己嫌悪を感じたね。~~民主主義っていうのはね、僕はどういうことかよくわからんのですよ。いつでも言われるんですけどね。僕等があのころ(※敗戦後?)に受けとった民主主義っていうのは、決して楽天的なものじゃなかったね。全体主義よりつらい、という感じ。~~_僕のまんがから戦後民主主義というものを感じる人がいるとしたらね、さっき言った職人的な打算ということでね。意識的に正義の味方みたいなものを他の人をまねて描きだしたのがもとじゃないかと思う。~~_僕のまんがで「鉄腕アトム」とか「ジャングル大帝」を毛嫌いしている人でもね、初期の「ロスト・ワールド」とか「メトロポリス」とかは評価してくれるんですよね。なぜかというと、そこには彼らが嫌いな民主主義というものがなくて、わりと運命主義的なね、ニヒリズム(※虚無主義)なんです。あまり思想とか主義にこだわらずに自分の運命にただ立ちむかって死んでいくようなね、そういう主人公が本当は僕は一番描きたい。~~~_今までの悪役っていうのは、あれは悪魔でしょ。だけど、今悪役を見る目っていうのは「あれは俺かもしれない」ってことだと思う(※未見だが、映画『ジョーカー』みたいな?)。そういう身近さみたいなものを感じてるから、結局それは悪人でなくなってしまう。~~_これがキリスト教国家だとね、悪っていうのは悪魔しかいないのね。だから、キリスト教国家には悪という存在はいまだに厳然とあるのね。日本には神と悪魔という思想はないけれど。つまり、堕天使ルシュファの系統にあたるものが日本にはないのね。だから、悪というとすぐ悪代官とか悪大名とか、なまぐさくなっちゃうのね。カラッとしてドライで、神の存在に匹敵するような絶対的な悪がないのね。

」は省略の意味で使用。「」は引用者の加筆


医師の免許を持つ手塚氏は、一般的?なイメージの「熱いヒューマニスト」ではなく、最近、解剖用の遺体を明るいノリでSNSにアップして批判されていた美容外科の女医さんのような?「冷めたマテリアリスト」ではないか⁈
その点を、宮崎 駿監督は手塚没後のインタビューで「神の手」として批判。


アルチザン(職人的芸術家)」というのは、日本映画では岡本喜八監督がそう呼ばれているし、手塚追悼の『アトムの子』を収録したミュージシャンの山下達郎氏のアルバムタイトルが『ARTISAN(アルチザン)』(1991年)らしい。
唐沢俊一が漫画家の横山光輝氏を高く評価した時の賛辞も「アルチザン」。アルチザンは「技術は優秀であるが、芸術的感動をよばない制作をする人を批判的にいう語」なんて解釈も。作品より「前」に作者が出てるのが「アーティスト」、作品の「後ろ(裏側)」にいるのが「アルチザン」と理解した。


私はジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)監督の映画は、代表作でも何でもない『にんじん』と『自殺への契約書』の2本だけビデオで観たが、特に強い印象は無い(良くも悪くもない)。日本では敗戦時(1945年)に若者だった世代に受けた?? 《日本では彼の作品が戦前から異常なほど人気があり、映画史研究家ジョルジュ・サドゥールによれば、「この監督は、東洋の一小国だけにおいて、熱烈な観客がいる」と言わしめているほどであった。》  ↓

↓『大アンケートによる洋画ベスト150』では「監督ベストテン」の第3位

_日本人はデュヴィヴィエが好きである。それは国際的、あるいはフランス国内での冷淡な評価から考えれば異常なほどだ。それは彼独特のペシミスティック(※悲観主義的)な描写が、日本人の心情にぴったりくるせいだろうか。_しかしデュヴィヴィエの全盛期、ことに『商船テナシチー』から『舞踏会の手帖』までの四年間の珠玉の作品群は、とてもペシミズムのひと言で片付けられるものではない。『白き処女地』での極寒のカナダ山中に訪れる春の息吹。『我等の仲間』の鮮やかな初夏の陽光。デュヴィヴィエの描くラストシーンは、絶望的な結末を提示してなお新たな生命の匂いを感じさせる。また霧にむせぶルアーブルの港町や、混沌にみちたカスバの街など、その舞台設定の見事さとそれを的確に見せる演出力は、他のフランス人監督の及ばぬところである。だが、彼の傑作を支えている最大の存在は、やはり彼自身が見いだした俳優ジャン・ギャバンであろう。

『大アンケートによる洋画ベスト150   文藝春秋編』(1988年/文春文庫ビジュアル版)の400-401頁


バンクシステム(bank system、造語)、略してバンクとは、映像作品、中でもアニメや特撮において、特定のシーンの動画、あるいは背景を"バンク"(銀行)のように保存し、別の部分で流用するシステムである。 ↓


↓「ニヒリズム(虚無主義)」「懐疑主義」「冷笑主義」の違いがわからない。

冷笑主義は他者への不信感からか、悲観主義や虚無主義と混同されることが多い。両者の違いは、冷笑主義が慎重さによる不信感であるのに対し、悲観主義は敗北感に基づいた成功の可能性への不信感のことである。虚無主義は、人生に価値ある意味があると信じることへの不信感である。 ↓


■宮崎 駿監督の「先達・手塚治虫」批判(1989年)


COMIC BOX(コミックボックス)』(ふゅーじょんぷろだくと)の1989年(平成元年)5月号の追悼特集【ぼくらの手塚治虫先生】に収録の「宮崎 駿・特別インタヴュー」で【手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した。

_手塚さんの特集だそうですが、悼む大合唱はたくさんあるだろうから、それに声を揃えて一緒に大合唱をする気は、ぼくにはないです。_要するに、手塚さんを神様だと言っている連中に比べてずっと深く、関わっているんだと思います。闘わなきゃいけない相手で、尊敬して神棚に置いておく相手ではなかった。手塚さんにとっては、全然相手にならないものだったかもしれないけど。やはりこの職業をやっていく時に、あの人は神さまだと言って聖域にしておいて仕事をすることはできませんでした。_まずぼくが手塚さんの影響を強くうけたという事実がある。小中学生の頃のぼくは、まんがの中
では彼の作品が一番好きでした。昭和20年代(※1945~1954年)、単行本時代――最初のアトムの頃――の彼のまんがが持っていた悲劇性は、子ども心にもゾクゾクするほど怖くて、魅力がありました。ロックも、アトムも、基本的に悲劇性を下敷にしていたでしょう。それから、18才を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思った時に、自分にしみ込んでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。_ぼくは全然真似した覚えはないし実際似ていないんだけど、描いたものが手塚さんに似てると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。どうも、次男に生まれたせいだと思うしかないけど、長男の真似をしてはいけないと思っていた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるを得なかったとき、箪笥(たんす)の引き出しに一杯にためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて……。~~ぼくが、いったいどこで手塚さんへの通過儀礼をしたかというと、彼の初期のアニメを何本かみた時です。それらが持っている安っぽいペシミズム(※悲観主義)にうんざりした。要するに、残骸がそこにあった。いくつかある小さな引き出しの中で昔使ったものを開けてみて、ああこういうのもありましたよ、と出してきて作品に仕立てたという印象しかなかったんです。_それより以前に、『ある街角の物語』(’62・11)という、虫プロが最初に総力を挙げてつくったというアニメーションで、それをみた時にぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました。_意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の“神の手”を感じました。昭和20年代の作品では作家のイマジネーションだったものが、いつのまにか〈手管(※てくだ=遊女が客をだます手際)〉になってしまった。_これは先輩から聞いた話ですが、『西遊記』の製作に手塚さんが参加していた時に、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が悟空が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれど何故その猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知った時に、
もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。_ぼくの手塚治虫論は、そこまでで終りです。_そのあと、アニメーションに対して彼がやった事は何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います。~~自分が義太夫(※ぎだゆう)を習っているからと、店子(たなこ)を集めてムリやり聴かせる長屋の大家の落語がありますけど、手塚さんのアニメーションはそれと同じものでした。~~全体論としての手塚治虫をぼくは、“ストーリィまんがを始めて、今日自分たちが仕事をやる上での流れを作った人”としてきちんと評価しているつもりです。だから、公的な場所や文章では『手塚治虫』と彼のことを書いていました。――ライバルではなく先達ですから。『伊藤博文』と書く
のと同じで過去の歴史として書いた――とにかく、そういう評価は間違っていないつもりです。_だけどアニメーションに関しては――これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますが――これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。~~亡くなったと聞いて、天皇崩御の時より『昭和』という時代が終ったんだと感じました。_彼は猛烈に活動力を持っている人だったから、人の3倍位やってきたと思う。60才で死んでも180才分生きたんですよ。_天寿をまっとうされたんだと思います。      於 吉祥寺・スタジオジブリ3/17


少年時代に手塚の影響を受け、漫画家(アニメ作家も?)として大成してから「〈内なる手塚〉との葛藤(超克)」を表明していたのは、宮崎 駿以外で私が知っているのは、赤塚不二夫楳図かずおがそうだったと思います。藤子・F・不二雄にとっては師弟関係か。ある世代(の多く)の漫画家・アニメ作家にとっての手塚は「教師(恩師、先達)であり、越えるべき(ライバル)」か。

手塚治虫(1928-1989) ※17才(敗戦時(1945年)の年齢)
藤子・F・不二雄(1933-1996) ※12才
赤塚不二夫(1935-2008) ※10才
楳図かずお(1936-2024) ※9才
宮崎 駿(1941-) ※4才


■手塚治虫の本インタビューを収録(再録)している雑誌/書籍・3冊


初出誌の『ぱふ』を含めて、合計3冊あります。私はこの手塚のインタビューが「一部(マンガ通?)で話題になった」と知ったのは、発行から10年以上たって古本屋で買った『漫金超』(1980~1981年)という、最近亡くなられた村上知彦氏が編集長を務めたニューウェーブ系漫画誌のコラム(亜庭じゅん?)。

◆『ぱふ』(清彗社) 1979年(昭和54年)10月号 ※初出誌
◆『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと) 1989年(平成元年)5月号
◆『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版/2021年) ※未確認

↓いしいひさいちが「少女漫画ばかり買う」村上知彦を描いた四コマ漫画。

村上の漫画批評の単行本『黄昏通信』(1979年/ブロンズ社)の「本の帯」に掲載。文庫判あり。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07F11QDP8


◆『ぱふ』1979年10月号【特集 メモランダム手塚治虫】の表紙と目次など

「メモランダム」とは「覚え書き」「備忘録」という意味らしい。表紙のイラストは「真崎 守」。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07F7BRXW4
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◆『COMIC BOX』1989年5月号【特集ぼくらの手塚治虫先生】の表紙と目次

『ぱふ』のインタビューの再録を、実質的な後継誌?の『コミックボックス』の手塚追悼号に掲載
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呉 智英、藤田 尚、米沢嘉博、村上知彦、喰始の五人による【座談会「手塚治虫」検証】も必読
https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1047101678


◆『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版/2021年)

IV 同時代の日本大衆文化論
紙芝居の確立 加太こうじ
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太平記――意志的人間 山崎正和、司馬遼太郎、陳舜臣
〝歌笑〟文化 坂口安吾
村上龍・芥川受賞のナンセンス─サブ・カルチャーの反映には文学的感銘はない 江藤淳
日本と私 江藤淳

https://www.amazon.co.jp/dp/4778317351/


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