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マンガの【感想】と【批評(評論)】

COMIC BOX(コミックボックス)』1991年3・4月合併号に掲載されている特別座談会【まんが評論に何が可能か】より。参加者は呉 智英藤田 尚村上知彦米沢嘉博才谷 遼(編集長)の5人。この号には「黒人差別をなくす会」による抗議を受けた出版社の対応をめぐり「識者」「まんが家」へのアンケートの回答が掲載(計10頁)。少しだけ読みましたが、色々と考えさせられる。「答え」は持ってませんが。「キャンセルカルチャー」に通じる話??


特別座談会【まんが評論に何が可能か】



・まんが評論は必要か(←座談会の小見出し)

 評論とは何かという問題なんですが。俺としては、個別的なマンガ評論というよりも評論一般の固有の構造みたいなものを常に考えていて、それ自体が崩れてきてしまっていると見る。これは別に5年10年のことではなくて、大きな流れの中で崩れてきている。常にそこのところに戻らないとマンガ評論というより、あらゆる評論は成立しない。だから誰が評論家になるのかという時、評論一般を語れるだけの知識なり、思想なりを持っている人であり、同時にマンガを相当知っている人でないとマンガは語れないわけです。この2つの条件を持っていなければ語れない。これは文学であろうと映画であろうと同じことです。評論の言葉というのは極めて抽象度が高いですから、マンガ評論において成立される論理というのは、その論理の構造自体は文芸評論だろうと映画評論だろうと適用されていく、と俺は考えているんです。我々が使っている評論の言葉及び論理自体が、有効性がなくなってきているのは非常に大きなところで問題があるのではないかと。

米沢 評論がある、というところから話を始めてしまっているけれど、その前にマンガ評論は必要かと(笑)。マンガに関してつねに問題になるのは評論が必要かっていうことじゃないでしょうか。

 それは全てに関してそうなんです。政治評論などは、政治評論なんかは特殊なものだから情報やデータがものをいってくるわけでしょう。その他、国際評論とか特殊な評論、例えば科学評論という世界がありますよね。

米沢 大学で行う研究の機関というのがありますね。でも評論というのとは全然違いますよね。

 だからああいう専門的なものの場合は、大学なら大学、研究所なら研究所でやられていることを一般向けにやさしく語るというのが評論家の使命としてある。これは一種の翻訳の作業なんですね。

米沢 ただ問題なのはその小説にしろ絵画にしろ評論家というもの、評論というのは、いやな言い方だけれども一応認知されています。ところがマンガ評論に関してはつねに必要か必要でないかというところで揺れ動いている。マンガ評論がなぜ育たないのかというのは、役割がはっきりとしないということがあるし読者が常にそういうことを言い続けているからじゃないでしょうか。

 だけど、それは読者に対して逆反論しなくてはいけないわけだ。そういうことを言ったら文学も同じではないかと。読んで楽しめばいいって言うのなら文学も同じではないか。もしそうなら、今君たちが「吾輩は猫である」を読む場合も、面白い面白くないを言えばいいんであって、文芸評論家の言葉はよけいなおせっかいであるということになってしまう。つまり評論が不要だというのがつねに読者にあるというのは、よけいなおせっかいだという声なんです。

藤田 しかもマンガの場合、マンガのほうがやさしくてマンガ評論のほうが難しい(笑)。

 だったら文学もそうですよ。

藤田 でも文学は文字自体が難しくて―

 それは活字が難しいからですね。

米沢 20世紀以降はそうかもしれませんね。

 今20世紀って米沢くんは言ったけれど、逆を言えば、20世紀の我々が過去を見た場合それこそ翻訳者が必要になるわけでしょう。江戸時代のものはそのまま訳せないので。

藤田 注釈がいる。

 だけど「平家物語」なんて今は注釈がいるけれど、昔は琵琶でジャンジャンやって聞かせていたわけだから(笑)。それこそ「平家物語」の評論家なんて当時はいなかった(笑)。そういうの(※評論家?)が出てきたら、「平家物語」に評論はいらない、て言うんですよ(笑)。いらないと言えばあらゆる表現に対して評論家というものはいらないと言える。俺が面白いと思えばいいだろ、俺の勝手だろ、と言えば一切の評論はいらなくなってしまうわけです。その時に評論家を目指す人っていうのは、そうではないレベルのもの、それより抽象度の高い分類概念のもう一ランク上のレベルのものを語らなければいけないわけです。

」は引用者による加筆


・読者にとってのまんが評論

藤田 マンガ家の方に、マンガ評論がつけいるスキがあったともいえる。

米沢 盛り上がってしまったと(笑)。吸いつくしてしまうという。結局傷口をえぐってしまうわけでしょう。

藤田 それがマンガのためによかったかというと、難しいものがある。

米沢 でも読者の中にはその撫ぜまわして気持ちがいいと言っているのが評論だと思う人もいるわけで、一時、少女マンガの評論というのはちょっと見では読者の立場でこういう気持ちよさというかおもしろさというようなものを自分の言葉で語っていって作品にしてしまうみたいなのがありました。

藤田 それが今、パロディにしてしまうほうがもっと楽しいということになって、同人誌がほとんどパロディ同人誌になってしまった。

米沢 パロディも批評も基本的には読んだことに対する、読者からのリアクションですからね。

 抽象度のレベルの問題だと思うんです。パロディだったら等身大でやっているわけでしょう。等身大で批評しているから、自分が楽しんで自分がうけた直接的なリアクションをそのまま作品化している。ところが評論家となるともう1つレベルを上げて普遍性を獲得するために言葉と論理で構築していかなくてはいけない。

米沢 ところがマンガの場合はつねに言葉ではとらえきれない部分があって、それをアニメのパロディとかやおいなどの場合は、一番端的に気持よさをダイレクトに出してきてしまうという。

藤田 しかも好きなものについて語りたいというのが根底にある。

米沢 そうするとミーハーの「私は好きです」の言い合いになってしまうわけで、ではマンガ評論というのは読者にとって必要じゃないのか、では誰にとって必要なのか。

 そこで出てくるのが、これも俺が前から言っていることだけれども、近代啓蒙(※けいもう)主義の問題です。つまり啓蒙主義っていうのは「俺は啓蒙されたくねーよ、奴隷のままでいいよ」て言ったら奴隷に対して「いや、君たちは奴隷の状況から解放されて鉄鎖から解き放たれて、一人一人物を考える市民にならなければいけませんよ」と言いたいんだけれど、さらに、その根拠はあるのかと反問されたら、根拠なんてなにもないじゃない。それと同じ事ですよ。にもかかわらず啓蒙しなくてはいけないときに、なんらかの形の暴力(※強制力?)をもってこざるをえないわけです。例えばそれは学校という制度をもったりとか指導者が民衆を支配する制度を持ったりとかならざるをえない。なんらかの形でソフトな制度にしろハードな制度にしろ制度を持たざるをえないわけです。評論家の場合はソフトな制度しか持ちえないわけですから、自分で暴力をもてないから、それは権威というものになってくるわけでしょう。評論家という権威であり知識人という権威で語ることになってくる。


・誰のための評論か

~~~省略~~~

」は省略の意味で使用


・評論の有効性

~~

米沢 その前の、評論は単なる作品として自立して浮んでいればいいのか、それともなんらかの有効性をもたなくてはいけないのか、という根本的な
部分がかかってくるような気がしますね。

 その有効性ってどの程度の。

米沢 なんらかの力を及ぼす。つまり読者の心理状態なり、読み手なりを変えるとか。つまり啓蒙ですよね。あるいは編集者にこうすればもっと売れるよ、よくなるよという啓蒙をする、作家にもっとこうすればおもしろくなるよ、というような意味での有効性。今、これだけの量のマンガがあって全体がわからない状態だと、評論家というのは指標というか、これはおもしろいよ、こんなおもしろさがあるんだよ、と指導していくような評論家が一番必要になりつつあるような気がするんです。

 それは賛成。さっきも言ったように評論家の作業は、抽象度の高い理論をもち、現代の思想が無効になっている中で、思想を再構築しなくてはならないのだけれど、それはもっともだけれども、同時にそれならものすごい抽象度の高い評論理論をもっていれば、そのまますべてに適用されるかというとそうはいかない。具体性を持たざるをえない。小林秀雄(※文芸評論家/1902-1983)がいかにすごい評論家であってもマンガについては知らない
のだから語れない。やっぱりある程度は知らないといけない。そのある程度が今マンガはものすごく巨大になっているから、そのある程度が相当な程度
なんですよね(笑)。

村上 今なにを選んでみせるか、なにを切りとってみせるか、みたいのがものすごく大事になっていると思うんです。誰もマンガの全体像が見えていないときに、もちろん自分だって見えているわけではないのだけれど、少なくともここは見えたぞ、という。部分を語ることによって仮説としての全体像を提示してみせる。そういう抽象化の作業をやっているんだと思う。

~~

」は省略の意味で使用


・まんが評論の影響力

米沢 手塚治虫なんかが言っていたけれど、結局、つげ義春や白土三平は評論家によって悪くなったっていう、言われかたをされてしまうわけで。

藤田 影響力があるということで逆にマイナスに働くことがある。

 それは描き手のほうから言ってみれば、不特定多数のミーちゃんハーちゃん(※ミーハーなファン)一〇〇〇人に支持されるよりは、一人の見識がある、実際はあろうがなかろうが見識があると思われる人によって評価されたほうが、なんかうれしいわけですから。

米沢 指標を示してくれる…(笑)。

 言葉の説得力があるわけですから。ミーちゃんハーちゃんの一〇〇〇人は「先生のステキでーす」としか言えないけれど、こっちはこうこうこうだからって言えるから、描いているほうもそういう気がしてくる。

米沢 でもミーちゃんハーちゃんの「好きです」を素直にうれしく受けとめる部分もあるわけでしょう。

藤田 もっと極端に言ってしまえば、お金を払ってくれる人はすべてうれしい(笑)。

 だからそこが作家の難しいところで、つげ義春は評論家がダメにしたと手塚治虫は言っているけれど、つげ義春はどっちみちああにしかなりえなかったんですよ(笑)。ではつげ義春は評論家が言わなかったらもっと精力的な流行作家になれたかというと、なれなかったと思う。

米沢 ただ、実作者がそういうふうに言ってしまう。実作者であれだけ見識のあった人が言ってしまうと、それなりにわかってしまう(※説得力を持ってしまう?)んです。

才谷 手塚治虫さんの言葉には裏がある(笑)。

 あの人は、自分自身、作家でありある意味で評論家だったわけです。マンガをリードしてきたわけですから。ところがある時点で評論家という専業が出現してしまったでしょう。そうすると、手塚は、自分の評論家として役割に対するエネルギーの投下と、それにみあった効果というのがでなくなったので、それに対するあせりがつねにあったはずです。

米沢 しかも自分に対するアンチという形で(※マンガ評論が?)でてきたから。

 特に当時の評論家は劇画のほう(※劇画推し?)だったから


・まんが評論で必要なもの

才谷 さて、マンガ評論で一番必要なのはなんですか?

 それは人によって違うと思います。評論の役割もいろいろと細分化されて、スペシャリストとか思想の根源を問うとか。俺の場合は後のほうで言っているわけです。つまり、俺の評論はマンガにも適用できる普遍的評論であり、同時に文学にも映画にも適用できる評論である。今、自分にとっての課題は設計図問題である。ところが設計図だけでは具体的に家は建たないから、家の材料としてのセメントとか鉄筋に関しても知っている。つまり、個々のマンガを知っている。基本的には設計図に流れている思想を読者に知ってほしいんです。でも時々はセメントの良し悪しとか(笑)、セメントはこういうセメントがいいですよ、という話もあるわけです。基本は設計図です。

米沢 求められるものは結局そうなってしまうわけで、結局時評とか書評とか社会現象になったものの分析とか――

村上 “今なぜ読まれているか”というのが一番多いですね。

才谷 書きたいものと違う?

米沢 そうです。書く場所も3枚5枚とかだとそれしか書けないわけで。ところが今度は読者とマンガの関係論であるとか、作品の本当の意味での分析とか、マンガ総体の中での位置づけとか、そういうものはやっても意味がないし誰も読んでくれないし書く場所もないと。

藤田 マンガ評論には需要がないと。

米沢 需要のある評論というのは、さっき言ったようなレポートであったり、時評書評であったりするわけで、たぶんこれから必要となってくるのはさっき言った意味でのガイドブック、案内人。そういう種類のものは必要とされてくるだろうけども、本当に書かなくてはいけないとか、あっていいような評論というのが、どこにも必要とされてないのではないか。

 それを言うなら文学だって映画だってさして違いはない。

米沢 それを細々とした同人誌とか文芸誌でやっているわけでしょう。

 それは彼らが長年培(※つちか)ってきた権威の集積、いわば大英帝国の歴史があるからそれはできるわけで。

米沢 だからそれはさっき評論というのが認知されているというのはそういうことを言っているんです。歴史とそれまでにきっちりした評論があって…。ところがマンガというのはつねにそれがないし、新参者だしその上読者はみんな評論家だし、おもしろければいい世界だし(笑)。

 今あなたが言ったように「新参者」というのが一番大きいでしょう。マンガの場合は、例えば過去のものでも、「忍者武芸帳」(※白土三平)とか「喜劇新思想大系」(※山上たつひこ)とかの定番名作が普通の人にでもわかるでしょう。ところが文学の場合だと「ホメロス」を読もうと思ったら、今は翻訳ができているけれど、それでもなかなか読みにくい。ギリシア原典だからってギリシャ人が読めるかといったら彼らすら読めない。間に仲介者、紹介者の助力があって読めるわけだ。マンガはちょっと気を付ければ古典から現代まで全部読めてしまうわけです。だから専門家がいない、そのために専門家に対する敬意がはらわれない。そこが新参者の大きな特徴ですよね。


・評論家の役割

~~~省略~~~


・新人はなぜ出ない

―― 新人に関して言えば、発表の場という問題もあると思いますが、でも、例えばまんがの全体の広がり方を考えれば、いくら発表の場がないといっても、もっと若い世代の評論家がでてきてもおかしくないんじゃないですか。うちはマンガ情報誌ですから、載る場がないと言っても、うちには応募してもおかしくないんです。ところが全然こなくて呉智英さんが業(※ごう)を煮やして賞を作ってしまった。

 基本的に俺は、世代論というのはあまり信用しないのだけれど、これに関しては、ある程度世代論で説明がつくと思うんです。今の若い人たちが自分の中の思いなり思考なりを表現するときに、評論とかそういう形でものを言ったり考えたりする訓練をしていないし、その必然性を与えられていなかったんです。例えば、俺たちの世代では学生運動なんかが盛んだったので、何も考えていなくても「おまえは何を考えているんだ」と言われたら、一応論理的に言わないかぎりバカにされた(笑)。

藤田 マンガ自体も迫害されていたから理論武装をする必要があった(笑)。

 理論をつくる必然性がないと、なかなか理詰めでは考えない訳です。


・評論は設計図

~~~省略~~~


※座談会を読んだ私の雑な「感想」


個人的に印象の薄かった座談の部分は省略しました。私自身は漫画でも映画でも鑑賞後に「面白かった」「イマイチ」ぐらいしか書けないが、かといってそのことに不満はありません。【感想(雑感)】を、自閉的で自己完結的な「方言」だとすると、【評論(批評)】は、フランケンシュタイン博士が古い言葉をツギハギして生命を与えた独り歩きする「理想的な言語(の怪物)」となるか。【感想】が雑草(自生)なら【評論】は生け花、盆栽(人工的な自然)。


※座談会出席者の「漫画評論」「漫画史」本の書影コレクション


私が読んだ(所有している)ものに限りました。画像はネットからの拾い物。


◆呉 智英『現代マンガの全体像』(1986年/情報センター出版局)

文庫版あり
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=468892636


◆呉 智英『マンガ家になるには』(1983年/ぺりかん社)

https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1092773681


◆呉 智英『マンガ狂につける薬』(メディアファクトリー)シリーズ・全4冊?

私は「マンガと一般書籍」の2冊を毎回関連付けて語る本シリーズは理解しやすい良書だと思う。
https://www.amazon.co.jp/dp/4840118612/


◆村上知彦『黄昏通信』(1979年/ブロンズ社)  ※文庫版あり

「本の帯」の4コマ漫画は村上氏と親しい?「いしいひさいち」の作。↑の男性は村上氏がモデル。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07F11QDP8/


◆米沢嘉博『戦後SFマンガ史』(1980年/新評社)  ※文庫版あり

表紙のイラストは米沢氏が大ファン?である「吾妻ひでお」
https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1209948180


◆米沢嘉博『戦後ギャグマンガ史』(1981年/新評社)  ※文庫版あり

https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1207387089


◆村上知彦+高取 英+米沢嘉博『マンガ伝』(1987年/平凡社)

私は↑この本で「宮谷一彦」を知り興味を持った。↑表と↓裏の「2コマ漫画」は、いしいひさいち
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t1124168145
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t1124168145


◆竹内オサム/村上知彦【編】『マンガ批評大系』(平凡社)は全4巻+別巻1

私はマンガ批評に興味が無いので、「マンガ家が語る」↑この第4巻だけ大体読んだ。
https://www.amazon.co.jp/dp/4582663044/


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