勉強の2つの側面と授業の在り方について

概要

勉強には,次のような2つの側面がある.

* 技術の習得
* 概念の会得

一斉授業は技術の取得の効率化を目指すものであるが,教師は往々にして概念を教えようとする,というすれ違いが起こっている.

今後,授業は,次のような3本柱で再構築されていくべきではないか.

* 技術の効率的な伝達の場としての一斉授業
* 技術の定着の場としての演習授業
* 概念の会得につながる様々な実践の場

勉強の2つの側面

勉強には,(大雑把に言って)技術の習得/概念の会得という側面がある.

技術の習得とは,例えば,運動方程式を用いて運動を時間追跡したり,熱力学第1法則を用いて熱量を求められるようになることである.

一方で,概念の会得とは,力とは何か,熱とは何かを理解したり,物理法則に因果関係を見出すような解釈を行うことなどである.

あるいは,技術の習得とは,恋人とのデートにおけるエチケットを身に付けることであり,概念の会得とは,恋とは何かを知ることである.

一斉授業は技術の習得を効率化するもの

技術の習得と概念の会得の間に大きなギャップがあることは言うまでもないが,各個人によって会得される概念そのものは同一ではありえないこと,また,会得さえた概念そのものは直接的に言語化できない(私のうちにある「恋」概念とあなたのうちにある「恋」概念が全く一致するなどということはあるだろうか?また,恋とは何か言語で説明することができようか?).

よって,一人の個人たる教師から,多数の生徒への,直接的な言語を用いた伝達を主とする形態の授業(一斉授業)において,生徒に概念を会得させることは困難であり(そもそも教師一個人の持つ概念自体が普遍的ではあり得ない上に,言語でそれを伝達すること不可能であるのだから),一斉授業は,(それに存在意義を見出すためには)確立された技術の伝達を効率化する場であると見なさなければならない.

しかしながら,現実の一斉授業の場では,教師はどうしても概念を伝えたがる(その気持ち自体は自分にもよく分かるのであるが).

例えば,「電場」の単元の授業では,電場がある種の空間の歪みであるといったことを強調したり,近接相互作用・遠隔相互作用の概念を伝えようとする教師が多い.私自身も,できることならそのようなことを生徒に伝えたいとは思う.しかし,私のうちにある「電気」概念は,私の人生のすべてに依拠している.それを,経験の少ない子どもたちに授業と言う限定された場で伝えられるとは到底思えない.そのような概念は生徒自身が,その人生全体での経験でもって個別的に会得するしかないというのが実感である.

したがって,「電場」の単元の授業で教師が生徒に伝えるべきは(もし伝えるべきものがあり得るのだとすれば),「電場の計算法」であるということになる(つまり,「仮想的な単位電荷(試験電荷)の受けるクーロン力」が計算できるようにする).

授業はどう在るべきか

以上より,一斉授業は技術の伝達を効率化することを重視すべきである.

一方で,一斉授業だけで生徒が技術を習得することはもちろんできない.生徒各自の練習と,タイムラグのない適切なフィードバックが重要である.一斉授業の役割を限定し,効率化することによって得られる時間の余裕を用いて,そのようなことを行う授業(演習授業)を設けることは有用であろう(いわゆる「反転授業」の理念にも近いが,必ずしも映像授業を利用する必要はない).

また,概念の獲得は,その後の各個人の人生全体で行われることであるが,それを促すような多少のしかけは準備できるかもしれない.

そのような,一斉授業,演習授業,概念形成のための実践が三位一体となる方向を我々は目指すべきである.

いま,生徒はどう振る舞うべきか

現在の社会で行われる授業のほとんどが以上のようなことを踏まえずに行われていることを鑑みれば,子どもたちは非常に理不尽に時間を無駄遣いさせられていることになる.その現場で子供たちに,一時避難的ではあるにせよ,どのような提案が可能であろうか.

教師が概念を語ろうとしている際,生徒側は分からなくても気にする必要はないということ.つまり,「電場とはある種の空間の歪みである」と言われて,「は・・・?」となっても一切気にしなくてよい.単に,計算技術を習得できさえすればよいのだ,と思っておけばよい(概念が把握できないことにより,その分野に自分は向いてないとか,自分は頭が悪いのではないかと思ってしまう子どもたちがいかに多いことか…).

もちろん,子どもたちは本質的に向上心・好奇心にあふれる存在であるから,概念も会得したくなるはず.その場合,一斉授業に期待するのではなく,技術を習得する中で,自分なりに考えてみる,友だちや恋人や家族や先輩や後輩や教師と話しあってみる,本やインターネットで調べてみることが大切である.

なお,残念ながらと言うべきか,入試をはじめとするペーパー試験で問われるのは「技術の習得」に関する能力だけであることを付け加えておく.

補足①

勉強の2つの側面と言っても,それはもちろん便宜的なものにすぎない.側面は2つだけではないし,勉強の目的や効果を分類するとして,分類の仕方は無数にある.さらに言えば,そもそも勉強とは,全体として捉えるべきものであり,分類という行為そのものが誤りだ,という主張だってあり得る(そして自分もそれに共感する).しかしながら,「浅い」部分でこのような便宜的な分類を行うことが,「深い」部分への誘いとして有効であり,許容される,とここでは判断している(あるいは,便宜的な分解と再構成を通じて,統合された全体としての真理を目指している).

補足②

運動方程式の基本的な解釈は,「力を受けたことにより(原因),速度変化が引き起こされる(結果)」というものである.一方で,人間が「力」概念を獲得したのは,速度変化を捉えたからである,という観点からは,運動方程式は「力の定義式」であるとも言える.

理論上は,まずある種の物体の運動の分析を通じて,運動方程式により力が定義され,今度はその力にまつわる知識によって,他の物体の運動が予言できる,という風に螺旋的に理解するのが正しい(と私は考えている).

また,いわゆる因果関係と異なり,物理学上の「因果関係」は時間の前後関係を含意しない(力と速度変化は同時である).よって,因果という関係性を運動方程式に当てはめること自体が不適切であるかもしれない(と自分は考えている).

いずれにせよ,物理法則の解釈は,静的に定まるものではなく,各個人の人生のあらゆる経験を通じて絶えず揺れ動き,といって発散するのでもなく,言ってみれば「動的平衡」的な状態にあるものである.

補足③

一斉授業では,言語的で一方的なコミュニケーションであるが,実際には教師と生徒との間の非言語的コミュニケーションも同時に行われているのであるから,言語外の何かを生徒が教師から感じ取り(あるいはそれが相互作用的に行われ),概念形成に役立つことは,もちろんあり得る.ただし,概念形成を目的とするのであれば,一斉授業は非効率的でしかなく(一斉授業を通じて,生徒が教師に恋をすれば,それは恋概念の形成に役立つかもしれないが…),もっと相互作用を活発化するような仕組みが他にいくらでもあり得る.特に,映像授業は,概念の会得に関与する効果が圧倒的に低いと推測される.

※ とはいえ,自分の行う授業は,技術の習得を追求するがゆえに,概念の会得に貢献するという構想で行っているのだが,そのことについては,機会を改める.

補足④

近接相互作用・遠隔相互作用の論は,遠隔相互作用に疑問を持ちづらい現代人にとっては,初学時に重要性が分かるような代物ではない.

ファラデイなどの時代と異なり,現代人は磁石と磁石が遠隔相互作用することに問題点を見出さないであろうことから,近接相互作用論の必要性を実感するのは難しいと考えられる.その上,高校物理の範囲では電場そのもののエネルギーを必ずしも理解する必要がなく,遠隔相互作用の立場でも何ら問題は生じない.

また,電場はある種の空間の歪みであるという説明がはびこっていることは,看過できない.なぜなら,重力場と違い,電場による空間の歪みは単なる比喩にすぎないからである(空間にエネルギーが蓄えられることを,ばねが変形して弾性エネルギーを蓄えることに例えている).一般相対論によれば,重力場は実際に時空を歪めるが,電場は時空は歪めない(電磁場のエネルギーが重力場を生み,空間を歪める効果は存在するが,それはまた別の話).不必要に物理学的事実に逆らうような説明は許容されない.

補足⑤

授業の現場では,無理に概念を形成させようとする誤りの他に,技術と概念の混同もよく行われている.

「微分」を例にすれば,微分計算を公式からできること,微分計算を定義に従ってできること,微分とは何か分かること,などなどがごちゃ混ぜになっているのが実情である(「定義が理解できれば,計算できるようになる」というような全く非論理的な主張が,あたかも本質をつくかのように語られることさえある).

技術に関しては,整理・分類が可能であるが,そのような体系化を試みる若手教師が,自称「本質派」のベテランから排撃されることも少なくない.体系化を体系的に行い,そのような無用な攻撃から「正しい」教師たちを守るネットワークのようなものの構築も目指されるべきであろう.

今後,一斉授業で伝えるべき技術の整理,一斉授業の形態,演習授業の形態,概念形成のための実践の可能性の拡がりを,それぞれ個別的かつ全体的に議論していく必要がある.今後,具体的な議論をはじめていきたいが,ここでひとつだけ付け加えれば,技術の習得と概念形成は,実際には互いに絡み合いつつ螺旋的に進んでいくことを忘れずに議論に組み込んでいきたい.

補足⑥

本稿では,重大な疑問に向き合うことを避けている.

技術の習得を効率化しなければならない理由はあるのか?

この疑問に答えられなければ,そもそも一斉授業の存在の基盤が崩壊してしまう.しかし,残念ながら,これに答えることは難しい.ひとつの重大な可能性として,〇〇〇〇があるが,現時点で明言する自信はない.

ここから先は

0字
音声ブログで好評だった内容を整理、加筆修正したものや、ここでしか書けない話などを隔週以上の頻度でお届けします。

くにごろうがここまで培った学び方・教え方のヒントを整理していきます。加えて、いまかんがえていることなども。

記事に賛同してくださる方,なんらかの学びが得られたと感じてくださった方は,経済的に余裕のある範囲で投げ銭をいただければ幸いです.