和解
えんじ色の椅子が整然と備え付けられた区民会館の端の席に、太一はめったに袖を通さない濃紺のスーツを着けて座っている。成人式らしく客席にはあでやかな色の和服を着付けた同世代の娘たちも目につく。館内禁煙とそこら方々に掲示してあるが、太一が座る椅子の座面には煙草の火が落ちてできたような穴があいていた。
壇上では正装した要人と思しき男が演説している。演説するのは壇上の一人だけではない。三人の壮年の男が、舞台の隅に並べられたパイプ椅子に座って各自が演説する順番を待っている。皆似たような燕尾服姿で左の胸には花をかたどった紅白の徽章をつけている。
最後の一人が司会者に紹介され壇上に向うと、太一はトイレに行くふうを装い、そのまま会場の外に出た。会場と正門を結ぶ通路に沿って植えられた銀杏並木はすっかり冬枯れし、枝に停まった鴉が時おり鳴いている。その通路の正門寄りの処に仮設のテントが設置されている。ねずみ色のテントの下に長机が寄せられ、その上に細かい花模様の包装紙で包まれた四角いものが山積みにされている。そこには既に人の列が出来ていた。付近には太一の知った顔もちらほら見える。中学のときの同級だった者、同じ高校へ進学した者。そのうちの何人が太一に気がついたのかは不明だが、太一に話しかけてきたのはしげるだけだった。
「よう太一、久しぶりだな。元気にしてるのか?」
「ああ、それなりにね」
そう応えてみたが、太一は顔がひきつるのを自覚した。しげるはそんな太一の様子を訝しげに観察していたが、二言三言おざなりな慣用句を繋げるとどこかへ行ってしまった。
しげるは太一の数少ない友達の一人だった。二人は同じ中学から同じ高校に進んだ。高校に進んですぐ、太一はひょんなことからいじめの標的にされた。そうなるとしげるは太一によそよそしい態度をとるようになった。いじめは執拗に繰り返され、太一は高校一年の夏休みが明けても登校しなくなり、そのまま退学した。それ以来二人は疎遠になった。
太一は一張羅の内ポケットから案内状をだしてテントの列に加わった。長机に山積されたものは出席者への記念品だった。案内状は記念品の引換券を兼ねていた。
数日後の夕刻、太一は中村に指定された駅前の居酒屋に赴いた。中村は太一がアルバイトに通う惣菜屋の店長である。店に入ると中村は既にカウンターの端の席に座っていた。殆ど減ってないビールのジョッキとお通しの小鉢がぽつんカウンターの上に置かれている。
太一は中村の隣に座りずっしりと重い記念品を中村に手渡した。
「はい店長、これで良いですよね?」
「ああ、恩に着る。約束通りに今夜は俺が奢るよ。新成人、なんでも食って飲んでくれ」
「では遠慮なく」
太一はカウンターに立てかけてあったお品書きを覗きこんだ。
カウンターには皿からはみ出すほど大きなホッケの干物やジャーマンポテトや粗引きソーセージを盛り合わせたものなどが運ばれ、太一の手には生ビールのジョッキが握られている。あまり酒に強くない中村は最初のジョッキが空になると、既に酔いがまわったのか、記念品のラッピングを剥がしそれを目の前にかざして満足気な様子だ。中村には妙なものを収集する趣味がある。太一には、表紙が銀色に装丁され「成人式記念、某区」のロゴが入ったこの国語辞典のどこに魅力があるのかさっぱり分らなかったが、とにかくそれは欲しい者の手に渡り、そのおかげで太一は酒を飲んでいる。
日付が変わるころ、太一は帰宅した。鍵を使って玄関扉を開け、居間には寄らずに二階の自室に上がろうとすると、居間の扉が開き母親が顔を出した。
「遅くなるなら電話くらいはしなさいよ」
太一は母親の険のある声を背中で聴きながら「ああ」と生返事を返し、階段を小走りで上がってゆく。
暖房で部屋が暖まったころ、扉の外で猫が鳴いたので開けてやった。猫はベッドに座る太一の足もとに身体を摺り寄せしきりに鳴いている。
「おい、どうしたんだ?」
太一は猫を抱き取り目の高さまで上げて顔を近づけた。猫の瞳に太一の顔が映るほど近づけても猫は鳴いている。
太一はベッドにあお向けの姿勢で横になり猫を胸のうえにのせた。猫は思いだしたように時おり鳴いたが、酒に酔っていた太一はその状態のまま眠ってしまった。
太一は幼いころ身体が弱かった。医師からは小児喘息と診断されていた。小学二年のとき、微熱が下がらず、正月空けからの学期をまるまる休んでしまった。時おり発作を起こして病院に運び込まれた。喘息の発作は実に理不尽なものだった。呼吸のための管である気管支の粘膜が腫れ、酸素が取り込み難い。息をする度に狭まった気管支からひゅんひゅんと笛を吹くような音がした。
ある日、母方の祖母が病弱で滅多に外で遊べない太一を不憫に思い、近所で生まれた仔猫を貰って持ってきた。太一が祖母から仔猫を抱き取ると、柔らかな感触と温かみが太一の両腕に伝わり、その小動物の意外な重みは、太一の心を慰めた。仔猫は太一によく懐いた。太一がトイレに行くと付いてきて、出てくるまで扉の前で待った。時おり蝉やバッタを捕まえてきて太一のまえにぽとりと落とした。
ある日、酷い発作が太一を襲った。そのときは病院に運ばれたまま入院し、太一は数日間生死の境を彷徨った。呼吸器をつけたままの状態で意識が遠のいては戻る。その繰り返しのさなかに太一は同じ夢を見つづけた。
ススキと泡立ち草が繁る野原の真ん中に駅がある。その駅のプラットホームにぽつんと一人で立っている。列車が着いて扉が開く。列車に乗りこみ空席に座る。すると車掌がやってきて切符を見せろと言う。車掌の顔は祖母が貰ってきた猫である。切符はないと応えると次の駅で降りろと言う。仕方がないので降りる。降りるとそこはやはり雑草が生い茂る野原で、真っ直ぐに伸びた一本道をてくてく歩く。どこかへ帰るようなつもりになって歩いて行く。そして目が覚めると医師の難しい表情と怯えたような母親の顔がある。
本を読む習慣が付き始めていた太一は、あれは銀河鉄道に乗った太一を猫が引きとめたのだと考えた。あのまま乗車していたら、きっとカムパネルラのように死んでしまっていたはずだった。
夜半に目を覚ました太一は、部屋の空気が重く粘っているいるように感じた。酔いが醒めて少し喉が渇いている。冷蔵庫で冷えているウーロン茶を飲みに階下のキッチンへ下りようとすると、掛け布団の下から猫がもぞもぞ這いだしてきた。
「太一、成人おめでとう」
「?」
「むかしは身体が弱かったけど、最近は病気しなくなって良かったじゃないか」
「!」
「なんだよ、忘れちゃったの? 昔はよくこうして話しをしたんだよ?」
「え? そうだったけか?」
太一はおかしな夢を見ているとは思ったが、不快ではなかった。幼いころは確かに現実と夢想との境目がはっきりしなかった。病臥したベッドはアラビアンナイトの魔法の絨毯になったし、ベッドから見上げる天井の木目は動物や怪獣の輪郭に変化した。
「太一、意地っ張りなところは直そうよ」
猫はしげるのことを言っているのだった。
太一は少ない友人のなかで、しげるを最も慕っていた。だから太一がいじめられると急によそよそしい態度をとったしげるを当初太一は恨んだ。しかし、もしも立場が逆だったとしたら、おそらく太一はしげると同じことをしていたと今は思っている。いじめに遭っている者に味方するのは実に危険なことで、自ら次の標的になりにゆくようなものなのだ。
しかしもう遅かった。せっかく和解の機会が訪れたのに、太一は顔をひきつらせながらふいにしてしまった。
「太一、お客さんが来てるぞ」
店長の中村が休憩室で煙草を吸っている太一を呼びにきた。太一が店に戻るとトンカツやエビフライの並ぶガラスケースの向こう側にしげるがはにかんだような笑顔を浮かべて立っていた。
「おふくろさんに訊いてきたんだ。迷惑でなければ少し話したい」
太一は店長に向き直り
「店長、きょうは俺、どうしても早退したいんですけど」
中村はニヤリと笑い
「よし、その代わり明日は早番だからな」
その夜、太一はまたしても酩酊して日付の変わりそうな時刻に帰宅した。鍵は使わずに呼び鈴を押した。玄関扉を開けた母親が言った。
「昼間、しげるくんが訪ねて来てくれたのよ」
「ああ、いままでいっしょだったんだ」
猫が欠伸をしながら居間からでてきた。太一はダウンジャケットのポケットから居酒屋で余ったイカゲソを詰めてもらったビニール袋をだして猫の鼻先にぶら下げた。
猫は鼻をひくひく動かしてその匂いをかいだ。
<了>
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