ディミトリ所感 歴史を甘い味付けで美しくする危うさ
複数回観たものの、引っかかるところがかなりある芝居だなと思っていて、でも評判はいいみたいだし、その中でちゃんと批判するのって気力体力がいるし、贔屓の星組メンバーのパフォーマンスだけ見とけばいいかと思って、ツイッターにはざっくりした感想しか載せていなかったのですが、例の演出家のパワハラセクハラ問題が明るみになり、彼の作品群には疑問と怒りを抱えていたのに、どんどん、宝塚だけではなく外部でも、大演出家であるかのように持ち上げられていく彼を批判するのが面倒くさく(そんなことしたって私に何の利益にもならないし)、疑問を表出しなかったことを後悔したので、今回はちゃんと書き留めておこうと思いました。
生田氏がパワハラセクハラする人だとは、今のところ全く思ってないんですが、写真やコメントを見ると、生活感のないちょっと貴族的雰囲気のある人ですよね。だからなのかこの芝居、生きた人間の営みの集積である歴史を、ご本人の、抽象的な美意識にとらわれたファンタジーに、すり替えし過ぎなのではないでしょうか。
まず言及したいのは、ジャラルッディーンなのですが、生田氏はどうやら、彼を、「清濁合わせ持つ英雄」として描いているようなんですが、私には、彼のやっていることは、プーチンとどう違うのか、分かりませんでした。亡国の王ということを強調してますが、いや、プーチンの目からみた欧米諸国=ジャラルッディーンの目からみたモンゴルと、そう大差ないのでは。だって、モンゴルと対抗するためにひとつになろうとジョージアに持ち掛ける(ルスダンに求婚する)けど、断ったら侵略するって、欧米諸国に対抗するためにウクライナを統合しようとしてるプーチンと変わらないですよね。それを、ラジオでジャラルッディーン役の瀬央さんが「悪役がいないんですよね」と言ってるのは、さすがにムムム…、となりました。生田氏がそのように言ったのでしょうか…。
トビリシの、10万人の殉教の場面も、イスラムの民だけを救出し市民を同化させようとするジャラルッディーンが、ウクライナ南部のロシア系住民の存在を口実に併合したプーチンと重なりました。ここは、ドラマティックな音楽に乗せて足早に駆け抜けていってしまう場面になっているので、ジャラルッディーンの残虐さも流されてしまう印象です。意図的なのか分かりませんが。
彼が見せる寛容さって、結局、ドラマの中では、ディミトリに対してだけですよね。彼は確かに複雑で面白いキャラクターだろうとは思うのですが、この芝居ではそこを強調して、「ジャラルッディーンの腕の中で死んでいくディミトリ」という姿を美しく感動的に見せるために、彼のプーチン的独裁者の部分をわざと薄めているのではという疑問を感じました。
牢獄の場面も、ディミトリが監禁の状態にあることをどうやって知ったんでしょうね。助けを乞うた父親は息子が監禁されてることまでは知らないはずでは。鳩を飛ばす時間も隙もなかったでしょうし。あんな派手な異国の衣装で乗り込んで、誰にも見つからなかったんでしょうか。「めぐり会いは
ふたたび」のレオニードだって変装していたというのに。
「心の声」もいかがなものかと思っています。「心の声」の間、ジャラルッディーンとナサウィーが言い終わるのを待っているのも不思議。あの内容なら、ジャラルッディーンと直接会話してもなんら問題無いのでは。
そして、ルスダンというのは、女王としては相当軽率で浅はかに見えてしまうんですよね・・。ジャラルッディーンに求婚されて断る場面がもの凄く感情的に断っているように見え、その一言で国の兵士たちが死んでしまうのに、と思ってしまいます。女王なら戦争回避のためにまず一旦策を練るべきなのでは。ミヘイルとのシーンも、順を追って描いてるつもりなのでしょうが、出会いの場面なぞ省いて、彼との間にあったルスダン側の気持ちを描いてくれないと、唐突すぎて、ちょっと貞操観念に欠けてるように見えてしまいますよね。これは、史実でもそういう女王であった可能性が高いんでしょう。別にそういう女王ならそういう女王の話として受け止めるんですが、それを可憐でけなげな娘役像になんの補助もなく当てはめているから、違和感があるんですよね。ここも、生身の人間の話を、無理やり美しく見せようとしている気がします。
ギオルギとジャラルッティーンが似ている、というディミトリの思い込みも全く分かりませんでした。生田氏は両方、温かな安心感を与える王という意味で言わせたのかもしれませんが、私の目には、ジャラルッディーンは前述したように独裁者、ギオルギは王としての制約に苦しめられながら精一杯務めを果たそうとしている不自由な王、に見えました。二人ともディミトリに優しいのは共通してるが、別に王としては全然似てないよー、と思いました。あのセリフを、自分に優しくしてくれそうな臭いを嗅ぎ分けた、という意味で言ってるようにも思えないし。生田ファンタジーの謎。
ギオルギとバテシバの関係を、ディミトリとルスダンの関係に、重ね合わせたり対比させたりしたいのは分かるのですが(生田氏は重ね合わせがお好き)、ギオルギとバテシバが、登場の時から既に別れを決意していて二人の絡みがほぼない(目線を合わせるくらい?)ので、この二人の愛の形が具体的な像として立ち現れないために、重ね合わせや対比もピンとこないんですよね。生田氏の頭の中だけで成立してる構造。そこに積極的にアクセスできるファンは感動できるのかもしれないけど。演じている綺城さんや有沙さんの熱のこもったパフォーマンスには引き込まれるんですが、それを当てる標的が見当たらないために、何度みても、少し空虚さを感じてしまった。いや、二人の置かれた状況は分かるんですよ。でも、この二人がどんな風に愛を囁きあっていた(いる)のか、ほんのちょっとでも具体的に見せてくれたら、このお二人なら二人の愛の風景を広がりを持って見せてくれたと思うんですけどね。ここも、抽象的な描写に傾きすぎる生田氏の特色が表れていました。
アヴァクは完全に、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)ならぬ、ディアボロス・エクス・マキナ(機械仕掛けの悪魔)、ですよね。ディミトリとルスダンの愛の障壁となる切っ掛けを、「全て」「都合よく」担う人物。その動機が弱すぎて・・・ギオルギへの思い入れがあるなら、その具体的なエピソードを見せてくれないと、目的もよく分からないし(自分が王になりたいわけじゃなかろうし?ギオルギの子供を王にしたい?でもその存在は一切でてこない)。二人の愛を盛り上げるために存在していたのなら、やりすぎ。しかも、なぜかルスダンは許すしね・・。これも「愛と受容」とかいう生田ファンタジーの信条なんでしょうか。
こんな、評判の良い作品に対する疑問点を上げ続けるという、需要のない文章を書いて載せたのは、冒頭に述べた経緯から、納得のいかなかったことを飲み込んでしまうと後で後悔しそうだなと思ったので。特に、既に劇団の主力演出家である人なので、余計に気になりました。
ツイッターには載せましたが、もちろん、感動ポイントも多々ありました。音楽と戦闘シーンは素晴らしかった。流れるようなミュージカル演出もドラマティックで良かった。アジアとヨーロッパの文化が混在するジョージアという国の様相を知ることができたのも、衣装も、良かったです。
礼さんの柳生十兵衛が大好きだったので、やはり、ジョージアを救うと決断して以降のきっぱりしたディミトリが良いと思ってしまいます。あ、今また疑問点を思い出したけど、再会シーンで、ルスダンが呼び止めなかったら、あの鳩作戦は成立したか怪しいけど、プランBはあったのでしょうか。
初見で感動したのは、裏切ったディミトリを責めることなく「あなたに生きていてほしい」と叫ぶルスダンでした。生田氏の「夢・シェイクスピア」でシェイクスピア夫婦が誤解を乗り越えて結ばれるシーンと通ずる、ホロリとさせる良さがありました。