見出し画像

儀礼研究所レポート「学校に潜む儀礼たち」

プロ奢サロンの活動の一環である儀礼研究所に関するレポートです。

宗教生活の基本形態 上: オーストラリアにおけるトーテム体系 (ちくま学芸文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4480096213/ref=cm_sw_r_cp_api_i_DwuaFbQ3NSFKE

テキストは上記本です。

儀礼とは何か?

・2名以上
・整えられた形式
・聖なるものと俗なるものの区別

以上3つが揃っている行動はデュルケーム(宗教生活の基本形態の著者)によると「儀礼」とみなすことができます。

儀礼は集団の連帯感を高める効果があるらしいです。この説明だけだと「なんだそりゃ」となるので、個人的な経験に基づいて「儀礼」を読み解いていきます。

もくじ
①出席という儀礼
②全ての教育は洗脳である?(おまけ)
③結論
④総括
⑤追記、クラスTシャツの儀礼
・クラスTシャツとは
・現状
・結果
・考察

-------------------------------------------

本論

①出席という儀礼

陸上部の部長となって初めの1週間を休んだら村八分に合いそうになったお話です。

当時、ぼくは足首を骨折していました。そこで、ぼくは将来的な陸上のパフォーマンスを上げるための休養、空いた時間を勉強に充てるという考えから「欠席」という手段を取りました。ぼくにとってのトーテムは「パフォーマンスアップ」と「学力の向上」でした。

1週間後、これが致命的な間違いだったことにぼくは気がつきます。

久しぶりに部活動に出た僕を待っていたのは若干の疎外感と小言でした。
「部長がいなくてどうするんだ」
「なんで来なかったんだ」
など自分の説明不足もあり、ちょっとした事件のようなものとなってしまいます。

この部活動のおいて「出席」は聖なるものであり、ぼくはそれを冒涜してしまったのです。

一般的に出席することはつまり「私はこの集団に貢献する意思があります」という意思を示すための一種の「儀礼」です。それを冒涜する、つまり「出席しない」ということは俗なるものであり、この集団においては許されるものではなかったようです。

顔を合わせること、誠意を見せること、これらはぼくの目標達成において直接的な関係性はないように見えます。しかしよく考えてみると「怪我をしていても僕は次期部長として頑張るぞ」という姿勢を見せるという役割が「出席」にはあり、それを欠くことは部活動への背信とみなされてしまうということでした。

所属集団の聖なるものが自らのトーテムと合致しない場合、儀礼を続けることは大きな苦痛を伴う場合があるようです。ただ、この苦痛を感じないようにすることが幸せへの近道であるような気もします。ノリで儀礼ができれば苦痛を感じることなく、その恩恵を受けられるからです。

「儀礼」それ自体には一見、意味がないように見えます。この「出席」においても、怪我をしていてなにもできないが、ただ部活に出るという行為はパフォーマンスには直結しません。しかしそれは集団の連帯感を高めるためのものであり、結果的にどこか別の場所でパフォーマンスアップにつながる可能性のある行為なのだと気がつきました。
ex.仲が良い→会話がある→気づきがある→パフォーマンスアップにつながる
__________________________________________________

②全ての教育は洗脳である?

皆さんも何回か聞いたことのあるフレーズかもしれません。ぷろおごも以前このことのついて言及していたような気がします。

②はこのフレーズから着想を得たものであり、学校(教育)と儀礼の関係を少しだけ解き明かしてみようと思います。おまけ程度に読んでください。

--------------------------------------------------

学校で求められているのは「儀礼」を疑うことなく実行する能力なのでしょうか?

それとも「儀礼」に待ったをかける
「なんで?」を考える力を身につける場所なのでしょうか?

例えば、僕の学校では今月からジャージ登校が可能になりました。暑さ対策に加え、新型コロナウイルスの拡大防止(着替え中の感染を防ぐ?)が目的のようです。

「なんで?」

暑さ対策であれば私服の半袖と短パンを着ていけば解決します。そもそもジャージとは運動着です。(別にジャージでも良いんですがね。)

よくこんな質問が英語の時間にされます。
「Do you think we need uniform for school?」

文法とかに間違いがあるかもしれませんが、要するに「学校に制服は必要か否か?」という質問です。

「毎日着ていく服を選ぶ」というのは面倒くさく、大変なことです。細かいことは抜きにして、この「選ぶ」という作業には「考える」力が必要です。体育があるのにジーパンで学校に行くと大変な思いをします。

もしも「考えさせること」が教育の目的なのであれば制服という制度は今の時代に適してはいないでしょう。貧乏を隠すための安い服はGUやユニクロにでも行けば入手可能だからです。

暑さ対策のためにジャージ登校を可にする。これを間違いだとはいいませんが、適切ではないでしょう。ある種、「考える」機会を失わせているわけですから。ただ、1日に必要な選択の回数を減らす、連帯感を高めるという点で制服という制度は非常に優れています。

ちなみに学校には制服をだらしなく着用する生徒を叱ることでしか教師として生きていけない人もいます。

制服を着ること、それは儀礼の一種です。集団の所属を示すという役割が拡張していき、いつしかそれは頭の回路を勉強や社会へと切り替えるトリガー、もしくは教師が生徒を管理する手段として用いられるようになってきたようです。

学校生活では儀礼を疑わないことが求められます。一方で勉強や調べ学習においては「なんで?」を考えることが求められ始めています。

冒頭の質問(考える力?考えずに儀礼をやる力?)に対する答えとしては「両方が求められている」が正解になるのかもしれません。

また、儀礼というのはある種、支配を伴うものであり、どこかでその儀礼を司る人々がいるようだということが制服と教師の関係でわかります。

--------------------------------------------------

結論

儀礼が集団の連帯感を高めるのに必要なものである
なにも考えずにノリで儀礼ができた方が人生は楽そうです。儀礼はショートカットなんだ。

・儀礼は支配を伴う
観察する時は一歩離れた場所にいることが大切らしい。

総括

 宗教生活の基本形態は一回も読むことなく儀礼研究所を終えましたが「社会」についての理解が以前に比べてすごく深まりました。日常生活でも「あ、これ儀礼っぽい」と思うようになってしまいました。今までは沸騰する側だったのでゆくゆくは「沸騰させる側」になりたいなと思います。

レポートはいつものごとくクソ大変でしたが楽しかったです。

儀礼研究所に参加して一緒にワイワイしてくれた皆様に感謝。

追記 2020-7/9

クラスTシャツが及ぼす儀礼的効果

自分が通っている学校では(も?)毎年クラスTシャツを作るという儀礼があります。行事の際に各クラスのクラスナショナリズムを高める、つまり<わたしたち>を形成するためのアイテムです。

「クラスTシャツ」の特徴

・みんなが作る
・周期性がある(毎年、ある時期に作る)
・一時期しか着れない(聖なるもの)
・3年生だけ使えるデザインがあった(暗黙の了解)。昨年からこの制度は廃止されたが、実質的に3年生のみが使えるデザインが存在する

今までのクラスTシャツについて

学校祭の直前に作成。体育大会や学校祭で着用し、<わたしたち>の形成に一役買っていました。カップルの間では背番号をお揃いにしたり、背ネーム(知っているのだろうか..?)をお揃いにしたりするなどしてクラスだけでなく、個人的な繋がりを深めるのにも使用されてきました。
 個人的に、行事がある際は積極的に着用するなどこの儀礼に対して肯定的な考えを持っていました。

現状

・行事がコロナのせいで消滅したため作成しなくても良いという意見がある(ぼくはこれに賛成)
・自分たちのクラス以外は全てTシャツを作成
・1人でも反対があると作成できない
・自分のクラスでの作成or作成しないの議論は平行線を辿る

結果

 議論では決着がつかないため、「全員伏せてね!」方式で賛成・反対・みんなに任せる票を集めたところ反対票が全体の10%ほどあったため自分たちのクラスのみTシャツを作成しないことになりました。ただ、賛成票が全体の40%ほどあったため、否決された時のクラスの雰囲気は重かった。
もしかするとぼくは「聖なるもの」(クラTの作成)を冒涜してしまったのかもしれない。

この儀礼を破壊したことで何が起きるか?

・自分たちだけ作っていないため、逆に<わたしたち>感が強まる
・Tシャツを着ることは言葉の通り、集団的沸騰のトリガーでもあったため、Tシャツを着る機会が学校で設けられた場合にぼくたちが沸騰できない可能性がある。 

このような事態になったのはこの学校で初めてなので、今後どのような影響がクラス、学年、学校全体に及ぼされていくのか観察してみたいと思います。







いいなと思ったら応援しよう!

Hiragi
サポートはお魚ソーセージになります