春のパンかおり 【むすめ編】
包丁でまな板をトントンする音で目がさめる。今日も安定の玉ねぎ味噌汁だ。
味噌汁のにおいと規則正しいトントンの音で毎朝起きる。
朝は必ず白米とお味噌汁だった。昼は給食で食パンが出るからと、母の気づかい。
もう一つの理由は、パンがうちにとっては高級な食べ物だったから。
私は、白くて正方形で表面が少し乾きはじめた食パンしか知らなかった。
丸くツヤツヤのパンをゆっくり真ん中からわると、あんこ、クリーム、が飛びだしてくるパン。
アメリカで流行っている、天ぷらパン。雪のように白くて甘いものが表面を覆っていて、一度噛めば、溶けてしまうぐらいのやわらかさ。食べ終わるときは口のまわりには砂糖がべったり。
フランス人がコーヒー牛乳と一緒に食べるらしい、みかづきの形。口に入れるたびにサクッ、パリッ、と演奏できて、朝のめざめににピッタリ。
そんなパンが売ってるらしい。
父が亡くなったのは私が3さいの頃らしい。
△△△
カーデガンを脱ぎたいぐらい暖かい春の日。
私を後ろにのせ、自転車を細い足でこぐ母は、遠いスーパ―まで行く。
今日は特売日だから。
後ろで足をブラブラさせると、自転車がグラグラと大きく揺れる。
私は倒れないように、体を固くしてじっとした。
いつもは動かないようにしてるけど、今日はとても暖かくて、うれしくて、つい足をブラブラさせてしまった。
固くしている私の体にふわっと、いままで体験したことない、香りがすっと入ってきた。
はじめての香りだけど美味しいということは、なぜかすぐ分かる。
「いいにおい」反射的に言葉がでたけど、「食べたい」とは言わなかった。
言ったら母が困るというのは、本能的に感じていた。
母を困らせない技を身につけるのはとても簡単で、すぐに心のくせになった。
ただ我慢すればいいだけのこと。
母はふりかえり、何もいわず微笑んだ。
泣きそうな、でも、泣けない、泣かない、強い微笑み。
自転車がバランスをくずし大きく右側にゆれた。