銭湯帰りに女に尾けられた21歳の時のこと
「心霊体験ってしたことあります?」
ごく稀に、そんな問いを投げかけられることがある。
時期は決まって夏だ。
季節柄、その手のネタが話題に上りやすいということもあるのだろう。
「オバケかどうかは、分からないんですが」
そんなふうに曖昧な前置きをして、そのつど僕は、あの日のことを語る。
2011年ごろ──僕がまだ、大学生だった頃のことだ。
***
その日、僕はワンルームの自室に友人を招き、二人でWiiのスマブラに興じていた。
遊び始めたのは夕暮れ頃だったが、あれよあれよという間に時は過ぎ、気づけばもう23時近くになっていた。「今日はもう泊まるわ」と友人が早々に帰宅を諦めたことで、折角だから近くの銭湯に行こうという話にあいなった。
その銭湯は、いかにも昭和風といった趣を残すレトロな湯屋だった。アパートから歩いて10分もかからない位置にあり、加えて0時過ぎまで営業してもいる。そうした諸々の好条件もあって、友人が泊まりを決めた際には、早々に銭湯へと繰り出すのがお決まりのパターンとなっていた。
二人して意気揚々と暖簾をくぐると、見慣れたエントランスが目に飛び込んできた。くすんだ床。古ぼけた漆喰。年季の入ったカウンターで、暇そうにしている番台のおばちゃん。そんな「いつもの」景色のなかで、がりっ、と砂を噛んだような感覚を覚えた。
エントランス中心部にある休憩ベンチに、白髪の老女がひとり、ぽつんと座している。
日付もそろそろ変わろうかという頃合い──いつもならば、客の姿はほとんど見ない。たまに見かける客にしても、そのほとんどは自分と同じ学生か、仕事帰りのサラリーマンといった中年層が主だった。老人層はといえば、おそらくは就寝時間が早いのか、概して昼間や夕方によく見かけたものだ。僕としては、この時間帯に「お婆さん」を見かけたこと自体が初めてだった。
──へぇ、めずらしい。
感想としては、シンプルにそれ以上でも以下でもなかった。
この時点では、まだ。
たっぷり小一時間くらいは湯に浸かっていただろうか。そろそろ閉店時間といった頃合いだった。あちぃな、と友人と言い合いつつ、脱衣所をそそくさと出る。とはいえ店内の雰囲気はのんびりとしたもので、一時間前となんら変わりない風景がそこにあった。
くすんだ床。古ぼけた漆喰。年季の入ったカウンターで、暇そうにしている番台のおばちゃん。
そして──休憩ベンチに座ったままの、白髪の老婆。
そこでようやく僕は、老婆をまじまじと遠巻きに見つめる。
花柄の上着に、薄いピンクのスカート。俯きがちに腰掛ける、その表情はまるで窺い知れない。
一時間前の時点では、てっきり「風呂上がりで涼んでいるのか」と思ったが、自分たちと同じく入浴するところだったのだろうか。しかし、よくよく見れば、老婆の手荷物は何もなさそうである。髪だって、濡れているようには見えなかった。
というか、一体いつからいるのだろう……?
銭湯を後にした僕らは、間近にあったコンビニに立ち寄った。
飲み物と夜食を手早く買いこんで、友人よりも先に店外へと出る。会計をしている友人を、何とはなしにガラス越しに眺めていると──彼のほど近くに、見覚えのある人影が見えた。
蛍光灯に光る白髪。花柄の上着に、薄いピンクのスカート。
あの老婆もまた、僕らと同じようにコンビニに寄ったということらしい。
銭湯は閉店間際のタイミングであったし、帰りしなこのコンビニに寄るのだって、何も不思議なことはない。カゴも商品も携えず、ただぼんやりと、こちらを向いているところを除けば──。
間を置かず、友人が店から出てくる。うっすらと感じた寒気を振り払うようにして、僕は友人と家路についた。
取り留めもない話をしているさなか──背後から足音がした。ついでに言うなら、ぶつぶつと呟くような声だって。
ふと背後に目をやると、3メートルほどの距離に先程の老女がいる。顔はよく見えなかったが、背格好と服装からして「彼女」であることは間違いない。
僕も友人も、歩くのはかなり速いほうだ。老婆がそれに付いてくることができるのか? いや途中で合流しただけだ、と己に言い聞かせる──が、考えれば考えるほどに、疑念は深まるばかりだった。知る限りの「近道」を思い出してみるものの、いずれもその合流地点はここよりもずっと先である。
思考を巡らせているうちに、いつしか足音は消えていた。
背中に張り付いていた、ぶつぶつと独りごちるような声も。
とはいえ、もはや確認する気にはなれなかった。
それに、わがアパートまではもうすぐである。飽きるほどに目にした景色──白い外観の二階建て、廊下にずらりと並べられた外置きの洗濯機──が、これほどまでに心強く感じられたことはなかった。安堵を覚えつつ、路地から敷地へと入ろうとした、その時だった。
「どうして にげるの」
すがりつくような、か細い声は──しかしはっきりと背後で響いた。
瞬時にして肌が粟立った。怖気に後押しされるようにして、足はひとりでに動く。二階の角部屋、わが居室に向かうべく階段を上る。ウソだろ、と内心で焦るこちらをあざ笑うかのように、3つの足音が折り重なる。
角部屋にたどり着く一歩手前で、恐る恐る背後を振り向けば──
予想通りというべきか、うつろに佇む老婆の姿があった。
廊下灯に照らし出された彼女を前にして、僕らは固まった。
このまま部屋に入ってはいけない。
真っ先にそう思った。
それは、本能的な直感だった。
「──ごめん、銭湯に忘れ物した! ちょっと付いてきて!」
苦し紛れにそう言って、僕は友人に目配せをした。
狭い廊下、ぼんやりと立つ老婆の脇をすり抜けて、階段を早足で降りる。
少し遅れて、友人も僕に追いついた。
アパートから充分に離れる。それでも、僕らは足を止めなかった。
「なんなんだよ、アレ」と友人が言った。
「たぶん、ストーカー、みたいな」声が震えないように、僕は返した。
警察に行くか?
いやいやそこまでは……。
じゃあこうしよう、戻った時にまだ居るようなら通報するってことで──。
そのまま、たっぶり数十分は散歩しただろうか。
友人と恐る恐るアパートへ戻ってみると、老婆の姿は消えていた。そそくさと室内に入り、鍵を閉めたところで、二人して大きく息を吐いた。
「ヤバくない?」
「マジヤバい!」
「なんなのあのオバさん、はっちゃんの知り合いかと思ったわ」
「んなわけないじゃん」
軽口を叩く友人に笑いつつ、ふと思う。
“オバさん”というには、少しばかり──いやだいぶ歳を食いすぎていないか?
「あのさ、あれってバアさんじゃなかった? 白髪のさ」
「え……?」
友人は首をかしげた。
「髪、黒くなかったか……?」
結局、その晩は一睡もせずに夜を明かした。
再びスマブラに興じながら、僕らは「彼女」について話した。
友人が彼女の存在に気づいたのは、アパートに着いてからのことだったという。銭湯で見かけたこと。その後に寄ったコンビニにも居たこと。その後に後をつけられていたことなど、今に至るまでの諸々を伝えるも、彼にはピンときていない様子だった。「なんで逃げるの」という声にしても、どうやら聞こえていなかったらしい。
数々の見解の不一致。
唯一、一致するのは背格好だけ。
その事実が、なおさら「彼女」の得体の知れなさを際立たせた。
正直なところ、気が気ではなかった。
自分の住処は「彼女」にバレたも同然なのだ。
大学やバイトから帰ったら、部屋の前にあの女がいる──そんな想像をしては、ひとり背筋を凍らせたものだ。
けれども危惧していたような事態は、結局のところ起こらなかった。
ただ──彼女らしき人物を数度見かけたことはあった。
いずれも2016年のことだ。連日のようにリオ五輪のニュースが流れていた時期のことだから、強く印象に残っている。
換気をしようと、あるいは洗濯物を干そうとして、ベランダの窓を開けたところで、遠ざかる「彼女」の後ろ姿を見た。
だから、僕が見たのは背中だけだ。花柄チェックの、薄いピンクのスカート。服装こそ同じだが、髪色はてんでばらばらで、ときには白髪、ときには黒髪、またあるときには茶髪であったりした。そして、気づいたらいつの間にか消えている──いや、別に追いかけようとも思わなかったのだけれど。
それ以後、僕は彼女の姿を今に至るまで見かけていない。
***
後日談が、ひとつある。
去年。そう、2019年のことだ。
昨秋、僕は引っ越しをした。転職が決まったことを機に、住処も変えてみようと思い立ったのだ。大学進学を機に一人暮らしを始め、ここに住み続けておよそ10年──さすがに環境を変えてみたくなった、というのが本音だった。
不動産情報サイトで良さげな物件を見繕う一方で、僕はとある別のサイトを眺めていた。
事故物件公示サイト。
日本全国、津々浦々の事故物件を独自に収集しているそれは、地名を検索するとその土地のワケあり物件をマップ上に表示してくれるというものだ。事故物件は仰々しい炎のアイコンで表示され、地域によっては大火災かと見紛うばかりの様相を呈していたりする。
第一希望の物件、その住所を検索ボックスに打ち込むと、検索結果はすぐに表示された。炎のアイコンは──付いてない。周辺をスクロールしてみても、結果は同じ。いたって平坦、そして平和なマップが表示されるばかりである。
ほっと安堵して──そういえば、と僕は続けて別の住所を検索した。
現在入居している、そしてもうすぐ去る予定の、このアパート。
このサイトで現住所を調べたのは、初めてのことではない。大学に入学してこのサイトの存在を知り、おぼろげな不安を覚えつつ検索した覚えがある。記憶が正しければ、この一帯に事故物件の類は一軒たりとて無かったはずだった。
「──はっ?」
自宅アパートの周囲が、燃えていた。
・・・・・
燃え盛る炎のアイコンが、自宅アパートの半径100メートル圏内に密集している。
自然と、僕は炎のアイコンを視線でなぞっていた。
点が線になり、バミューダトライアングルよろしく三角形が出来上がる。
その上部に、僕のアパートが位置している。
各物件の詳細にいわく。
2016年──孤独死
2016年──首吊り自殺
2016年──告知事項あり
脈絡もなく、脳裏に「彼女」の姿が浮かんだ。
花柄の上着に、薄いピンクのスカート。
アパートの廊下に所在なく立ち尽くした老婆は、あのとき、ぱくぱくと口を動かしていた。
「どうして にげたの」
***
──ときおり、今でも想像を巡らせる。
例えばあの時、ヘタクソな猿芝居をしていなかったならば。
老婆を意に介さずに、あのまま部屋に入っていたとしたら。
過ぎ去った「もしも」の想像は、いつもそこで打ち切られる。
──今なお、僕は信じ続けている。
あれはきっとご近所に住んでいた生身の人間で。
ちょっと不思議なおばさん──いや、おばあさんで。
あれは偶然、少しばかり気に入られてしまっただけなのだ、と。
今となってはもう、この引越し先で「彼女」に再会しないことを祈るばかりである。
<了>
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