おるで。
いつからか、正確に覚えてはいないしばらつきもあったと思うのだが、いつの間にか「サイコパス」という単語が市民権を得、様々な誤解や誤用を経てバズワードになってしまった。ネットはもちろん、リアルでも「サイコパス」に関する書籍が発売され、そのレビューを見かけることも多い現状が、私にはどうしても、辛いし、痛いし、居心地が悪い。
思わず脳裏にちらつくのは、「多重人格」という概念が「流行」した、あの90年代の「座りが悪い感じ」だ。
「多重人格」は、正式な病名ではない。「解離性同一性障害」が正確な名称で、「解離性障害」という大きなカテゴリの中のひとつだ。
多重人格は「流行った」。小説、映画、ドラマ、挙げ句はドキュメンタリー番組などなど、フィクション・ノンフィクションを問わず、皆が皆、人格が割れているような時期があった。当時からのネットユーザーさんなら、多重人格者と名乗る若者たちの、「人格毎の日記」みたいなものが多く存在したことを覚えているかもしれない。
私が中学生の時分、つまりまだ発症していない頃、決定打とも言えるマンガと小説が登場した。
大塚英志原作の、「多重人格探偵サイコ」だ。
私は小説から入ったクチだが、それなりに楽しんで読んでいた記憶がある。
しかしマンガ版は、あまりにもグロテスクな絵が多く、第一巻では大塚英志が出版社側に懸念があった、と述べている。
その後、私は発病し、様々な病名を食らいまくった果てに、解離性障害と診断された。
自傷行為が含まれるフィクションを読む時もだが、「当事者」ないし「元・当事者」としては、その事象が「流行」して多くの人々がそれを楽しむのを目の当たりにすると、出てくるのは「ぐえぇ」程度である。
(一応書いておくと、私は「多重人格」ではなく、同じカテゴリに分類される別の疾患持ちだ。それでも誤解を受けることはこれまでに幾度となく体験している)
「サイコパス」の話に戻る。私が関連書籍や記事、そしてネット上での(主に蔑称としての)「サイコパス」を見るたびに「ぐえぇ」となるのは単純な理由で、数年前、とある精神科医に、
「きみは古い言葉で言う精神病質、サイコパスだ」
と言われたからだ。
当時、「サイコパス」は現状のように会話に頻出する単語ではなかった。「精神病質」のことは知っていたし、この種の言葉は安易に誰かに向けて発していい言葉ではなかったはずだ。あの医者が、どういう意図でこの発言をしたのか、もう私には知るよしもない。さらに言えば、私が本当に「サイコパス」か否かは、いっそ問題ではない。
私は、真偽はともかく、その「ラベル」を貼られてしまった。
それだけで、「アウト」と烙印を押された気分だ。
昨日、「サイコパスはどこにでもいる」といった主旨の本を偶然目にした。
もちろん、そういった書籍や情報が最近「ホットなトピック」であることは重々承知している。書く側にも読む側にも、真摯さ・真剣味を感じるし、同時にそうでない人々もいる。
ただ、どうしても、ひとことだけ、言いたかった。
ここに、おるで。
最低でもひとりの精神科医にそう言われてしまった人間が、ここにおるで。
皆さんと同じように、noteに何かしらを書いて、「いいね!」をいただいたら嬉しくなるような、「同じ人間」が。
《私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない》
――テレンティウスプブリウス・テレンティウス・アフェル