【後編】「しがらみ」メンバー対談|矢崎×中村×山本(敦)×山本(麻)×矢島
「しがらみ」を持ちながら八ヶ岳エリアの活性化に日々尽力しているメンバーたちに、それぞれの想いを語ってもらう対談の後編。
メンバーたちから話を聞いていると、「しがらみ」よりも強くて確かな、あるキーワードが見えてきました。
▶︎前編はこちら
世代を超えた、斜めの関係が活きている
ー前半から大盛り上がりの「しがらみ対談」ですが、次は矢島さん、自己紹介をお願いします。
矢島:白樺高原を中心に観光業を手がけている池の平ホテル&リゾーツで社長をやってます、矢島です。24歳の時に、地元に戻ってきました。それまで生まれた時から、それこそ遊ぶところが池の平ファミリーランドみたいな感じで、周りの皆からも「坊っちゃん」って呼ばれちゃう様な幼少期があって、白樺湖も好きだし、祖父や親父がやってる仕事も楽しそうだなって思いつつも、色々言われるのは「面倒くさいな」っていう思いもあって、中学から長野県外に出て、大学卒業して2年会社員をやって地元に帰ってきました。
最初はずっと地域の中に入るっていうことはせずに、自分の事業を継ぐことに精一杯でした。今もそうなんですけど、特にその頃はそうで、全然地域の方と接点をもつっていうことがなかった中で、とにかくまず(当時)84歳の創業者の祖父から24歳の時に事業を引き継いで、そこでいっぱいいっぱいな10年間を過ごしました。
僕が34、5歳の時に祖父が亡くなって、ちょうどその前後くらいから地域の方との接点をもらえるようになりました。
小学校の頃に4年に1回、茅野市長選挙のポスターが貼られるんですよね。僕が小学校何年生のときかな、「かっこいいな」っていう方が初めて出馬されて。その4年後にその方が当選されて、その2年後くらいに祖父との接点の中で初めてその方にお会いすることがあったんです。それが(矢崎)高広さんのお父さんだったんですよね。
一同:え~!
矢島:高広さんのお父さん(以下、和広さん)が僕の結婚式の時に祖父のご縁で仲人を務めてくださって、その時僕は高広さんとお会いしていなかったんです。
一同:そういう繋がりなの?
矢島:そう、和広さんとの接点のほうが早かったんです。高広さんにはずっとお会いしたかったけどできずにいたんです。
矢崎:新郎の名前をずっと間違え続けてスピーチしたんですよ(笑)。
一同:(笑)
矢崎:なんて間違えてたんだっけ?
矢島:(正しくはヨシヒロのところを)ヨシヒコって(笑)。
矢崎:「ヨシヒコくんは~」ってね(笑)。
一同:(笑)
矢島:祖父が亡くなった時に「お別れの会」っていうのを開いたんですよ。僕にとっては大事な会で、その時に和広さんに全部相談して、僕の実行委員長としての最後の挨拶にも赤入れをしてもらって。
矢崎:僕も父のお葬式の喪主挨拶に全部赤入れしてもらったよ。
矢島:え?本人に?
一同:え~!(笑)
矢島:まぁまぁ、そういう方ですよね(笑)。
一同:ハンパないな(笑)。
矢島:(矢崎)高広さんと会うのはそういった意味でもすごくプレッシャーだったというか、和広さんからも皆さんからもお話を聞いていたし。
で、全然違うフェーズで中村さんとは「八ヶ岳村民の会」っていう池の平ホテルのスタッフと中村さんが懇意にしていて初めてお会いして。中村さんのお話はずっと「ヤツガタケシゴトニン」ってしゃれた名前で、全部カタカナでコノヤロー!みたいなね(笑)。
一同:(笑)
矢島:でもやっぱりそこに「ヤツガタケ」って書いてあるところがアツいな、みたいな思いがあるじゃないですか。で、中村さんにお会いして、8Peaks familyに巻き込んでいただいて。
(山本)敦史さんとの出会いも、敦史さんに出会うより前に、お父さんである理事長との接点があったし、(山本)麻琴さんとは会話の中で実は祖父同士が繋がっていたんだ、みたいなことがあり…。
地域に戻ってくる中で、個人としての関係性だけじゃなくて、もう少し世代を超えたところでの斜めの関係を含めたところに僕らがいるっていうことって、すごく素敵だなって思っています。
矢崎:まとめるね~!(笑)
一同:お~、さすが!(拍手)
根底にあるのは「父に認められたい」想い
ー麻琴さんや矢島さんが芸事とか家業という面で背負っているのに対し、矢崎さんはお父さんが行政で活躍されていましたよね。矢崎さんはどんなものを背負っているんでしょうか?
矢崎:うちの父って政治に一切家族を持ち込まない人だったんですよ。だから僕、1回も当選時の「万歳」ってしたことないんです。選挙事務所に行ったことも1回か2回しかないです。
一同:へ~!
矢崎:母は選挙事務所に行っていましたけどね。ちなみに僕のトラウマは1回か2回かしか行ったことのない選挙事務所で知らないおじさんたちに囲まれて人が怖くなったっていう(笑)。
一同:(笑)
ー「うわ~」ってなりますもんね(笑)。
矢崎:それで恐怖心を抱いてから、人混みがちょっと苦手になりました(笑)。今でも人混みに行くと動悸がするくらい。
そういえば、選挙系のPRをやってくれたのは野澤さんのお父さんなんですよ。
ーそういう繋がりもあるんですね!
矢崎: 政治活動に僕を関わらせなかったがゆえに、父が何をしてたかを知ったのは、父が亡くなってから父の周りの方々に教えてもらっているのがほとんどなんです。だから、なんで父が市政に出たのかも、未だによくわからない。
親なのにって感じだけど、本を読んだりして学ぶ限りは、「このままでは まちがよくならない」「民間の活力を活かしたい」「なんとかしないとこのままではいけない」というのをどうにかしようとしていた、ちょうど僕らくらいの世代を束ねて逆黒船来航というか、先輩たちの世代に乗り込んでいって、だけど先輩たちとうまくやって、相手を変えていった、みたいな人 なのかな、と。
だからこそ、今の上の世代の方たちは僕らが暴れてるのを、比較的温かい目で見てくれていると思っています。「俺たちもそういうことやってきたから」って。かつ、暴れん棒という棒があったとしたら、その棒を引き継いでくれる人がなかなかいなかった時に、「やっとお前ら世代が当時の俺たちみたいになってくれたか」という感じで、少し上の世代の方たちに対抗していくくらいのスタンスが、上の世代の方たちにとっては心地いいのかもしれない とも、勝手に思っています。なので、それなりに強気に出られるのはありますね。
父は元々ソニーにいて、僕は30歳まで父とキャリアがまるっきり一緒なんですね。小・中・高と、予備校行ってたのも一緒で、大学も会社もずっと一緒で。父はソニーで培った民間の感覚をそのまま行政に活かしていました。
父は市議とか県議とか一切やらなくて、いきなり民間から市長になって、かつ、父が亡くなった後に聞いた話だと、市長になるために地元に帰ってきたらしいんです。なので、元々そういう志があって、民間活力をって言って、いわゆるこういう8Peaks familyのみんなのような人たちをそのまままちづくりに入れちゃって。
茅野市のパートナーシップって矢崎和広後援会とほぼイコール のところから始まったんじゃないかなって思うんです。パートナーシップとは言いつつも、父の周りにいる人たちがわちゃわちゃやっている会があって、そこからだんだんと広がっていったのかな、と。でも、その人たちが間違えなければ僕はそれでいいと思っていています。正しい道を行ってくれればそのほうが活力があるので。
だから今も、行政には行政の人たちのやるべき仕事があって、それはおそらく決まったことをちゃんとやって、市民平等の中でちゃんと平均的に福祉を広げるとか。だけど、それだけだと競争社会の中で負けてしまう。そういう競争社会の中で勝ち抜くべきことは、たぶん民間がやるべきなので、8Peaks familyもそうですけど、お互いに尊重し合うメンバーが集まった民間組織の経済活動を行政の方がサポートする、というのが本来のパートナーシップだと個人的には思うので。…っていうことをたぶん父はやってたんじゃないかな、と、本人からは聞いたことないですけど、本とかを読む限り、思いますね。
ー矢崎さんのお父さんは政治に子どもを近づけなかったわけですよね。でも、今矢崎さんは政治に近いようなことをしようとしていると思うんですけど、それはどういうきっかけからだったんですか?
矢崎:まぁ「血」だと思います。で、そうは思いながらも、これはよく言うんですけど、ボンボンはボンボンたるべく、中途半端なボンボンになるくらいなら、世の中の役に立つスーパーボンボンになるべきだと思っていて、経済的にもローカルの皆さんの支援的にも、よくしていただいているんですよ。
で、僕らは僕らなりに頑張ってきたけど、そこの面というのは僕らが作ってきたものではなくて、父たちや祖父たちが作ってきてくれたもので、その恩恵を受けているので、やっぱりそれってただでもらっているだけではダメで、 いただいたものは返さなきゃいけないというのは正直あるので、お世話になった皆さんのために何かを返すことを求められているし、義理というか、当然のことと思ってやって います。
いいこと言ったんじゃないの、今?(笑)
一同:(笑)
ーお父さんと比較されたりすることはあるんですか?
矢崎:たぶん誰も同意してくれないと思うんですけど、 常に自分自身に対して「足りない感」はあって。父は家にいると、自分で書いた手帳のスケジュールなのに字が汚すぎて読めないし、どこに何をしまったか忘れるし、事務処理できないダメな親父だったんですけど、外に出ると完璧すぎて、親父が亡くなって3年半か4年経つんですけど(※取材当時)、ほぼほぼ悪口言われたことがないんです。僕は比較的雑なところもあるし、「父だったらこういうことしないかもな」とか「父だったら流してたのに」っていうところを僕は気にするとか、そういう心のなかでの葛藤はあるんですけど…
矢島:めっちゃわかります!
矢崎:葛藤はあるんですけど、でも、僕は僕だし、僕は 母の血が流れていることにもプライドを持っているし、父にはなれないけど、男の子なので父を超えたい。とずっと思ってました。
些細な話なんですけど、父の年収を一瞬超えたことがあって。その時に一度「勝ったな」って思って、親父も「やるじゃねえか」って言ってくれた時に、親子のわだかまりは消えました。そういう表面的なことじゃなくて、父の存在自体を超えることに目線が移った時に、急にバーっと山が高くなって、聞けば聞くほど偉大だったんだな、と感じます。
亡くなるってずるいと思って。生きてれば超えられるかもしれないのに、しかもみんなの お父さん・おじいちゃんもそうだけど、いい時に亡くなってるんですよね。いい思い出のまま亡くなっちゃったから、目標が高すぎて…。
でも、唯一勝てているのは時間で、残された時間があと何十年もあるので、どこかで抜けばいいかな、と思いつつ、でもそのためには結構高い斜度でいかないと超えられないし、1人じゃできないので、みんなと力を合わせることで斜度を上げていって、勝ちにいきたい。些細な話なんですけど、根本は父に勝ちたいんですよ。勝ちたいんじゃないな、認められたいんです。
これ結構全国のJC(青年会議所)メンバーが共感するところじゃない?
「人生の思い出の1ページ」をなくさないために
矢島:矢崎さんや麻琴さんからはお父さんやおじいさんの話題がよく出るじゃないですか。中村さんのお父さんの話ってあまり聞いたことがないかも。
中村:うちの親は普通ですからね(笑)。どちらかというと、祖母がすごかったですね。祖母の一族は海軍一家だったんです。
ーずっと原村にいらっしゃったんですか?
中村:原村じゃないんですよ。僕の親は移住者で、お墓は東京の浅草だし、母は八丈島の生まれなので、ずっと原村ではないんですよ。父方の祖母の一家が、海軍一家だったんです。
僕は小学校の時から夏休みは八丈島に島流しでした(笑)。1ヶ月帰ってこないんです。子ども1人で高速バスに乗せられて、そのまま羽田空港から八丈島へ。夏は実家のペンションが忙しかったので、ずっと八丈島に預けられていました。
だから、祖母に預けられている時に、ずっと「中村家は…」と祖母から聞かされていましたね。今でもその印象が強いです。
矢島:そうなると、「家を背負った」というより、「原村のペンションビレッジを背負った」という感覚のほうが強い?
中村:そうですね、家は正直そんな歴史とかがあるわけではないので、そんなに強い思いはなくて、ペンションビレッジや地域を背負ってるというよりは、地域に来てくれる昔からのお客さんの思い出の場所であり続けることが僕にとっては大事です。それだけはなくしたくないので、その昔からのお客さんの子どもとか孫とかがお客さんとして来てるんですけど、そこだけは大切にしたいです。
そういう意味では、僕は親とか上の代にデカい存在があるわけじゃないので、親とかと比較することはあまりなくて、そこが考え方のベクトルのところでそういうプレッシャーを上から受けたことはないですね。上から受けるというよりは、外から受けるみたいな感じかもしれません。「場所をなくすなよ」みたいな。
ーお話を聞いていると、「ペンションは大切にしたいけど、自分がやりたいわけではない。でも、地域に来てくれる人の人生の大切な場所であり続けたい」っていうことを、また違う形で表現しようとしているというのが、今、中村さんがしようとしていることなんですか?
中村:そうですね。ペンションとか、宿をやっているとありません?毎年お客さんで来てくれて、自分はそこにいるんだけど、お客さんは家に帰っていくんですよ。だから、毎回お客さんは帰る時に笑顔で「さようなら」って言ってくれるんですけど、僕は寂しくてしょうがないんです。寂しいんですけど、そこに思い出や記憶や大事なものがあるから、ずっと来続けてくれるっていうのがあって、形に残っているかいないかまったく見えないんですけど、お客さんたちにとってはとても大切な場所で。
だから、ペンションで何かやる時も建物を壊していいかいけないかって、僕はいつもすごく悩むんですよ。その柱一つとっても、お客さんにとっては思い出の柱かもしれない。だから、僕にとってはペンションは新しくすればいいってものでもなくて、だけど、今のままじゃダメで…っていう葛藤をいつも抱えています。そこが誰かの人生の思い出の1ページとしてあるっていうところが僕にとってすごく大事で、それを残すっていうことにすごく意味があるような気がしています。
みんなが幸せになれる場所を、守りつづけたい
ーいい話ですね。そういう文脈で敦史さんからもお話を聞いてみたいんですけど、敦史さんが一番自分の意志で家業を継いでいる印象を受けたんですけど、いかがですか?
敦史:そうですね。使命感っていうと綺麗事みたいですけど、おじいちゃん・おばあちゃんから若い人まで農家さんがいて、すごくよくしてくれるし、みんなが頼ってくれるし、その人たちがお店に出したものが売れるとスタッフである僕らも農家さんも一緒に喜べるっていう、そういう日々の仕事ですね。そういうのは自分がサラリーマンだった頃からたまにはお店を手伝っていたので、見ていて普通の仕事では得られない特殊な環境っていうのに魅力を感じた部分はすごくありました。
ーご自分で見ていて素敵だなって思った部分も大きかったんですか?
敦史:楽しそうだな、面白そうだなっていうのがいちばんあったんですよね。「これは永続的に続けていくべきだ」と思ったし、地域のためっていうとおこがましくて嫌なんですけど、その地域のためにもなる仕事でもあるし、関わってくれる農家さんの家族、おじいちゃん・おばあちゃんからお孫さんまで巻き込んで、みんなが幸せになれる場所だなっていうのがいちばん感じた部分です。そこに自分が中心となって関われるポジションじゃんってふと思って。
父が年を重ねていくっていうこともあるし、たてしな自由農園を創業した仲間っていうのは父の昔からの同世代の仲間たちで始めていたので、同じように仲間も歳を重ねていって、せっかくいい場所を作ったのに、このままじゃ消えていっちゃうな…っていうのを危惧していたっていうところで、自分が入ればこれから続けていくのにみんなが納得するというか、いい形でできるのかなと思って、今に至ります。
思い切ってやったというか、前の会社で働いていた時は先輩や直属の上司からも、「もし転職とか向転換をするのであれば、35歳より前にやらなきゃダメだよ」と新卒で入社した頃から言われていて、僕が転職したのが33歳か34歳の頃だったんですけど、そういうこともあって、家族の状況を考えても、このタイミングだったらなんとかいけるかなって思って、すべてタイミングが合っていたなっていう感じでパッと方向転換しちゃいました。
ー敦史さんの方向転換のタイミングも然りですが、皆さんの様々なタイミングや縁が巡り巡って8Peaks familyに繋がっているんですね。
皆さん、素敵なお話をありがとうございました。皆さんをくくるキーワードは、もはや「しがらみ」じゃないですね。共通するのは、地元、家族や周囲の人々、お仕事に対する「楽しい」「好き」という気持ちでした。