備忘録(横道逸れ太郎君、暴れる)
備忘録(読書感想文『まだ知らない青』③)へいく前に。
『五行歌の会』経由で五行歌に触れたことのある人には(五行歌会へ行ったことのある人なら確実に)ごく自然に身についていることなので、読み飛ばしてもらっても大丈夫な話です(読み飛ばす以前に今日中に③をアップできるのか??)
【解釈で遊ぶ】(読書感想文『まだ知らない青』②)で私は水源氏の歌の“まあるいもの”や“極上の一滴”について色々想像した。
それはあくまで想像であって、「書き換えたほうがいい」と指摘している訳ではない。
水源氏が「まあるいもの」「極上の/一滴」と表記したのは、そうとしか言えないからだ。
作者が練り上げた言葉そのものに触れ、言い換えを指摘するのは、その言葉に行き着いた作者の道のりを否定することだと思うから、しない。
伝わってきたのか、伝わらなかったのか、どう伝わってきたのか、どこが引っかかってわからなくなっているのか、わからないところを、どう自分の内を掘り起こし、想像するのか。どうしようもなくわからない溝がどのくらいの深さで横たわっているのか。
それを自分の言葉で、誠意を込めて尽くすこと。
どう受け止められるかは、作者側の自由として。
それが感想を伝えるということ。
それが、作者を、作品を、リスペクトするということ。リスペクトを伝えるということ。
確かに自分が歌を作って、お披露目した後でも、人の指摘でハッとさせられることはあるだろう。
だけど、ハッとさせられても、しっかりと取り組んだ歌(見つめた想い)なら、たとえ、己の未熟さを痛感しても、安易に書き換えたくなることはないだろう。
間違ってはいけない。
人に歌を見せる時、人の歌を読む時、書き手にも読み手にも、プライドがあるということを。歌の向こう側に、自尊心があるということを。
完璧な歌を書きたい、読みたいという欲望を否定するものではないが、それが一番大事なことではない。
お遊びで歌を書く人もいるだろう。
それはそれでかまわない。
でも、その作った歌(想い)に、ちゃんと向き合っていなければ、真剣に読んだ人の言葉に対してひるんで、言い訳で心を防御をしなければならなくなるだろうし、やがては、その真剣さにドン引きし、書くことが面白くなくなるだろう。
「先生」的な存在を求め、私の歌をよりよく完成させてほしいと願う人もいるだろう。でも残念ながら、言葉そのものに触れられて、幅広く受け入れられたその歌を、「自分が作った」と胸を張って言える人はそういないだろう。
手を加えてもらって、自分が言いたかった想いに近づいた歌になったとしても、一時的な感謝はしても、きっとその歌を作者は捨ててしまうだろう。
間違ってはいけない。
歌の完璧さを追い求める権利は、書き手にしかない。でも大事なのは、完璧さではなく「追い求める気持ち」の方だ。
読み手は、歌を読んで、感動を欲する気持ち、理解しようとする気持ちが先走りやすい。でも前提に、書き手が勇気を出してその歌(想い)をお披露目していることを忘れてはならない。
「歌の完璧さ」とは何か。
自分が感じたこと、思ったことが、他人にそのまんま伝わるということ。一致するということ。そのまんま、だよ。
それを追い求める気持ちは強く持ったほうがいい。欲深くそういう気持ちを持ってやっと、ある一定の合格点を取れる歌が作れるのだ。
共有し合って辿り着く、完璧な100点の歌なんて、そう感じる一瞬(錯覚)があるかないかだ。
恐らく数時間後、数日後にはその煌めきも消えてなくなる。記憶や余韻が(例え錯覚だとしても)残っただけでもいいほうで、またわからなくなるものだ。
簡単に言うと、結果が全てではないということ。過程の方が大事ということ。
読み手も書き手もそこを尊重すべきだということ。
……あれ?簡単に言えたじゃないか。まあいいや。もうちょっと続ける。
それは一首に対してかけた時間の長短ではない。それでは計れない。
長く推敲したから納得のいく歌になるとは限らないし、一瞬の閃きだから安易だとも言い切れない。
自問自答を繰り返し、辿り着くしか方法がない。読み手にもそれを納得してもらうしかない。
俳句や短歌は知らない。少なくとも、『五行歌の会』経由なら、まずそういう考え方に触れる。
あと、仕事でキャッチコピーや文章を完成させる時は、結果が全てだから、この向き合い方は当てはまらないと思う。
1人で作るわけはなく、共同作業だと思うし。ある意味こんな風に自分基準じゃなくてもいい。むしろ妥協が必要で、それにはそれの面白さもあるのだろう。
根本的に違う。仕事の場合は。心構えが似て非なるものだ。
うぅ…さらに横道逸れそうなのでやめておく。
……③を考えていくうちに、こんな「横道逸れ太郎」君が現れて、胸の中で暴れた。すいません。
明日こそは③を(え?明日なの?)。