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世界中の平和を望むなら

ウクライナが侵略を受け始めてからそろそろ3ヶ月。


日本では、政府が避難民の受け入れを表明し、避難して来日した人も1000人を超えた。様々な企業も受け入れる姿勢だ。

力強い国際社会の姿が示されている。


すでに日本にたくさんの困窮した避難民がいるのに、彼らのほとんどは排除し、国際社会の波に乗ってウクライナの人だけを助けようとする国の姿勢を見れば、これがパフォーマンスではなく他まで波及することを心から願う。


受け入れるということ


難民として受け入れるということは

一時的な避難にとどまらない可能性があるということだ。
(現時点では"難民"ではなく一時的な避難民という希望がほとんどだけれど)


破壊された町が、人の住める状態に戻るには時間がかかるし

政治的な要因によって帰郷できないことも十分に考えられる。

その間に生活の基盤は新しい土地に移る。

避難が長期に渡るほど、帰国・帰郷が遠のいたりもする。



かわいそうだと見えるうちは、人は手を貸す。

だけど人はずっとかわいそうなことはない。

主張だってするし、迷惑だなと思うことだってあるかもしれない。

受け入れ難いことも当然見えてくる。

保険や支援制度が充実するほどに、税金もかかってくる。

実際に難民を多く受け入れた国では、不動産価格が高騰したり就職が難しくなったりすることもあった。


ということを踏まえると
今後は寛大な心で受け入れられるか、ということが課題になってくるのかも。



今なにができるか


今、一般の人がウクライナの人々のためにしてあげられることは、来日した方へのサポートや寄附の他は、そんなに多くはないと思う。


そんなにないけれど、

直接的な何かはできなくとも、共存できる未来への準備運動はできる。

ウクライナの文化や歴史を知ることもその一つ。

お互い気持ち良く過ごしたいから。

全てに共感できなくてもいいし、たぶんできない。

できるかできないかではなく、知って理解しようとする。


避難を余儀なくされる人は、ひとまず大変だから、

彼らがここに慣れるまでに時間的に余裕のある私たちが

理解の速度を速めるといい。



理解し合えないことを理解し合う


尊敬するジャーナリスト・小松由佳さんの著書「人間の土地へ」にこんなエピソードがある。


出されたものは、丁寧にいただく仏教徒と

彼らからもてなされた豚肉エキスの入ったカレーをどうしても食べられないイスラム教徒


どちらも善人で、お互いに尊重し合っているとしても
譲歩するのが難しい場面が描かれていた。(一つ一つが肌ごと想像できる気がするから読んでいただきたし)



「郷に入っては郷に従え」の価値観の中で育つわたしたちの中に

他人の価値観よりも大切なのものを持つ人たちが入ってくるかもしれない。
ウクライナの人がどうとかそうとかではなくとも。


距離があり、空間や価値を共有しなければ諍いはそんなに起こらないかもしれないけど

距離を取りたい相手と同じ社会で生きることは、新時代に何をもたらすだろうか。

「分かり合えないことがある」という事実に直面した時、
どういう道を選ぶだろうか。



相手を受け入れるということとは、具体的に
自分の「こうあるものだ」「こうあるべきだ」「ここはこれが当たり前」
を一つ一つ解いて、「本当に?」「絶対に?」「他に道は?」と問うてみることかもしれない。
目立たなくて、面倒で、時に苦しいこの作業の繰り返し。

これが、相手を受け入れるという忍耐のいる作業。
なんて面倒臭い。なんて地味。
誰にも見えない。


"多文化共生"は、"ダイバーシティ"は言葉の耳ざわりのような美しさではないかもしれない。

だけどめんどくさくて地味で、時々苦しい山を乗り越えた先にあるのは、これまで見たこともない美しい世界かもしれない。


じつは結構おもしろい気がするのだ。
自分にある小さな殻をたくさんやぶるのは。
少しずつ少しずつ、誰かの踏み込める扉が開き
違いを受け入れるふかふかの土壌が耕されるのを感じるのは。


世界を救い、平和をつくるのは、スーパーヒーローじゃない。
この小さな心から生まれ、育むものなんだ。

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