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原理原則は本に書いてある

こうやってnoteに文章を書いているような人は、活字を読むことを、呼吸するように、あたりまえにこなしているかもしれない。
(たまに、書くことと、読むことは別という人もいるけれど)

でも、世の中の人は、ほとんど本など読まないし、活字など一文字も目に入ってこないという方が多数いるのだ。

わたしもついつい、そのことを忘れてしまうことがあるけれど。


どこから情報をとるか?

活字の誕生で、人は分断され、
ラジオを聴く、聴かないで分断され、
テレビを観る、観ないで分断され、
インターネットにアクセスできるかどうかで分断され、
外国語が得意かどうかでも、分断され、

同じ世界に生きながら、違うものを見ている私たちで、世界は分断されている。


本は最も古い知識のアーカイブで、今は次第に録音や録画のアーカイブも充実しつつあるけれど、元ネタの情報のほとんどは「本」の中にある。


最近、原理原則というものをいう人が増えているけど、その元ネタも、大部分は、昔誰かが発見し、「本」という形でまとめられている。

性が欠けているからではない。他者の指示を仰がねば、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。
つまり人間は自らの責任において、未熟な状態にとどまっているということになる。

カント

私たちは自ら望むなら、図書館で、無料で、原理原則について学ぶことができる。でも、めったにそうしようとしない。

それは、どうしようもなく、活字という障壁があるためで、いずれ知恵は、本の狭い鳥かごから飛び出し、録音や、録画の中に居場所を移していくかもしれない。

けれど、本当にそうなるだろうか?ということに、私は疑問を感じている。

Googleは、何かを調べるのに便利で、すべての情報がネット上にあるように錯覚させてくれることもあるが、

時に、調べ物をしていると、「意図して情報を隠されているのではないか?」と感じるときがあるからだ。


オリジナルの情報を探して、国会図書館に籠る力は、わたしにはないし、結局、本当に情報が隠されているのかどうかも分からないけれど。

もしかして、誰かにとって都合の悪い情報は、多くの人の目に触れない、活字の森の奥深くに、ずっと、永遠に隠されたままになるのかも…なんて、ことを想像したりもする。


だから、本当に原理原則が知りたければ、これからも、図書館に行くしかないのかもしれない。


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