変わりゆく色の文学的描写
遠くで暮らす友人に思いを馳せることがある。
少年時代長い時間を過ごした彼のことは尊敬しているし
今でも信頼できる、良い友である。
しかしお互い地元を出て、全く違う生活を送るようになった。
感覚の違いは大きいはずだ。
なにせ触れる環境が全く違うのだ
不思議なものである。そこにいるのは間違いなく彼だが、
我々は一緒に居た頃の我々ではない。
テセウスの船で例えられるが、毎朝違う場所で起き、違う毎日を送る。
この数年で知識も考え方もアップデートを重ねているはずだ。
お互いに。
何もかもが違っていてもおかしくない。
それでも私の中で彼は彼、
おそらく彼の中で私は私である。
何が彼を彼たらしめているのだろうか。
今でも付き合いがあることが不思議におもえてくる。
彼は今の私の生活に登場したとしてもその一瞬だけのかかわりの人だろう。
おそらくここまで深い関係になることはない。
もちろん彼のことは好きである。
お互い完成とは程遠い時期に出会っている。
仲が良かったのは思春期の頃の話である。
お互い大きく成長して感覚も異なってきてはいるが
それを不快に思うことはない。
今でも彼とともに居られることを誇りに思う。
根本が変わっていないからであろうか。
しかしそうだとしたら出会った人の数だけ親しい友達が増えそうなものである。
出会いは増えたものの中にこころの中に踏み込むような関係の人が
相関的に増えるということはない。
一番敏感な時期に出会った人たちというのはかけがえのないものであるように感じる。
今度何か彼に物を買っていったとする。
私たちの人生が純文学だったら、
彼はそれを、帰り道に捨てるだろう
自分の生きている世界とは違う色のものであることを、苦く思って。
色の違いが露骨に浮かぶような文学的描写がされるに違いない。
しかし現実にそのようなことは起こりえない。
気がしている。
ずれた色をはっきり感じないようにフィルターをつけられるのは
人間の才能なのではないだろうか。
人間の欠陥故かもしれない。
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