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おそらく私たちはもう、ひとつめ様に魅入られている。

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注:この文章は映像作品『Adam by Eve: A Live in Animation』のネタバレ要素及び考察を多分に含みます。未視聴の方などは特にお気をつけください。


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エンドロールが流れ切って終演の挨拶を聴き届けたとき、誰も拍手をしないのが不自然なくらいの何かを観た、と思った。

劇場で作品を観て、こんな気持ちになったのは初めてだった。


いつだって映画館の席に座れば、どきどきはする。広告が全て流れ終え、暗転すると深呼吸したくなる。スクリーンだけが明るくなり、観客の瞳を輝かせる。


それは映画館という特別な空間においては、特記するようなことではない。


だけどぱっと画面に文字が浮かんで、Eveさんの声が聞こえたとき、これは今まで観てきた「映画」じゃないと強く実感した。

今にもスクリーンの真下にスポットが当たり、Eveさん本人が現れそうな気がしたから。それだけ、録音して用意されていたはずのメッセージの声は、今同じ場を共有していると錯覚できるくらいの息遣いをともなってそこに在った。



冒頭から終幕まで絶えず耳に入ってくる音楽が全てEveさんの楽曲であることも、長編の映像作品として非常に新鮮だった。

LIVEではないのに、これはLIVEだ、と思った。終演の際、心から拍手を送りたくなった一番の要因なんじゃないかとも思う。

後からパンフレットを観て、Eveさん自身も語っていることを知ったことだけれど、本当に劇中の音楽の扱われ方が丁寧で印象的だった。


一人称視点でイヤフォンを通して聴いていた音楽が、第三者が音漏れとしてイヤフォンの外から聞く音になる瞬間。吹奏楽部がおそらくは部活中に合わせて練習をしている音。屋外の広告の遠くに聞こえる微かな音。彼女たちの過ごす毎日に溢れかえるEveさんの楽曲。そしてだんだんとそれらの音が、Eveさんの口から紡がれる「歌」へと変わっていく。


映像作品を観ているのに、聴かなきゃ、全部を聴きたい、とずっと思っていた。あますことなくEveさんの楽曲が詰め込まれていて、次はどんな場面でどんな風に流れてくるのかとてもわくわくした。



それからタキちゃんとアキちゃんは間違いなく等身大の高校生だった。

放課後にファミレスへ行ったり、カラオケに行ったり。気づいたら学校にいるのに居眠りしてしまったり。誰しもが高校生であるときに経験するような、したような。そんな日常が、彼女たちのシーンでは確かに詰め込まれていた。

それが顕著だと思ったのはカラオケの場面でのすこし画質の粗い映像だった。街往く高校生の肩を叩いて、スマートフォンの写真フォルダを見せてもらったらきっと似たような写真や動画に行き当たる。綺麗に撮るために撮ったものではない、「今」を忘れないために撮ったもの。起こることの無い何かが侵食する世界で、そのリアルさが焼き付いた。



タキちゃんはアキちゃんにEveさんの曲のプレイリストを共有したとき「布教」と言った。それは誰かに自分のすきなアーティストや漫画などを広めるときごくごく当たり前に使われる言葉だ。しかし本来は宗教を広めることを指す。この作品はどちらの意味も持ち合わせているような気がした。


ひとつめ様はおそらくは「この世ならざる」「畏れられている」存在だ。そして作中の世界の全ての音楽の「創作者」であるEveさんはおそらくは「神」に似た何かなのではないかと思う。この世界で流れる全ての曲を彼は「知って」いる。畏れられるひとつめ様と、創り出す者のEveさん。

そんな二人が作中、リンクする。Eveさんが歌うと、その姿にひとつめ様の姿が重なる瞬間がある。大きなひとつの丸い目が、暗闇に沈む顔に上書きされる。屋上に立つアキちゃんが、その更に上に一人立つEveさんを見上げたときふとそう思った。

その二人でひとつのような存在を、タキちゃんは見た夢として、曲の布教として、アキちゃんに伝えてしまった。なんとなく見たことがある、聞いたことがある、という抽象的だった記憶が、はっきりと形を持ってしまった。

それが今回の長く混沌とした夢をもたらしたのかな、とひそかに思ったり。



そう。一緒になって長い夢を見ていた。アキちゃんが夢だと気づくまで、スクリーンのこちら側の人間もみんな揃って。夢だと気づけなければいつまでも醒めない、「何か」に侵食される夢。


LIVEではない。それは判ってた。

しかし確かにこれは映画でもない。


気づく間もなく日常から遮断され、気づかないうちに長い夢を見ていた。


映画館に足を運んだとき、もしくは家でNetflixを開いたとき、すでにもうひとつめ様はすぐそばにいたんだと、そう思わされるような一時間だった。





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