あたしの家のはなし(3)
父は昭和ひと桁、戦争前のまだ裕福な地主時代の長子、長男、その時代の「惣領息子」として育つことになります。
当時は戦前、明治時代に作られた田畑永代売買禁止令に基づく地主制度の時代、小作人が田畑を耕し、育てた作物を地主へ収めていた。
地主はその一帯の土地の所有者である。
いま思えば、あの実家では人を上下として捉える物言いが多かったように思う。
無論、記憶の父もそう言う話し方をすることがあった。
小作人や親戚内でも大切にに育てられた父は、予科練(海軍飛行予科練習生)へ入るほど戦争へ行くことを志願したそうだ。当時、ちょうどその年頃の子どもがおらず、自分の家に出征のはなむけの旗が立たず、悔しかったのだと話していた。
ただ、終戦までに出番はなく、やや肩透かしのような本人にとってはカッコ悪い感じでの帰宅をやむなくされた。
戦後の新しい時代、その当時、父は16-17歳、まだまだおぼっちゃま時代は続いていて、ご飯は祖父(当時は父の父)の次にご飯をよそってもらえる立場だった。
高等女学校や高等学校、学校制も変化する時代、父は工業高校へ進学する。数学の教師の経歴を持つ祖父の息子としては、やや自由(悪くいえばワガママを通した)な進学で、本人にも反抗期的な心理が働いていたようだ。
学校の裏門で、数名集って煙草を吸っていたというのは父の武勇伝、よく聞かされたものだ。
卒業後、父の反抗期もそれまで。地元の有力者などの伝手もあり、地元で公務員として就職、以来、父は家を出ることなく名目上8人兄弟の長子として家を、祖父母を支えていたかたちである。
責任感というよりも見栄やプライド、ストレスを上手くかわすことができず、よく声を荒げていました。
それは、元教師の祖父に頭が上がらなかったせいもあるかもしれない。
本心の父は重荷を背負うことは得意ではなく、裏門で喫煙するようなスリルを楽しむような人生が似合っていたのかもしれない、と今は思っている。
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