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人はみな妄想するし、我々がばらばらであるかぎり分析は終わりながら続くのかもしれないー『人はみな妄想する』雑感ー
松本卓也さん著『人はみな妄想するージャック・ラカンと鑑別診断の思想』がとんでもなく明快ですごくおもしろかった。「神経症と精神病の鑑別診断」がラカンの、そして本書で著者が目する問題意識に通底する問いになっており、実用的かつ端的な記述で非常にわかりやすい。これまでのわからなさは何だったのか。強くおすすめします。
本書は、50年代から70年代にかけてのラカンの理論的変遷を時系列で整理し、その中で鑑別概念がどのように位置付けられ、また変化していったかを動的に論じるものである。
簡単に流れを振り返ってみる。まず、初期の理論においては、構造論的な象徴体系の扱いが議論の中心にあり、精神病と神経症を分かつ決定的要素は「父の名」つまり、主体をまとめあげる超越的な項の成立という点にかかっていた。その後、既存の象徴システム(エディプス神話)では捉えられない外部的存在であるスキゾフレニーによって「神経症者が依拠する象徴秩序もまた「妄想」のひとつ」(p.324)であるということが暴露される。言い換えれば、「父の名」の絶対的特権性が相対化され、神経症であろうと精神病であろうとみな何らかの「法」という虚構(妄想)によって心的構造の安定性をどうにかこうにか維持しているということが露わになってしまう。表題でもある「人はみな妄想する」とは、誰しも何かしらの虚構に支えられる限りで主体のまとまり(シニフィアンの連結)を留めることができるという「私」の宿痾を意味していると理解することができる。後期に至っては、これまで厳密に区別されていた精神病と神経症の鑑別が大々的に論じられることは少なくなり、代わって両者を統一的な枠組みの中で把握する理論が導かれるようになる。すなわち、「鑑別診断という論点そのものが脱構築されるに至った」(p.437)ということである。ラカン理論における鑑別診断を軸とする本書はおよそ以上のような展開で論じられている(と理解している)。
こう見ると、精神病と神経症の厳密な鑑別をめぐる論理的苦行の末、晩年のラカンは分けつつ分けない、分けないながらも分ける、仏教でいうところの「中道」に辿り着いた仏陀とどこか重ならないでもない。詳しい内容は各々で手に取っていただくとして省略するが、本書ではラカンの全体像を総覧した後に、ラカンの到達点であり、なおかつ現代的な精神分析の新たな筋道となりうる「自閉症」的な精神構造や生き方に着目していることが興味深いものであった。発達障害については個人的に関心をもっているところであるため、発達障害、中でも自閉症に関する本書での議論を振り返っておきたい。
自閉症というのは程度はさまざまであれ、およそ「私」というのは「非連続の連続」であり、「結ぼれであるとともに解け」であり、現象が去来する交叉点に過ぎないといった切実な自己感覚を生きざるを得ない、「ばらばら」な傾向を持つものの集団と考えられると思う。
その点において、私は西田もガタリもレヴィナスにも、同じものを感じてしまう。すべてが流れ、動き、変わってゆく。永続する「私」は初めからない。仏教にはこのやむない真理を諦めながら肯定する安心感があった。
彼らが「ばらばら」な自己感をどこから得てきたのかというと、時代特有のものや思想的風土も当然あるだろうが、その根底には「ばらばら」的なものに惹きつけられ、深入りせざるを得ない体質的なものがあると思われるのだ。それはレヴィナスでいえば、部屋の家具が軋み、ゆるやかに世界が身近なそれとは全くの別物に変貌していく気配が気になって眠れないことであったり、西田でいえば赤いものを端的に「赤い」と言えないまま半世紀経過してしまうところだとか(「赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路あまりの年をへにけり」)、ガタリでいえば節操なく色んな領域を駆け回り、他人の概念を自分の方向に引っ張っていく感じ、フィジカルの面においても思想の面においても驚異的なフットワークの軽さ等々に垣間見える気がする。
いずれにしても、一つの所与の形式を受け入れ、順化していくことが難しいか、整理的な拒否感をもっている。ここでいう自閉症的な「ばらばら」とは、社会的に承認された価値に自らを適合させ、体系に収まりきらない部分を切り捨ててしまうことができないことともいえるのである。
社会的に承認された価値というのは、その時代においてマジョリティを占め、圧倒的な力を持つ権威としての「法」である。かつて家父長制が絶対であった時代は「父の名」が揺るぎない「法」として機能することができた。しかし、「法」はエディプス神話に限らず大多数が法として共有するものならなんでもよいのである。そこで、現代を代表する「父の名」は金とか承認であろう。
これについて精神科医の兼本浩祐先生は、『普通という異常』という本の中で世の中の多数派が盲信的に従う法は「金・色・名誉」に収斂するとしている。
「金・色・名誉」、この三つに共通するものは、実体の有無にかかわらず、背後に「他者」が想定される点である。他者への関心の極端な乏しさを病というのであれば、過剰に他者を希求することもまた病である。「他者」という「法」に支えられた価値体系の中で回転車を回すハムスターのように、がむしゃらに邁進できるということ。それが健常発達の脳の特徴であり、ニューロダイバーシティが注目される中、過剰な他者希求に身を滅ぼすニューロティピカルも特有の病といえるのではないかというのが『普通という異常』が言わんとするところであった。SNSでの「いいね」という可視化された承認に翻弄される様は、他者の欲望(いいね)を欲望(いいね)する循環構造が渦を巻いている状況のわかりやすい例である。
ところで、ニューロティピカル、つまり健常発達がその時代における他者の欲望を素直に欲望し、それにしたがって自己を定位(西田のいう自己限定)することができる者だとすれば、他者の欲望に関心が持てず(欲望できず)、社会的に望ましい形で自己限定できないものはマイノリティにならざるを得ない。発達障害とよばれる脳はこのような特徴を有するものであり、彼らは良くも悪くも他者が欲望しているからという単純な理由だけでは「法」に従うことができない。
当然、「法」というのは制度的な規則やルールということではなくて、内から外から押し寄せる根源的な全体性の力である。主体に「まとまり」を強いてくる力、「一者であれ」という圧力ともいおうか。
先ほど、西田もガタリもレヴィナスも「ばらばら」であるという点で共通点を有すると述べた。このことは言い換えれば、「一者であること」に逆行し、逃れ出ようとしているということである。
一方でまた、彼らはまさにその「一者であれなさ」という本来であれば危機的な状態をやり抜くことによって、不断にばらばらである振動を逆手にとり、安定感ゼロの床板を踏み抜いて垂直にものを考えているようにも思われるのである。彼らにとって、ものを考えることは「一者である」こととは違う形で「私」を成り立たせる抜け道のようなものだったのではないか。
理論変遷の中で自閉症にフォーカスがあたるようになるのは、「人はみな精神病である(=妄想する)」と論じられるようになる後期以降であった。その時には、分析の終結に対する態度の転回がみられ、分析主体の「症状」は治療されるものというよりも、各人が症状と適度な距離感を保ちつつ、対応していくというあり方が重視されるようになる。松本氏によれば、後期ラカンは症状の治癒不可能性をネガティブなものとして捉えるのではなく、分析終結の条件をなすものとして肯定的に捉えるようになっていったといわれる。「それぞれの分析主体が自らの症状の根にある固有の享楽のモード(特異性=単独性)とのあいだに適切な距離を取ること」(p.379)が可能になったとき、分析は終結を迎えるのである。
「精神分析の終結は、症状の根にある享楽、各主体に固有の享楽のモードとうまくやっていくことができるようになることであるとされることになった。今日的には、このような分析の終結のあり方は、他の誰とも共約することのできない自らに固有の享楽のモードをもとに、さまざまな対象や知識を自分なりに組み合わせ、奇抜な発明を行う、洗練された自閉症者の姿に相当する」(p.437)
固有の享楽のモードと独自の方法でうまくやっていくことができる「洗練された自閉症者の姿」とはどのようなものなのだろうか。これを考えるにあたって、彼らが自らに閉じこもる根源にある原初的な「享楽」の水準について確認しておきたい。先に結論から言うと、私はそこ(洗練された自閉症者)に「一者であれなさ」を抱えつつ「一者である」こととは別様にして「私」をまとめる生き方を重ねるのであるが。
シニフィアンの世界に気づいた時にはすでにいて、他者を認め、自己を見出してしまった言語的主体は原初の衝撃そのものとしての「享楽」に直接触れることはできない。内的な欠乏を構造的な必然とする病者=人間として、かつて一度も手にしたことのないような、それでいて圧倒的な強度をもつ「享楽」の世界に到達することは禁じられているのである。だが身体に刻まれた享楽の痕跡は、何度も繰り返し、様相を変えては全く変わらないものとして主体の前にあらわれる。時に不気味なものとして、謎として、自分にとってもよくわからないものとして、でもなぜか無性に惹きつけられるものとして。そのような享楽は、言語によって置換され、他者と共有可能なシニフィアンの一つではない。それは自分だけに特有で固有の掛け替えのないものであり、現実的な身体に刻印されているものである。享楽とは「身体に言語が導入されるときの、つまり身体の領域にシニフィアンがはじめて導入されるときのトラウマ的な衝撃を刻み込まれた」(pp.352-353)ものなのである。
「身体の出来事」と呼ばれるこのような衝撃はあまりにも激しいものであるため、依存的に症状のうちに反復する。しかし、享楽こそがありとあらゆる症状を生み出す源泉であるという点において、各自の享楽を突き止めることは分析の終結に関わってくる。
それでは、身体に刻み込まれた原型的享楽、「身体の領域にシニフィアンがはじめて導入されるときのトラウマ的な衝撃」とはどのようなことだろうか。
例えば、ヘレン・ケラーにとっての「water」はこのような意味での他から切り離された (象徴界で他のシニフィアンと連鎖することがない)現実界における単独のシニフィアンと呼べるのではないか。
彼女にとって、「water」は、ある種トラウマティックな形で電撃的に到来したはずである。見ることも聞くこともかなわず、世界に翻弄されるだけで主体的に働きかける関わりをもてない彼女にとって、世界とは予測不能に現れては消える、ただただよくわからない謎でしかなかったに違いない。そこにおいて今、ここで全身をもって感じている、いや、生きられている「これ」が「water」なのであるという激震は、文字通り彼女のこれまでとその後を一新にしてしまった。
ただし、「water」の衝撃は象徴界の開闢であるとともに、生き生きと充実した現実界を失う決定的体験でもある。そこにおいて、享楽が「トラウマ的」といわれる意味も理解できるのではないだろうか。
それ自体意味作用を持つ言葉ではなく、どちらかというと「ああ」とか「おお」とか言葉にならないようなうめきに程近い、「water」は原初の享楽として刻印される。その後、自在に象徴を操れるようになった後でも、その痕跡は消えることはない。いわば幼いヘレンにとって、「water」は世界と関係を持つことを可能にする唯一の呪文(開けゴマのような)であっただろう。
※ちなみに、ヘレンケラーの出来事が現実界→象徴界を示しているのだと定式すれば、サルトルがマロニエの木に対して嘔吐した出来事は「逆water体験」とよべる。
ところで、ヘレンケラーのように自覚的ではないにしても、各自に色々な形で「water」に対応する根源的体験があるはずである。
我々はその「water」という原初のシニフィアン(S1)を基礎におき、他者を発見し幻想を作り、象徴界を生きる主体を構築していく。単独のS1は個人に特有の「享楽のモード」として固着し、反復して症状を生み出す。その限りで、分析が扱うべきは言語的に構造化された象徴界ではなく、生の「water」の水準、つまり現実界における享楽にアプローチする必要がある。本書後半における説明はおおよそこのようなものだ。
そこで、別のシニフィアンを導かない無意味なシニフィアン(S1)とうまい関係を築き、病める分析主体が心的構造に埋め込まれた欠乏の「病」を否定せず、かといってエディプスコンプレックスのような普遍的な象徴秩序に押し込むことで処理するのではなく、独自のやり方で「症状とうまくやっていく」ことが大切であると松本氏はいう。そのような分析主体とは、「さまざまな対象や知識を自由にーしかし彼ら自身のロジックに従いながらー組み合わせ、自分なりの大他者を発明し、そのことによって他者と別の仕方で繋がること」(p.380)ができる自閉症者の生き方に見出されるのであった。さらにはラカンの到達点における分析の終結とは「洗練された自閉症」を分析主体が実現することであるとも述べている。
ここでいわれる「うまくやっていく」とは、埋められない穴を含めて「私」であると認めつつ、自分で自分の「大他者」を見つけ、「ばらばら」になってしまう主体を「まとめる」方略だといえる。そのままではバラバラになってしまう「現実界」「想像界」「象徴界」を繋ぎ止める「第4の輪」はサントームと呼ばれ、後期における主要概念の一つとなることも、指摘しておきたい。
子どもが初めて言語に出会うときにトラウマ的な仕方で身体に刻まれる原初言語(S1)は享楽であるとしたが、ラカンはこれを象徴界における「言語(ラング)」を子どもの喃語(lallation)からもじって「ララング(lalangue)」と表した。この辺もおもしろいので、先の例を通じて考えてみる。
例えば、ヘレンケラーが一者のシニフィアン(S1)である「water」を反復的に享楽した場合、「water」はララングとなるだろう。
自閉症児は相手の言ったことをオウム返しにするエコラリア(反響言語)という行動が見られる。これは、言語が特定の状況や文脈と一対一対応で記憶されることで、その状況を別の時点で再現するために他者の言葉をそのまま繰り返すと考えられている。
ここでは例として、「クッキー欲しいの?」という大人の言葉とともにクッキーが与えられた状況を想定してみる。「クッキー欲しいの?」という音韻は、自閉症児にとって無からクッキーを出現させる呪文のように学習される。従って、彼らはクッキーが食べたい時に「クッキーください」と言えず「クッキー欲しいの?」と繰り返すのである。さらには、「クッキー欲しいの?」体験によってもたらされた口いっぱいの甘さや満足感等、快の効果だけが一般化され、万能呪文として所構わず嗜癖的に反復される場合もあると思われる。いずれにしても、そこでの「クッキー欲しいの?」は意味作用をなす(S2を招聘する)シニフィアンではなく、単独のシニフィアンとして、象徴界の水準ではない位相で用いられているといえる。
これをヘレンケラーの例に置き換えると、彼女にとって未知な状態から世界を切り出し、同時に自己を切り出す呪文が「water」なのであれば、パニックになった時に「water」とくりかえすといった状況が想像される。また、それはおそらく周囲からは「ウォ、ウォー」と興奮して叫んでいるようにしか見えない。
「ウォ、ウォー」では本人の安心材料になったとしても「洗練された自閉症者」とは言えない。なぜなら、「<一者の>シニフィアン=ララングは、他者とのコミュニケーションにはまったく役に立たず、むしろ各々の主体が自体性愛的な享楽を独自に得るためのツール」(p.363)に過ぎないからだ。
そのため、一者のシニフィアンを昇華して「他者と繋がれる」形に成立させるためには「ウォ、ウォー」の「water」性を維持しながらも別の形に仕立ててあげる必要があると思う。
そもそも、シニフィアンを連鎖させること(S1→S2)は、自分の世界に他者を受け入れることでもある。ララングの「感覚遊び一色」の世界に自閉しきるのではなく、閉じつつも開けれ、開かれつつも閉じるような形に享楽を変換させるとき、それをサントームと呼ぶのかもしれない。
また、享楽の変換方法は決して無意味なララングを何かに連鎖させて既存の象徴体系に取り込むことだけではない。松本氏が「症状とうまくやっていく」と「症状に折り合いをつける」を明確に区別するのもそのためで、後者は普遍的な象徴的規範に依存して主体を調整するような意味を持つ。「現代のラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならない」(p.378)のである。そこで、ドゥルーズ・ガタリのアンチオイディプスでの試みは、言葉にプラスの意味を付け加えていく(S1→S2)分析解釈に異を唱えるものであり、「意味作用を削減する方向に進み、無意識をある種の直接性において取り扱うような」(p.396)、いわばプラスの解釈とは逆向きの方向(S1←S2)を探究する「脱コード化」の実践なのだという。
反復される理解不能な「ウォ、ウォー的なもの」が手持ちのシニフィアンのうち何に接続するのかを理解するというよりも、何がその人を「ウォ、ウォー」させているのかという根源的享楽に思いを巡らせてみる。この辺から自閉症に対するオルタナティブな支援や介入のあり方を考えてみてもおもしろい。
「洗練された自閉症者」としてラカンは作家のウィリアム・ブレイクを挙げ、『フィネガンズ・ウェイク』こそ彼の「ばらばら」を繋ぎ止める第4の輪、つまり「サントーム」の機能を果たしたと述べている。
斉藤環さんも『文脈病』で指摘しているが、いわゆるアウトサイダーアートと呼ばれる芸術にはふだん象徴界が入念にカムフラージュしている人間の綻びや結び目がユニークな形であふれている。例えば「シュヴァルの理想宮」という名前で知られる古代遺跡のような異形の建造物がフランスにある。これはアーティストでもなんでもない市井の郵便配達員であった男性が33年の歳月をかけて一人で作り上げたものである。これにも、何かサントーム的なもののあらわれを感じさせる。
私の説明で伝わっているとよいのだが、本書があまりにもおもしろい。おもしろいので、いろいろと懇意にしているway_findingさんにすぐさま勧め、ともに読んでいる。
彼曰く、「「うまくやっていく」ことは「自分で自分の起源神話をその都度作ること」だよね」。ほんとうにそうだと思う。
その都度の自己創発に立ち会う。「私」の表れをさまざまな角度から析出させてみる。ガタリは無関係な要素を短絡させ、接近した項を引き伸ばし、折り畳んでは近づけ近づけては遠ざけるようなアジャンスメントの操作を「パイこね変換」と呼んでいた。これに倣えば「自分で自分の起源神話をその都度作る」とは「自分で自分のパイをこねる(wayさんがレヴィ=ストロースの神話論理の分析でよく用いられている表現では「マンダラ(=心)をお餅を伸ばす・くっつけるように振幅させる」)」と言い換えることができる。
「私」は既存の「大他者」で安定が保証されているようなものではなく、構造上不断にブリコラージュ(パイこね)されなくてはならない。欠如が埋め込まれた、不全体としてのしなやかな全体。風穴は換気口で、構造のもろさは柔軟性である。心とはそういうもので、「我々の自己とは世界が自己において自己を映す、世界の一焦点たるに他ならない」(西田幾多郎)ところの、焦点なのである。「ばらばら」である我々は、自ら材料を拾い集め、自由につなぎ合わせて「私」を瞬間ごとにDIYしていく必要があるのだ。
またそれは、西田が「作られたものから作るものへ」というような「行為的自己」の位相において認められるのかもしれない。
たった一人で巨大な宮殿を荘厳したシュヴァルは、ふと不思議な形をした石につまづいたことが創作のきっかけになったのだという。例えば彼のように黙々と石を積み上げ続けるような行為ひとつに、虚構が虚構であることを分かった上で自分でオリジナルな虚構(神話)を作り出していく分析主体の姿が認められるのではないだろうか。ブレイクの場合、彼のサントームは「作品を書くこと」でありシュヴァルは「石を積むこと」であったとして、「私」のそれはなんなのか。
それを知ろうとするならば分析家から意味の解釈が与えられるのをじっと待っていてはだめで、自分の身体で行為し続けなければわからないだろう。
「それぞれの分析主体が自らの症状の根にある固有の享楽のモード(特異性=単独性)とのあいだに適切な距離を取ること」(p.379)、「症状とうまくやること」が可能になったときに分析は終わりを迎えるのだとすれば、分析の終結は行為の継続であるといえる。行為(西田的な意味でのポイエシス、ガタリのいうアジャンスメントの組み替え)を絶えず生きることでサントームは自ずと実践されるものであり、「気づいた時には分析は終わっていた(症状とうまくやれていた)」という感じが理想的な分析の終わりなのかもしれない。