存在と非存在の二辺を離れる レヴィナスを中論で読む
清水高志さんの「空海論/ 仏教論」を読んでいる。ことごとく大事なことばかり書いてある。
レヴィナスを中論で説明するとすごくおもしろいし、混線している部分がだいぶスッキリするという直感があるが、私の力量が全然足りない。でも無理なりに言葉にすることで少しずつ可能になる部分も多いと思う。
仏教で「離二辺の中道」と説かれる論理がある。以下のようなものである。
① Aである
② 非Aである
③ Aでも非Aでもある
④ Aでもなく非Aでもない
これを順番に第一レンマ、第二レンマ・・・と呼ぶ。西洋では第二レンマまでが限界で、第三レンマ以降は排中律として否定されるのであるが、昔のインド人はそれとは頭一つも二つも抜けている。彼らは「不生不滅」(生ずるでもなく滅するでもない)などという第四レンマの徹底こそが最も安定した形であるとか考えているくらいで、そもそも論理の奥行きが違うのである。清水さんが展開されている「トライコトミー(trichotomy)」という論理は、複数の二項対立(A/非A)の循環を経て、すべてが第四レンマ(Aでもなく非Aでもない)に収束し、ありとあらゆる二項対立のうちどの極(項)にも唯一的な原因は求められないという構造を示すものだという。
そこでまず用いられる基本的な二項対立となるのは、「含むもの/ 含まれるもの」、すなわち「内/ 外」の二項対立と「主体/対象」の区別、そして「一なるもの/ 多なるもの」の対立である。どんなに複雑で高度な問題であっても、その主語的、具体的な内容を極限まで削ぎ落としていけば、こうした極めてシンプルで経験的な二項対立に辿り着く。
レヴィナスは自己の内側に既に他者が含み込まれている、「自我の現前はそもそもの初めから他によって解体されている」(「存在の彼方へ」, p.293)という。
一見難解なように見えるが、上記の二項対立に沿わせて考えてみると、これは真っ当な考え方である。なぜなら、「私」が成り立つ上ではそこには常に同時に「非-私」が仮定されなければならないからだ。つまり、「非-私」に対してのみ「私」が生じ、「私」に対して「非-私」が生じる。
また「内/ 外」の二項対立には、さらに別の二項対立が重なってくる。「一なるもの/ 多なるもの」の二項対立である。
「私」と「非-私」という二項対立に対して「一」と「多」はパラレルに対応している。西田であれば、これを「全体的一」「個物的多」という。要するに、「全体(多)に対する一」、「個物(一)に対する多」ということであり、事象の相互依存的なあり方を指す。つまり、一つの項Aが成り立つ上ではそこには同時に非Aがどのような形であれ潜在していなければならない。「多」に対してのみ「一」が生じ、「一」に対して「多」が生じるのである。これは、先ほどの「私」と「非-私」の関係をそのまま置き換えることで理解できる。一即多、多即一とはこうした関係性をいうのである。
自同的主体が一方的に他なるものを掌握し、一つの連続性の中に絡め取ってゆく全体性の暴力を打開するということは、さまざまな二項対立の固定性を軟化させ、流動的に循環させてゆくような操作を指すのではないだろうか。例えば「含むもの」と「含まれるもの」、つまり「内」と「外」の二項対立を逆転させて、「内」が「外」に、「外」を「内」へと自在に変化させてしまうというようなことである。清水さんはこうした手続きをして「ツイストする」という表現をされるが、レヴィナスにこうした「野生の思考」的な二項対立のひねりや、それに伴う様相転換を感じてみたり、クラインのつぼ状のトポロジーを描いてみると、それは楽しくなってくる。「身代わり」には、わたしがあなたになり、あなたがわたしになり「一」と「多」、「内」と「外」が粒子の軽さでキラキラふわふわ入れ替わってゆくような、華厳の世界とおなじものが感じられてならない。
第一、第二レンマだけでものを語ろうとする西洋では二項対立の関係性が交換不可能なものとしてあらかじめ定まっているという前提を基点とするが、ここに大きな問題がある。
清水さんいわく、「不可逆の循環や二重性を前提にすることで、複数の二項対立どうしの関係をひっくり返したり、入れ替えたりすることがいよいよできなくなってしまう」( p. 43)だけでなく、さらには「走っている自転車の前輪と後輪を違う向きに回転させることができないように、それで関係が固定したまま「発展」していく」( p. 43)のだという。AならA、非Aなら非Aでその関係が変化せず、不動の視点を基準にして、世界が自動的に分節されてゆく。仏教ではそこに「Aかつ非A」の第三レンマ的な性質を持つ第三項を導入することで、二項対立を固定化させない、一つの項に力が集中しないように、偏りを作らないようにする仕組みがあった。それが「二辺を離れる」ということであり、執着しない、解脱の状態である。二項対立の繋縛を解き放つ鍵は今も昔もこの辺にあるのだ。
「私が私であるとき、私はきみである」というのは禅の公案ではなくて、「存在の彼方へ」第四章のエピグラフである。引用はパウル・ツェランの詩による。
「私が私であるとき、私はきみである」とは「AがAであるとき、AはnotAである」と言い換えることができる。結局禅の公案と同等に扱ってしまうが、これは有名な「山は山であり山でない」、大拙の「即非の論理」と同じことだと思う。試しにこれを
{A=A}={A=notA}
と表記するとする。ここで、「私が私であるとき」にあたる「A=A」に着目すると、初めのAと2番目のAは同じだが別物である。後のAは本来無自性、「身代わりであるところの (置き換え可能なところの)」という注釈がついている。ここで話が大幅に飛躍してしまうことは書いている自分でもわかるのだが、本を読むと大体がそういう筋になっているのでしょうがない。
なんでもよいのだが、これを仮に内容を持たない集合(全体)として身代わり記号「∅」と置いてみる。「(個別的な)私が(身代わりとしての)私であるとき、(身代わりとしての)私は(個別的な)きみである」というわけなので、三つ目のAも「∅」を代入する。
{A=∅}={∅=notA}
そうすると、中間に挟まれた身代わり記号「∅」は消されてA=notA になる。
A=notA
つまり、「私は、私ではない」ということで、「(個別的な)私は(個別的な)きみである」と変換することもできる。なおかつここには、省略されているだけで背後に「A=∅」「notA=∅」という条件が潜んでいるのがおもしろい。「私は身代わりである」「私ではない(きみ)は身代わりである」と「∅」を通じて異質なものが螺旋状に絡みながら浸潤するイメージは美しいけれども、レヴィナスのテキストとは大幅に逸れるし、このあたりは遊びとして流してしまって構わない。
重要なのは、「私はきみである」と「私は私でない」と「私は私である」はすべて同じことを異なる位相で言っているということだ。
「身代わりにおいては、他の私にではなくこの私に属する私の存在が解体される。だから私は、身代わりによって「他の私」と化すのではなく、この私と化すのだ」(「存在の彼方へ」, p.292)
仮に「私は私である」と名乗る場合であっても、そこには選ばれなかった可能性(私が「きみ」であった可能性)がいかに微弱であれ潜在している。見方を変えれば、たまたま今は「私は私である」という現実が全面的に強度であるが、同時に私があらゆる可能な「きみ」である現実の強度が限りなく弱いという側面も有しているという、01の存在論とは別に考えるべき次元の問題ともいえる。それをきちんとわきまえた上で、「さしあたって」私は私であると言ってみる。決して、「私である」出来事に潜在しているが圧縮されて見えなくなっている部分、「この」現実では棄却、さらに強い表現で言えば圧殺(「∅」を潰してしまったように)された私の内部の「私でない」部分を忘れない。数多のなかったことにされたものごと、現前しえなかった可能性、水子の霊、浮きつ沈みつするその影ようなもの。浮かばれなかった彼らには、まったく想像もできないくらいのたくさんの無念があることだろう。その上に、現に私が成り立っているまさにそのことを忘れない。
「そういうのを、応答責任というんじゃないかなあ」という考えがふっと心に浮かぶ。レヴィナスはそんなこと言ってないけど、そういう考えがどこからともなくボヤーと出る。
宮沢賢治が青年期のころにこのような短歌をものしている。
「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」
この詩では、詠み手は「われ」ではなく「われら」として複数形になっている。「われら」とすることで、出来事が賢治の個人的体験に閉じない。詩の中の体験主体になることを、我々の誰もが回避することができないのだ。皆「青きもの」の気配に鈍く見つめられていて、常に「おまえ」と問われ続けている。おおかた、気づかないか、気づかないふりをして振り向かずにいるものだが、それではいけない。応えなければいけないのである。
身代わりであること(「∅」)を挟んで、異なるものが即で結ばれる。このとき「私」や「きみ」の日常レベルの具体的差異は重要ではない。「異なるあらわれ方をした個別的なものが、本来無自性で身代わり的なあり方をしている上で同じものといえる」ということが(ここではレヴィナスではなく、この文章を書いている私が)言いたい。そのため、「私」をあえて特権化する必要は、全く、全然、ないのである。結ぼれであり解けである結節点という身分においては、「私」も「きみ」も同じであって、少しばかり結び目の形が違うだけだ。
それなのに、なぜか「私」であるということ。「私である」という驚異的事態に対する主体の動揺が重要なのである。この辺、応答責任の所在が「選ばれた者」「唯一者」にあるという話題がつながってくるように思う。さらには、その「責任」が負荷のニュアンスを帯びてくると、「実存から実存者へ」もだいぶ共感できるというか。
ところで、両義性の表現については、レヴィナスが頻用する「きらめき」という言葉も良い。
前までこれは、波ひとつない澄んだ水面に魚かあぶくか定かではないが、内側から一瞬光が弾けたように閃く瞬間、「語られたこと」に「語ること」が内部から透けて、「あっ」となること、それを契機に忘れていたものを一瞬にして思い出すような感覚なのだと思っていた。それはそれで美しいのであるが、昨日読み直していたら多分少し違う気がする。
要するにこれは、第三、四レンマの事象、「Aでもあり、Bでもあり、そのどちらでもある(どちらでもない)」というときに、様相Aと様相Bが相互に入れ替わるような様子が文字通り「チラチラ・キラキラする」という情景なのではないだろうか。道端で小さいガラス片を拾ったことをイメージしてほしいが、一つの面だけをじっと見ていても、木漏れ日のように、内側から溢れるキラキラはない。二つ(かそれ以上の)異なる面を素早く切り替えて動かすことで、主語的存在はみずから輝きはじめる。それと同時に、生命が宿る。化石が息を吹き返すのである。
「語ること」は「語られたこと」としてのみ存在を指摘され、現れるものは拒もうにもすでに「語られたこと」に主題化されてしまう。言語化に伴う根深な両義性(と発話者の引き裂かれ)については、神秘主義や禅でもいわれるところである。不立文字というほかない禅の直覚体験などはまさにその葛藤が大問題となる。これについては、ちょうど今読んでいる鎌田茂雄『華厳の思想』の一文がいい。
「言葉で表現しているうちは本物ではないというのは本当だと思う。しかし人間は言葉で言えない世界を言葉で言うわけで、しかも言葉で言い切らなければ思想にならない、言葉で言い切らなければ、わかっていない、そういう矛盾をもっている」(p. 164)
レヴィナスは、第一レンマ(Aである)、第二レンマ(非Aである)に基礎付けられ、還元論という名の暴力になってしまう思考の枠組みを突破すべくあがいている。それこそ、身を切り裂き、引き剥がし、ズタズタになるほどに。ところが第3レンマ以降の語彙を持たないから、なんとかそれを旧来式の論法で語るしかない。
どうするかというと、苦肉の策で二項対立の両方の性質を合わせ持つ第三項的な概念を出現させるのである。例えば、「同の中の他」(一面では自であり一面では他でもあるが一般的意味ではそのどちらともいえない)とか「隔時性」(過去でもあり未来でもあるがそのどちらにも属さない(そもそもそうした線形時間で捉えられない))とか。「〇〇の手前」という表現は、第二レンマまでで収束する論理次元の問題ではないということを訴えるものと取れる(だからこそ同時に「彼方」でもある)。
また、心理学者のユングも東洋に相当接近した思考をしているが、語り方はやはり硬い。男と女の二項対立に対して、両方の性質を持つ「両性具有」の象徴を立てたりして、それのみで具体的内容に満ちた象徴形態をとりがちである。主語的に語るとどうしても別の二項対立を生む「項」としての存在感が際立ち、サンサーラを増長させる感じに機能してしまうため、できれば項は増やさないほうがいい。
だからこそやはり述語、「語られたこと」に対して「語ること」が重要なのである。レヴィナスは、現象学と言いながらも仏教をやっているような気がしてくる。
また西田幾多郎も「述語論理」を強調していた。先ほど引用した『華厳の思想』によれば、述語論理とは「場」の論理であり、「具体的現実そのものを直感する知性」(p.33)であるという。「具体的現実は述語面にあるわけで、主語面にはない。その述語面にある具体的現実ということが、すなわち宗教的生命にほかならない」(鎌田茂雄『華厳の思想』, p.34) 。西田は論理では捉えられない直感の世界をなんとかして論理で説明しようとしたのだった。この説明は、そのまま「語ること」と「語られたこと」の関係と見ることができるだろう。
個人的には「存在するとは別の仕方」は、ギリギリのところを示そうとした表現としては、主語につんのめりながらも動詞に踏みとどまっている感があってよくぞ、という印象である。「手前ないし彼方」も、振り子がずっと中間で揺れ続けているむず痒い動きに耐え抜いている感じがあって好きだ。
その一方、東洋人は第三、四レンマ的なことを自然と受け入れている感性がある。私は人類学者の岩田慶治さんが好きとか容易に言い表せないくらい好きなのだけれども、彼などは散々エッセイふうに思索を広げたあとで「そうかもしれないが、そうでもないかもしれない」と言い残して煙のように消えてしまう。ここまでに敷いてきた主語的な言葉の布置を風呂敷に包み、大海の波間にうやむやにしてしまう。後には打ち寄せる波の動きしか残らない。私など「そうかもしれないが、そうでもないかもしれない」と言うだけで二項対立はご破産になると思えてしまうのだが、そうしたあいまいさは西洋の伝統とは相反するところだろうか。
述語のみ、「語ること」に席巻された世界。それは純粋シニフィアンの流動するような景色だろうか。
水木しげるは、妖怪のことを「存在したくてしたくてたまらないのだけれども、存在していない何か」なのだと言っていた。「語ること」そのものが姿を持つのだとしたら、「妖怪」みたいになるのではないかと思う。または「存在するとは別の仕方」を具現したのが妖怪なのかもしれない。
「語られたこと」としての概念形態をどこまでもはみ出し、超え出ていく豊かで過剰なシニフィアン。それが人馴れした家猫を「ふったち」に変えたり、きつねの尾が九又に分かれたりする。当然、我々が把握しているものなどほんの僅かで、「存在しているもの」よりも「存在していないもの」の方が比較不能なほどに多いのである。「語られたこと」に甘んじていると、語られなかった何かが化けて出る。
レヴィナスにもおそらくあるであろう「主体って、そんなにしっかりしたものじゃないんじゃないか」みたいな違和感の出どころってなんなんだと考えると、やっぱり理屈ではない感覚とか感性面にあるように思う。レヴィナスのいう「感受性」というのは、何かヌミノース的なものに開かれた高尚な精神というよりかは、「化繊の服がちくちくしてしょうがない」みたいなナイーヴな敏感さや、地味だが深刻な日々の不都合に近い気がする。見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、要は「存在したくてしたくてたまらないのだけれども、存在していない何か」をスルーできない感性がそれと地続きになっている感じもある。
Aでも非Aでもあり、なおかつAでもなく非Aでもないような、第三、四レンマ的なことがらが二項対立のあわいできらめく。
するととかく「A」か「B」かどちらか、という実現形の違いは正直どちらでもよいのではないか。重要なのは「キラキラしているかどうか」であって、だからこそ「語られたこと」は不断に「語り直す」必要がある。
「A」か「B」というのは静的で構造的に安定はしているが、なんだかすごく薄っぺらくてつまらない。「どちらでもあって、どちらでもない」は自分の身を危険に晒すことにはなるが、だからこそやはり嗜癖的に美しくておもしろくてしょうがないわけである。レヴィナスにとっては、両義的にものを考えることで西洋哲学の暴力性を乗り越えようとした側面があるのだと思うが、果たしてそういう使命感に由来する動機だけなのだろうか。彼にも「美しくておもしろくてしょうがない」の駆り立てがなかったものかと、読み取りたくなる。人のためにとか、哲学史上の問題点がとかではなくて、端的に「キラキラをずっとみていたい」というそれだけの動機である。
「『正法眼蔵』というのは、道元があれだけ書いたというのは、言い切ることによってはっきりしてきたわけで、言葉を超えていかなければいけないのだが、言葉で言い切れなければいけない。たんに言葉を否定するのではなくて、矛盾を言葉自体がもっているわけである。
そうなると、仏になろうとか仏になるまいとか、そういうことは関係なくなる。・・・死んで極楽へ行けるか地獄に行くかは関係ない。悟る、悟らないということも関係がない。そういう境涯になっていくわけである。
そうなると最後には死んでもいい、生きているなら生きていてもいいということにもなっていくわけだが、そこまでなるには、たいへんな修行を積まなければならない」(鎌田茂雄『華厳の思想』, p. 164)
そうかもしれないが、そうでもないかもしれない。