すべつな~スギナの能力とワタシの農力
スギナ風呂がとても気に入った私は、その後も毎回とは言わないまでも出来る範囲で入浴を楽しんでいた。
前回書いたものを改めて読んでみると、良い事ばかりのようでもあり、その一つ一つはそれ程大きな事でもないようでもあり。またそれらはスギナの力によるものなのか、はたまたその他の作用なのか、結局判然とはしない。
しかし、かつて作ったスギナエキスの残りもあとわずかとなり、季節は移りかわり気温の上昇も重なってスギナ風呂を楽しむ頻度が急激に減ってくると、そのせいなのだろうか。空気はあたたかく湿った季節だというのに、ここへ来て最近また爪が激しく割れ始めた、という現実がある。
自然界に備わっている仕組みには、実のところ元々ある状態で既に完結している、という考え方がある。
仕組みがうまく働いていないと感じるような時には、どこかで機能不全が起きたりバランスが崩れていたり。そしてその原因はオーバーワーク(偏った高負荷)であったりする。ということは、足し算よりもまず引き算。つまり、足りないものをさがして足すことを考えるよりも、休ませたり不要なものをなくすことを工夫するのが先決、ということだろう。
だがそれでも私には、スギナに含まれている何かが足りていないのではないだろうかという気がしている。だからこそ今はスギナに効果があると感じるのだろうし、それが充足した暁には良いも悪いもひっくるめて特別な感覚は、もしかすると、次第に薄れていくのかもしれないとも想像してはいる。
10年程前、ナンダカンダあった私は、とある農村へ引越した。
その後さらにナンダカンダあり、とある農家で色々教わりながらしばらく手伝うことになる。
そこで私は、それまで考えてこなかったアレコレについて考え始めることになった。
水
土
空気
微生物
循環
人間のこと
自分のこと
自然の仕組みとは
農業の問題とは
環境について
できること
やりたいこと
昨冬久しぶりにスギナの瓶を見つけた私は、10年前の自分が考えていたことや当時の記憶を久しぶりに思い出した。
本来「雑草」という草はない。
人の都合により、望まない場所に根付いた草は、大抵そのように呼ばれる。
しかし生き物は、それぞれ必要な役割があって、そこに存在している。
そこにあるということは、その環境にとって必要だということ。
そこに生えてくる草は、その地に必要だから生えてくるのであって、その必要がなくなれば自然といなくなっていく。
植物はそこに足りないものを供給するために、敢えてそこにあらわれるのだ。
土や植物や微生物たちは、つながりあってこの星の上で共に生きている。
そのつながりの中には、我々「人間」も入っているだろうか・・
放置された荒地や痩せた土地にも平気で生えてくる生命力と繁殖力により「地獄草」とも呼ばれているスギナ。
人によっては根絶させようと躍起になり、知ってか知らずか海の向こうでは使用に規制がかかるような強力な農薬で駆除を目指す人もある。
だがその実、多くの生物が生きていく上で過酷な環境となる「酸性土壌」に好んで根付き、その土をアルカリ性に変えてくれるという、そんな献身的な一面もある。
過去の私がいつか必要となる日のために、未来の自分へスギナエキスを用意し残していたのと同様に、この植物とそれを育てる微生物は、この地に住まう自分や仲間のため、地球をより生きやすい環境になるように、誤解され嫌われたとしても尚、今もせっせと準備をし整備し続けてくれている健気なものたち・・というのはさすがに私の脳力による妄想のタマモノではあるが、それにしても、何となく愛着が湧いてしまう草だということに間違いはないのだ。<つづく>