わたしだけが存在する
ツイッターをやっていると、まぁいろんな人がいるんだけど、結局みんな同じような状況だなとも思う。
つまり、いろんな人がいるというようでいて、同じような人しかいないと思える。
そして、自分もまた同類であるということにも気づかされる。
ところで、そのことに気づいている自分、これは一体何者なのだろうか。
そいつがいるといないのとでは大違い、という気がするのだが、それがいないように見える人たちの中には、本当にそいつが存在していないのだろうか。
というか、「彼ら」の中にはそれがいないのだ、としてしまった場合、自分もまた「彼ら」の同類であるということになってしまうような気がする。
つまり、こういうことだ。
我々の目にはフィルターがかかっている。
ここではあえて「言葉の」とはつけないが、とにかくフィルターだ。
フィルターがある、つまり、世界の真実は誰にも見えていない。
これはどうしようもないことだろう。
人間の認識には限界があるというただそれだけのことなのだから。
だが、その限界の存在を認識していることが大事だ。
なぜなら、限界を意識することは、その先を想像することになるから。(この世界が4畳半の小部屋だと想像すると、嫌でも出口を探したくなる。)
ところで、限界の先に誰がいるのかといえば、もちろんそこには他者がいる。
これは他者の意味からして自明のこと。
その他者の代表格である他人が、もし存在するならば、つまり、限界の先があると想像するならば、その彼にこの限界の認識がないとしてしまうことには問題がある。
扉を叩くのは向こうに人がいると想像するからであって、誰もいない部屋に向かって叫んだところでただの遠吠えだろう。
つまり、限界を超えたところにいるのは自分と同じ限界状況にある人間であって、その相手が扉を認識しないのだと決めてかかってなお扉を叩こうとすることには矛盾がある。
実存の交わりを求めるなら、相手の実存を認めなければならない。
「言葉の」フィルターと言わなかった理由を話す。
思うに、言葉はフィルターのようでいて、むしろ、鍵だ。
言葉がなければおそらくは独我論が正しくなってしまう。
それがすなわち、独我論は語り得ないということの内実だろう。
だから、本当の独我論は語り得ないのだが、むしろ独我論的に語ることによって、互いの限界状況に気づかせることはできる。
あなたも私も孤独なのだ、という「語り合い」が、かえって心の扉を開かせることになる。
ふだん言葉がフィルターのように思えるのは、言葉が通信機の役割を担っているからだ。
電話で繋がっていると、会えなくても寂しさを紛らわせる一方で、本当に出会うということの重みが薄れる。
この構造が、面と向かって会っているときにも(それでもまだ<本当は>出会えていないという形で)存在している。
この壁を打ち砕くには、隠された言葉の鍵を見つけなければいけない。
そのヒントが独我論で、独我論的に語り合うことによって、互いの独我論を認め合うこと。
つまり、「私しかいない」を双方の主張とすること。
そうすれば、当然、私_1 = 私_2 ということになって、私たちが一なる神の分肢であるということが自覚される。
「私」という言葉の意味も理解される。
やはり、わたししかいなかったのだ。
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以上は、先ほどアメブロに載せた文章で、noteに載せるならきれいに書き直してから、と思っていたが、このままの形で絶賛されたので、原文のままでnoteにも掲載しておくことにする。