鬱抜け初めの一歩 〜あの無限に続く「負の思考スパイラル」から一時退避するコツ〜 そして、完全なる鬱抜けへの完全マニュアル

私は、病名不明の精神疾患(症状の種類が多様すぎて診断名がつかない)なのですが、今年は「鬱」との戦いでした。タイトルにもあるように、その過程で得られた、「負の思考スパイラル」から(一時的にでも)脱出する方法を、今回は紹介したいと思います。まず、負の思考スパイラルとはどのようなものか、そしてその悪循環がいかに恐ろしいものであるかについて、Twitterから、みなさんの的を得たツイートを引用したいと思います。

どうでしょうか? 経験のある人はもちろん、これらのツイートを読めば、毎日元気でやっている皆さんでも、「負の思考スパイラル」というものがどういうものか、そして、どれだけ恐ろしいものであるかが、ご想像いただけると思います。

次に、その解決策らしきことをツイートしているものをピックアップします。

みなさん、なかなかオリジナリティがありますね。仏陀曰く、「人生は苦である」なので、これを読んでいるあなたも、きっと自分なりの工夫をしていることでしょう。結局、本質は、「気分を変える」ことにありそうです。

以上は、ただツイートをまとめただけですが、これから、私自身の発見した「コツ」について、できるだけ詳しく述べてみたいと思います。

ただ、その前に、「気分転換」について。思うところを述べたいと思います。

余った時間で趣味に打ち込んでみたり、気兼ねなく話せる友人と飲み屋に行ったりするなど、気分転換の方法は、意外とたくさんあります。負の思考スパイラルにハマりそうになったとき、これらの方法は惜しみなく使うべきだと思います。特に、一人でできる趣味があると、強いですね。

ただし、本当にどうしようもないこともあります。これを以下、「大鬱」と呼びますが、大鬱のときは、「好きなはずのことが(時間はあっても)やれない」「仲の良い友人とも会いたくない(でも、孤独はつらい)」というような状態になります。上記に載せたツイートの内容だけでは、大鬱の人の助けにはなりません。

そこで、以下は「大鬱」の人向けの助言になります。助言というと痴がましいですが、単なる個人的経験則です。現在私は鬱抜けを果たしてしまったので、思い出しながら考え、意見を述べたいと思います。大鬱の人は「文字を追うことさえできない」こともあるので、これを読んだ人は、周りに大鬱らしき人がいたら(大鬱であるかどうかの見分け方は後に説明します)、それとなく、あるいは、親しければ直接、伝えてあげてください。

まず、もう一度、「大鬱」とはどのようなものか、確認しておきたいと思います。大鬱の人は、そもそも、ベッドから起き上がることさえできません。もちろん、トイレにも行けない。歯磨きなんて到底無理。すると、どうなりますか? 人とは会えない。付き合いが悪くなる。ドタキャンが多くなる。不潔になる。つまり、人に嫌われることになる。これは、何を意味しますか? つまり、「もう終わり」ということです。なぜなら、人に嫌われるようになったら、鬱がさらに悪化するからです。

大鬱は、当然、希死念慮(自殺願望のようなもの)を呼び起こします。人は、社会的動物です。人とのつながり、つまり、愛がないと、生きていけない生き物なのです。そして、「死にたい」という気持ちは、完全に主観的なものです。つまり、周りがいくらその人を愛していたとしても、本人が「愛されていない(=無価値だ)」と思えば、それは「誰からも愛されていない(=私は無価値で、生きている意味がない)」ということになってしまうんです。

2019年の冬から春にかけての私もそうでした。「私のような人間は生きている価値がない」「生まれてこなければよかった」という自責と、「こんな腐った世の中を生きる価値はない」というような、軽蔑の念(=他責)の両方が相まって、とにかく死にたかった。そのまま自殺してしまう人もいると思いますが、実を言うと、私はもっと以前に自殺寸前まで自分を追い込んだことがあり、詳細は省きますが、「死んでも死んでやるもんか」というマインドでいたので、死にはしませんでしたが、ひとりぼっちで、とにかく苦しかった。つらかった。どうせ誰も私のことを愛してなどくれない。そう思っていました。

さて、それでは、いかにして私が大鬱を克服したのか。本題に移りたいと思います。(前置きが長くなって申し訳ないです。)

実をいうと、私の状態が最もひどかったときは、もういつのことだったか覚えていないけれど、2回あります。そのうちの1回が鬱と関係しているので、そのことについて話します。それは、さきほど定義した大鬱よりもひどい状況です。つまり、「何もできないから眠るしかない」のが大鬱だとすれば、そのときの私は、「何もできないから眠るが、すぐに起きてしまい、そのことに絶望する」「何もできないのに眠れない」そういうことです。これを、「絶望」と呼ぶことにします。

「絶望とは死に至る病である」というキルケゴールの有名な言葉がありますが、まさにそういうこと。死に至るというのは、もちろん、精神のことです。この状態では、いわば、時間が止まってしまう。何もできず、眠ることに逃げることさえできず、止まった時間の牢獄の中に閉じ込められる。これほどのことが、苦悩溢れる世の中に、果たして他に存在しうるでしょうか?

 さて、いよいよ、本当に、本題です。大鬱、あるいは絶望から、いかにして私が立ち直ったか。そして、一般に、いかにして立ち直りうるのか。奇跡としか言いようのない出来事が重なったという節もあるので、法則を普遍化することは難しいのですが、あえて、チャレンジしてみます。

 おそらく、というか、確実に、人が病んでしまうのは、「愛」ゆえにです。愛があるから病み、愛があるから幸せなんです。だから、ここでは、愛について語る必要がある。

 愛は、人間で有る限り、誰でも持っています。私はそう信じています。サイコパスであろうと、いや、むしろ、サイコパスこそ、本当は愛を最も渇望している存在だと思います。なぜなら、サイコパスの特徴とされる「残虐性」これは、愛の証拠です。というのも、愛がなければ、「残虐である必要がない」からです。

 愛は、心のすべてです。およそ心的なものは、愛で出来ています。これは、Rudolf Steinerの言っていたことです。つまり、あなたの心、それがすべて愛なのです。

 では、それなのになぜ、私たちは病んだりするのか。まさに、そこが問題の核心です。どうして、愛が幸福であり、そして人間でさえあれば、心さえあれば、愛があるはずなのに、どうして私たちは病むのか。それとも、病むということは、それがたとえ絶望だったとしても、肯定されるべきことなのか?

 いや、そんなことはありません。絶望は、ひどいものです。肯定など、できるはずがありません。では、どうして絶望しなければならないのか。なぜ、私たちは常に愛に満たされているはずなのに、絶望があるのか。

 それは、葛藤です。自己矛盾です。自分自身に従わないこと。その矛盾が、およそすべての病的な思考の原因です。

(続く) 


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