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知恵の限界

日常生活の自分を取り巻く環境の中で、常に不思議なことが毎日のように起きているのですが、大人になるにつれ不思議なものを観察する目の輝きというものがだんだんとなくなってしまう人が多いように感じています。
花が咲く奇跡は当たり前、花から実をつくることも常識となり、どうも知恵がつくほど不思議だなと思う心が無くなっていくようです。
人の目の輝きや一瞬の光を見れば、その人の状態、考えていることなどを含め、多くのことがわかるものであります。

江戸時代の国学者で医者でもあった本居宣長著の『葛花』の中で、宣長翁は人間の知恵の限界について書いてる箇所があります。

天地万物すべてにおいて、結局のところ、世の中には説明のつかないことが多く、たとえ聖人といえども、その理の全てを理解し尽くすことなど出来はしない。
だから、
人の知恵には限界があり、小さい者であることを自覚し、神の御しわざがこの上なく
不思議なものであることも‥‥

『葛花』本居宣長 著

51歳の宣長翁が書いたとされるこの文章を読めば、彼がどんな人生を送って何を感じ、大人になったかがわかる箇所であり、そこから魅力的な人物像の中年期が観えてくるところです。
世の中に流れる情報や学問に対しても、流されることなく鵜呑みにすることもしないで、常に冷静な観方をしていたことがわかります。


「神のおさめし技」は人間の考える論理を超え、全くもって不思議なことだということを単に受け入れるからこそ、人間にできる技ではないことを敏感に感じれば、自然に頭が下がる思いで「惟神」ということになるものです。

また、古事記伝巻七の割注の箇所に喪強烈な”喝”が入っているところがあり、学歴社会になっている現代人にパンチを入れているようで面白いのです(笑)

(現代語訳)世の学者は神代を議論し究めようとするが、神代には不思議な道理があり、それを知ることは出来ず、私たちの現実世界を根拠に押し測るのは、漢心に溺れているからだ。
(※漢心…漢籍を学んで中国の国風に心酔、感化された心のこと)

『古事記伝 巻七』本居宣長 著

人というのは自由なようで実は自由ではありません。
自分の思考に捉われながら生きているようです。
何かを知り、学べばそれが正しいと思うもので無闇にそれを信じてしまうところがあり、
そして自分が知ったことにかなり捉われています。
そうなれば自分と違った考え方をする人を責め、正そうと争うこともあり、
一切のものに捉われない心というのは、大人になるととても難しいことだと感じます。

合気道の稽古をしていてもそうです。
相手に強く手首を握られた瞬間、人間は無意識レベルで倒されまいと力が入ります。
そうなると結果は力比べで、強いものが勝ってしまうことになるのも当然です。女性は特に男性と組んで稽古をする際はその点は不利になります。
そんな時どうすれば奇跡的な展開となるものかといえば、力をかけられ強く手首を握られた場合、力では勝てるはずはないし、まるで動けないので動けなくなった所の力を一気にパッと抜きます。
相手に捕まれた箇所に捉われず、ニュートラルな心を一瞬で作るのです。
自分の力を捨てた瞬間に、相手の力の方向を感じ、行きたい方向へと導くと、不思議なことに相手は自分のかけた力で、あら不思議、勝手に倒れてしまうのであ~る。

合気道の技には理解できないうちに倒され倒すことができるもので、神が存在していると私は思います。
神的領域を感じられる技がたくさんつまっていて、躰をもってそれを体感することができるところが面白いところなのです。
しかし難しいところは、力を抜くだけでもダメ、力は入れず気を出しつつ、相手を導くというそのバランス能力が鍛えられていくのでありますから、神技となるのですね。

あぁ…脳も心もニュートラルな状態にすることはなかなか難しいものです

結局なところ素直が一番で
わたしたち人間では測り知れない神の領域があることを知り
それに任せ
神とともに生きることを楽しむことが
何よりも楽しいと感じるところでございます。

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