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7日後に死ぬと決めていきてみた3日目

一足先に感じる死は、浮遊感だった。自分がここにいるのかいないのか、自分が全身なのか半身なのか、地面なのか星なのか、そんなことはもうあまり関係なかった。「どうせ水曜日には死ぬんだから」って最強の呪文を唱えれば、僕のでこぼこやトゲトゲは、しおしおと地面に向かってこうべを垂れた。削ぎ落とすってこういう感覚なのかなぁ。なんだかあっけなくて、世界の彩度が少し薄くなっただけだ。2月末の山は灰色で、でもいつもより楽しいそうに、僕には見えた。山にエネルギーが吸い取られちゃったみたいだ。

彩度が薄くなって情報が減ったからか、見る光景がフィルムのように頭に残る。人の笑った顔は特にそうかな。やっぱり意識がなくなる瞬間に思い出すのは人のことなのかなぁ。別に「彼らのために自分ができることを残そう」とか「彼らとの思い出として楽しもう」っていう意気込みは全くない。普段の何気ない出来事として消化されていくのが楽しかった。かっこよくいうと、当たり前の時間に死というものが溶け込んでいく自分を、へへんって誇りたかったのかもしれない。かっこわるくいうと、楽しい時間が感情の水面を波立たせることなく、艶やかに流れるようにすぎることが、生を楽しむことだと知ってしまったのかもしれない。

削ぎ落とされていくあっけなさの裏側に隠れてた反比例を見つけた。嬉しいほど悲しくて、楽しいほど腹立たしくて。ちゃんと目に焼き付けたいほど、背中を向けたくて。色々な顔をする感情が自分のものではなくなって、一緒くたに動揺として感じてるのかな。反比例って言ったけど、端っこにある感情同士がだんだん近づいて、やがてひとつになりたがってるのかなって、思った。お祈りみたいに。エモくいうと、僕の生きた証になるのかな。どうせ水曜日には死ぬんだからどうでもよかった。

僕の目前で眠っている二人は、僕が水曜日にアディオスアミーゴするなんて思ってもいないだろう。あんまり具体的に悲しんでる姿が思い浮かばないのは、どうでもいいからなのか、それとも想像がつかないのか。

生きてて感じてた、優しいぼくと優しくないぼくが、それぞれ極端に個性を見せ始めてるのかな。他人への興味や好奇心が無条件に湧いてくる僕がありたい僕は、ふと、他人を全く配慮しない僕がありたくない僕の顔を見せる。その時の水面は、彩度が低くてよく見えない。少しだけ、もう一人の僕の懐かしい囁きが聞こえる。ダークヒーローの復活は、そう遠くはない。

熱い僕はどこに行っただろう。他者のために頑張りたい僕はどこに行っただろう。人の心の機微に自分の表情を重ねる僕はどこにいっただろう。決して必死なわけじゃない。昔よく遊んだゲーム機の充電器を探す感じ。彼にあったら、何か変わるのだろうか。

彼はフィナーレで手を差し伸べるだろうか。それともいばらのみちの先でいつまでも待ち続けるだろうか。

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