アパッチ砦の暑い夏
「千の点描」 <第一三話>
私の通っていた高校はスラム地域の中にあった。スラム地域の真ん中に高校を創設したのではなく、長い歴史のある高校の周りにスラム地域が形成されていったのだ。誰もが真っ先に思い付くような一流校とは言えないが、まずまずの公立の受験校で、世間的には水準並みのナンバー・スクールだと思われていた。しかし、どう考えても普通の学校だとは言い難い一面を抱えていた。先生も学生も自分たちの学校のことを、「アパッチ砦」と、いつも自嘲気味に呼んでいた。学校を取り囲む四方の塀は、普通の学校の塀より遥かに高い。具体的に調べたことはないが、見た目に四、五メートルの高さはあったと思う。。親しくしていた友人の父が刑務所の医務官を務めていて、その刑務官の公舎が刑務所の敷地内にあった。友人の招きで私も何度か公舎を訪問したが、学校の塀は刑務所の塀を連想させるに十分な高さだった。
スラム地域の真ん中とはいえ、学校が四方八方をガッチリとスラム地域に囲われていたわけではなかった。学校の正門は商店街の通りに面していて、スラム地域は商店街の側を除く三方からU字型に学校を取り囲んでいたのだ。国鉄の駅前を起点とするこの長い商店街は戦前から存在していて、商業、住宅、軽工業地域といくつかの地域を縫うように延々と続いていた。戦後の混乱期、空襲で焼け跡になったこの地域に、元の居住者の地権を無視して住むところのない人たちが、大挙して住み着いたのがスラム地域の始まりだった。厳冬の中で雪の結晶がどんどん成長するというような美しいものではないが、ともかくその混沌とした状況がさらにスラム化を再生産して、いつの間にか無秩序にスラム地域が拡大していったのだろう。
商店街自体は、商店街沿いの他の地域の人々が日常的に利用していて、スラム地域との関連はあまりないが、当然無関係でもない。その微妙な関係を、商店街を擬人化することで表現すれば、「私たちは昔からずっとそのままだったが、どんどんスラム地域が押し寄せてきて、学校辺りでとうとう一方の側の店の背中合わせのところまで迫ってこられた!」と、いった感じになる。こうした地政学的な位置づけから、商店街はスラム地域と学校の緩衝地帯としても機能していて、私たち学生や先生も、この商店街を唯一の通学路、通勤路として利用していた。
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