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バスの中の独演会

「千の点描」 <第五〇話>

京都の南区、東寺の近くに住んでいた頃のことだ。いつも、「羅城門」のバス停からバスに乗って,「河原町四条」の仕事場まで通勤していた。行きも帰りも、バスに乗る時間が決まっている訳ではないが、それでもよくバスで一緒になる初老の女の人がいた。彼女は、往路の場合は私より先にバスに乗っていて、復路は私が「羅城門」でバス停を降りても車内に残っていた。通勤用の手提げ袋を持っていたので、私と同じ様に「河原町四条」界隈に仕事の場があるようだった。おそらく、よくバスで一緒になると感じていたのは、私がこの人を特別に意識していたからかも知れない。見た目には何の変哲もないごく普通の初老の女の人だったが、実はかなり普通の人とは違っていた。彼女は帰りのバスの中で、風変わりな独り言に耽(ふけ)る癖があったのだ。
独り言といっても、人には潜在的に独り言を話す要素があるのか、ぶつぶつ何事かを呟いている人は少なくないが、彼女ほどはっきりとした言葉で話す人は珍しい。彼女の存在を今のように意識する前のことだが、ある時私はバスでこの女性の隣の席に座ったことがあった。帰宅途中のバスの中で、すでに窓の外は夕闇が迫っていて薄暗く、ふとバスの窓から外を見ると、そこにはバスの中の様子が鏡のように写っていた。その時に初めて気づいたのだが、隣に座っているこの女の人は、窓ガラスに写る自分自身と無心に話し込んでいるようだった。
 
それとなく耳をそばだてていると、「…やっとセツコが結婚する言うて、親との顔合わせで、ツネオ君を家に連れて来たんやけど、お母さんに…」と、独り言を途中で切って、クッと含み笑いするように口を手で覆った。「気い使わんでええのに、何や私にお土産を持って来てくれはって…」と、続けてまた手を口の辺りにやる。「それがまたえらい派手な洋服で…」と、今度は頬を赤くして照れたように、手でクルリと空を煽(あお)いだ。落語のように対話する二者、三者を演じながら、苦笑したり、照れ笑いをしたり、時には怒って涙ぐんだりもする。おそらく初老の女の人が演じている状況とは、娘が婚約者を家に招いた折に、その婚約者が娘の親である初老の女の人に、土産として彼女には少し派手過ぎる洋服を贈ったということ事なのだろう。
私はその後も何度か隣に座って彼女の独り言の芝居を見聞きしたが、登場人物は必ずしもいつも同じとは限らなくて、会話の背景となる状況も一貫していなかった。私は当初、孤独な老女が失われた幸せな家庭の一場面を心の中で回想しているだと思っていたが、毎回登場人物も、それぞれの人間関係も、話している場面設定も変化していた。例えば、娘と婿、それに孫までもが登場して、初孫の七五三の準備をしている話もあれば、夫の晩酌の相手をしながら、従妹が病気で入院しているので、見舞いに行くべきかどうかを相談している話もある。あるいは、仕事場の上司が、自分に好意を持っているようで、何かと構ってくるので避けるのに困っているといった、何とも理解しがたいシーンのもある。
 
ちょっと風変りなモノでは、大阪梅田で「吉本新喜劇」を観に行って、その帰りの電車の中で中学校時代の初恋の人に会って、不倫に陥りそうになるロマンチックなパターンもあった。その後、不倫に至ったかどうかの微妙なところは表現を曖昧にぼかす。自己陶酔に陥っていて、周囲の耳目を気にしているとも思えなかったが、それなりに外聞に配慮する自己検閲の力が働いているような気もする。多様な一人語りの中でも、設定の意外性と、その手振りの活発さで、今も鮮明に覚えているのは家に強盗に入られたという珍しい場面だった。話は単純で、家に強盗が入ってきた時、この女性が圧倒的な腕力で撃退したというありえない筋書だった。セリフは少なく、独り言では、「こら、出ていけ!」、「女や思うて馬鹿にするんやないで!」、「エノキヨウコを舐めるなよ!」、「どうや、参ったか!」と、言ったところだが、その活劇を上半身だけのジェスチャーで激しく演じていた。相手の腕を捩じ上げる仕草も、奇妙に臨場感があり、元婦人警官だったのかと思ってしまうほど真に迫っていた。ということで、この初老の女性のゼスチャー付きの独り言は、創造的な対話型独り言とでもいうべきもので、手振り身振り、表情のリアルさは見事なモノで、私はこの話芸に相当に執着した時期もあった。しかし、独り言の設定が凡庸な上、バリエーションも限られていたので、メニューが一巡すると、強いてその初老の女の隣に座る努力もしなくなった。
 
ある夏の日、帰宅途上の同じ路線バスの中に、またあの初老の女の人が座っていた。私は最後尾の横一列の座席に座っていて、女の人は私から二列ほど前の二人用座席の右の窓側にいた。まだ帰宅のラッシュ時ではなかったので満員というほどではなかったが、それでもほどほど混んでいた。いくつかのバス停を進んで「四条堀川」に停車し、そこで数人の乗客が乗り込んできたが、ひときわ周囲の目を引く男が入ってきた。なぜ人目を引くかといえば、その男はあたかもテレビの刑事ドラマに登場する悪役のようないでたちだったのだ。そこそこ人生を生きていると、少しくらい柄の悪そうな人がいても、特別に注意を向けることもないのだが、その男は、どこに行けば売っているのかと思えるほど趣味の悪いアロハシャツを着ていた。ハイビスカスの花柄を背に、ピットブルのような犬が擬人化されていて、サングラスをかけている。そしてにやっと笑いながら人差し指で、頭に被ったパナマ帽のひさしをグイと押し上げている図柄だった。
この男が、空いていた件(くだん)の初老の女の人の隣りにどかっと座ったのだ。かなり乱雑な座り方だったので、彼女が男の方を振り向くかと思ったが、男の方には一切目もくれず、一人でいつもの世界に浸っていた。後部の座席から見ていると、彼女は右側の窓を見ながら微妙に頭を動かし、独り言の佳境に入っていることが確認できた。

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