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繕いの美学

「千の点描」 <第三五話>

今では、シルク製のような余程高級なものでないと、下着の綻びや破れを繕(つくろ)ったりすることはないと思うが、戦後しばらくの頃はそれがごく日常的な主婦の仕事だった。私の母は、食事の準備や、掃除、洗濯といった家事の類があまり好きではなかった。もちろん家庭においては主婦という立場なので、嫌だからといって何もしないわけにもいかず一応のことは無難にこなしていた。しかし食事の準備を例にとれば、自ら料理の本を買ってきて目新しいメニューを家族の食卓に提供しようなどという面倒なことは一切しなかった。とはいえ、裁縫だけは特別のようだった。
母の母、つまり私たちの母方の祖母は伝説的な裁縫の名人で、祖父は岡山で大きな呉服屋を経営していた。裁縫が得意だったので呉服屋の妻に請われたのか、あるいは呉服屋の妻だったので裁縫が得意になったのか、そこのところはよく知らない。祖父の店も大阪で開業したのだが、支店であった岡山の店が本店の大阪より大繁盛するようになり、やがて大阪の店は店仕舞いするようなことだったと聞いている。ところで五年ほど前に祖父が亡くなってから、祖母は娘がいるわが家に隠居として来ることになったのだ。
 祖母は大阪に来てしばらくすると、昔から付き合いのあった大きな呉服屋を通して、資産家や古典芸能の演者、新地の綺麗どころから名指しで祖母に着物の仕立ての注文がくるようになった。祖母は祖父が亡くなったときにかなりの遺産をもらっているはずなので、生活費を稼ぐために内職をする必要はなかったと思う。

ただ、裁縫の達人だったので仕立て代も安くはなくて、子供の目から見ても祖母は懐具合がよさそうだった。子供が大人の懐具合を判断するにはお年玉の額が一番正直で、祖母のお年玉はいつも両親からもらう額より遥かに多かった。祖母がわが家に来た時には、すでに七〇歳を超えていたと思うが、それでもたまに夜遅くまで裁縫の仕事をしていることがあった。夜なべ仕事というと、貧しい家庭の内職というイメージがあるが、母にそのことを尋ねると、祖母が遅くまで仕事をするのはプライドの問題だそうだ。
祖母は昔から裁縫の師範として大勢の弟子を抱えていて、注文の納入日を守ることを一番の義務だと弟子たちに教えていた。だから無理な注文でも受けた以上は、必ず約束の日の仕上げるのが祖母のプライドで、そのために夜遅くまで仕事をすることがあるのだという。母もまた、心ならずも祖母の弟子の末席に並ばされて徹底的に裁縫を仕込まれ、結果的には針仕事だけは苦にならないようになったのだという。しかし、そのことが私たち兄弟には、災いした。
 
昔は兄弟姉妹がいると、兄の衣服を弟に、姉の衣服を妹にといったように、洋服のお下がりは家庭での一般的な習慣だった。特に終戦直後の物のない時代には、衣服は配給制で、衣料切符がなければタオル一つ手に入れることができなかった。そういった社会状況だったのでお下がりは一般的で、長男から次男へ、次男から三男へと三代にわたってお下がりがあることも珍しくなかった。わが家のように、男子が四人続くと、お下がりが二回、三回と繰り返され、場合によっては末の弟までお下がりが継続し、末の弟は相当にくたびれた服を着なければならなくなる。もっとも私が育った時代は、もう少し後のことなので、衣服は自由に買える時代だったが、わが家は兄弟も多かったのでお下がりという習慣が残っていた。お下がりが何度も続くケースもあるが、それは比較的上等の衣服の場合に限っていた。父のドスキンのタキシードが長男の大学生の制服になり、それが三男の中学生の制服になるといった具合だ。
お下がりにも当然寿命というものがあって、兄弟全部に引き継がれることはまずない。長く引き継がれる場合でも大抵は下から二番目の私の段階で衣服は廃棄処分になり、弟は新しい服を買ってもらうことが多かった。お下がりをするには、その度に多少の修繕や寸法直しが必要で、母が針仕事を苦にしなかったので、わが家の洋服の寿命は長くなり、当然お下がりの回数も多かった。母の名誉のために言うと、わが家のお下がりはちょっと上等で、完全に縫い直しもするのでお古と思われないほどシャキッとしていた。私が中学生の頃、学生服はビニロンが主流で、ビニロンはすぐに皴だらけになる。私の学生服はドスキン生地だったので若干艶があるが着心地は悪くなかった。

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