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不幸な偶然

「千の点描」<第一六話>

私は小学四年生の時に転校した。それまで住んでいた家は借家だったが建坪が八〇坪以上ある大きな家だった。私は子供だったので詳しい事情は知らないが、家主は個人ではなく父の仕事と関連していた会社で、事業資金を確保するために一等地にあるその家を売りたがっていた。丁度時を合わせるように、母の父が亡くなって相当な遺産を受け取ることになったので、それならばと一軒家を購入して引っ越すことになったようだった。
引っ越しといっても同じ大阪市内で、中之島界隈から、大阪市の東住吉区に引っ越すことになった。引っ越し先は私鉄沿線の「各駅停車」しか止まらない駅の駅前にあった。駅前はそこそこ繁華だったが、駅前の商店街から少し離れると、まだあちこちに田圃(たんぼ)が広がっているのどかともいえる郊外の町だった。中之島に住んでいた頃には、大阪フェスティバルホールがあるところに、アサヒアリーナという大きなアイススケート場あって、週末はいつもスケートを楽しんでいた。私は物心ついてから中之島界隈しか知らなかったので、それが普通の街だと思っていたが、すぐ上の兄から引っ越し先は田圃や畑ばかりの田舎町だと教えられてびっくりした記憶がある。中之島から引っ越し先の郊外の駅までは、地下鉄と私鉄を乗り継いで一時間ほどの距離にあるが、それは大人になってから認識できたことで、兄から引っ越し先のことを聞かされてから、小学四年生の私には、もはや二度と戻ることのできない遠隔の地に流されるのだという不安で一杯だった。
 
子供にとって引っ越しは決して愉快なことではない。隣に住んでいた親友の上山君や、憧れていた町田先生、好きだった真鍋さんと引き離され、何が待ち構えているかもしれない未知の環境に一人で放り出されるのだ。引っ越しへの私の不安は大きかったが、母は天性の楽天的な性格の人で、私がこの地域での生活に馴染めるかどうか、地元の子供たちに虐(いじ)められはしないかといったことにはまったく無頓着で、どこに行こうが自分たちの生活スタイルを変える必要をまったく感じていないような人だった。
引っ越した頃は、大阪の都心部と郊外の町の間では、町の表情や生活スタイル、生活レベルに至るまで大きな違いがあったが、母は少しもそのことを気に掛けなかった。中之島にいた頃の私は、母の趣味で結構お洒落な服を着せられていた。七五三の時に男の子がよく着る晴れ着のような格好で、スーツの上着に揃いの半ズボン、青いストライプの蝶ネクタイに革靴といういでたちだった。私は母の方針の通り、中之島時代そのままの服装で引っ越し先の学校に通うことになった。

それは母の好みの服装なのだが、程々の大衆感覚を持ち合わせていた私には、この服装では地元の小学校で浮いた存在になることが分かっていた。この地域は、大阪の新しいベッドタウンとして中層の集合住宅が建ち始め、人口も増加の一途だったが、私が入ったクラスの大半は近隣の農家の子供たちだった。私が予想した通り、蝶ネクタイ姿の私を見たクラスの子供たちは、その対応に困惑していた。きっと彼らの想像を超える異質ないでたちなので、悪口を言う糸口も見つからなかったのだろう。
彼らにとって私は、おそらく反応できないほどの距離感があったので、とりあえず私をクラス仲間の別枠に隔離して、あまり関わらないというスタンスで臨んでいるようだった。とはいえ、私たちの間に何もなかったということでもなく、スリッパを隠されるなど些細な嫌がらせを受けたり、気取っていると陰口を叩かれたりはした。しかし、都心部の子供たちの悪戯のように陰湿ではないので私はさほど気にならず、事ごとに反応しないでいたら、私を無害で少し異質の子供として認識したようだった。クラスの生徒たちは、私との間に一定の距離を保ちながら、やがてクラスの補欠の一員だと位置付けて、ゆっくりと受け入れ始めた。
 
新しい学校に入って初めて知ったことだったが、この学校では算盤(そろばん)の上達が一番の学習目標になっていた。中之島の学校では算盤の授業はなかったが、この地域の学校では、算盤の一番上手な子供が無条件に優等生と見なされていた。確か、岸田劉生が描く「麗子像」にそっくりな子が、クラスで一番算盤に長けていた。授業の時間割でも算盤の授業が最重視されていたが、残念なことに私は今まで一度も算盤を手にしたことがなかった。だから当然算盤で計算などできなかった。授業ではどうしても算盤が必要になるので、帰宅してからそのことを母に伝えると、無反応に私の説明を聞いていた。とはいっても、すぐに算盤を買ってやるとは言ってくれなかった。
私の母は船場の大きな呉服問屋の娘で、幼い頃から算盤には馴染んでいたはずだった。だから新しい学校では算盤が必須なのだと聞かされても、母が特別の反応を示すとは思ってもいなかった。ところが、算盤の授業に対する激しい母の反応を、私は翌日になって初めて知ることになった。母は翌日私が学校に行くと、すぐさま学校の校長に電話したようで、昼頃には校長と面会する段取りを取り付けていた。それは放課後になって担任から教員室に呼ばれて知ったことで、またその場で私は母のラディカルな主張を聞かされることになった。
算盤に対する母の主張というのは、これからは電子計算機の時代になるのに、今さら算盤の練習などは時代錯誤も甚だしいということだった。母の年齢から考えれば珍しいことだが、母は科学知識が豊かで、その当時はまだ家庭に電卓などといったものはなく、一般の人々が電子計算機という存在をほとんど認識していなかった時代だった。その主張を元に、うちの子供に算盤を習わせる気はさらさらないと、校長に向かって啖呵を切ったようだった。
 
中之島と郊外の町とは確かに地域格差はあったが、それでも前の学校も今の学校もいずれも大阪市立の小学校で、授業のカリキュラムにそれほど大きな差があるとは思えない。担任の話によると、この学校の過度な算盤重視は多分に校長の個人的趣味に近いもので、担任たちも少し困惑しないでもないと言うことだった。校長から問題を解決するように求められた担任は、私への妥協案として、算盤の授業は受けてもらうが、積極的に参加しなくてもよいという、小学生には理解しがたい曖昧模糊(あいまいもこ)としたものだった。要は校長も担任も、現状を少しも変えることなく、物事を上手く収束させたいということだったのだろう。
母のラディカルな暴走によって、これまで学校や近所で何度も肩身の狭い思いをさせられてきた私としては、穏便にことを済ませたいという点においては校長や担任と同じ側にあった。だから、形だけでも算盤の授業に出るという担任の提案を呑む以外に選択肢はなかった。しかし、この水面下の折衝も、どこから漏れたのかは分からないが、クラスの生徒にも知られるところとなり、やっとクラスに受け入れられかけていた私は、また元の余所者に戻ってしまったのだった。
算盤の授業では、一人の生徒が教壇に立って算盤を手に数字を読み上げ、計算し終えると他の生徒の挙手を求めて回答させ、正解だったら教壇上の生徒が「ご明算!」と、大きな声を挙げる。算盤ができなければ、挙手をして答えなければいいようなものだが、三回の算盤の授業で一度くらいは、自分にも教壇に立って算盤を弾きながら数字を読み上げる役が回ってくる。私はまったく算盤ができなかったので、私が読み上げる数字はいつも、一〇、二〇や三〇、あるいは一五、二五など、算盤の操作がごく単純で、頭の中でもすぐに暗算できる簡単なものばかりだった。それでも、この学校に馴染もうとしている私の懸命の努力が評価されたのか、あるいは私の馬鹿さ加減が好感を呼んだのか、クラスの仲間に一歩近づいた存在になっていった。
 
それでも私はまだ同級生というよりオブザーバーに近い存在だったので、私に直接話しかけてくる生徒もほとんどいなかった。そのため同級生たちのプライベートな情報を知る機会は限られていたが、毎日漏れ聞こえてくる同級生の雑談の中から、闇夜に目が慣れていくように、次第にクラスの相関図らしきものが見えてくる。クラスの生徒の大半は、いわゆる近郊農家の子供で、親たちは主に野菜を栽培していた。戦後一〇年ほどしか経っていないので、都市も田舎も総じて貧しいが、クラスの中には最近都心部から郊外に引っ越してきたサラリーマンの子供も二割程度混じっていた。この子供たちの服装には多少ファッション性らしきものが見られたが、こうした状況のクラスにおいて、一人飛び抜けて垢抜けした男の生徒がいた。
着ている服はいわゆる舶来品で、いつもきれいに磨かれた革靴を履いていた。彼はどうやらクラスの女子生徒たちの憧れの対象らしく、授業の合間や昼休みには、女子生徒を中心に多くのクラスメートたちが彼を取り巻いていた。彼らが交わす会話の断片をつなぎ合わせると、垢抜けしたこの生徒が、大きな会社の社長の息子であることが分かった。まだ田舎の風情が残っている地域の小学校なので、大きな会社の社長の息子ということになると、鼻持ちならない嫌味な生徒だと相場は決まっているが、彼はそうではなかった。
彼は社長の息子だというのに少しも気取ったところがない。生徒たちを分け隔てすることもなく、また何を聞かれても裏表のない誠実な返事で、とても明るい性格であるように見えた。彼を囲んでの同級生たちの会話の主な話題は、彼の日々の生活や、休日の家族レジャーのことだった。彼は豊かさをひけらかすのではなく、ごく素直に日々の生活や、休日の家族レジャーのことを級友に語っていたが、彼が語る日常生活は、五〇年代に生きる大阪郊外の農家の子供たちには手の届かない夢のような世界に映っていたのだろうと思う。

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