深泥池奇譚
「千の展望」 <第一〇話>
ステージのちょうど中央には、美しい流線で象(かたど)られた一頭のサラブレッド種の馬がいた。逞しい筋肉が創りあげた見事な造形と、スポットライトの動きに伴って微かに彩りを変えるビロードの光沢を持った毛並みが、その輝く存在を静かに誇示していた。研ぎ澄まされた美しさが、観客の咳払いも拍手も許さず、ただ静寂だけがこの空間を支配していたのだ。
その日私は、深泥池(みどろがいけ)の近くに住む古い友人宅を訪ね、二時間ほど学生時代の馬鹿話に興じた後、下鴨神社前の自宅に戻る途中だった。深泥池は氷河期時代の生き残りとである生物と、温暖地の生物が共生している不思議な池で、この池の「深泥池水生植物群」が、国の特別天然記念物に指定されている。お吸物に入っているあのぬるぬるとしたジュンサイもこの池に自生していることを知った私は、物珍しさから二、三度訪れたことはあった。しかし、植物や水生生物に疎かった私にはさほど面白いところとも思えず、比較的近くに住んでいたのにここ五年ほどは深泥池から足が遠のいていた。ただ、友人が深泥池の近くに引っ越したと聞いて、改めて深泥池に関心が湧き、池を見るついでに友人を訪ねたのがこの日の経緯だった。
その当時、深泥池一帯は、京都の河原町通りの三条や四条などの都心部から少し離れていたこともあって、やや辺鄙な場所という印象があった。それだけではなくて、「深泥池」というおどろおどろしい名前のためか、あるいは夜になると街灯も少なく閑静過ぎるためか、この地にまつわる幽霊話は京都の都市伝説的によく知られていた。といっても、タクシーの運転手が浴衣を着た若い女性客を乗せ、目的地の深泥池に着いたので座席を振り返るとすでに客の姿はなく、座席が水で濡れていたといったような他愛ない話がほとんどだった。しかし私にすれば、この場所といい、夕闇が迫る時刻であることも相まって、幻想的な出来事が待ち構えているような淡い期待感があった。
それはあくまで私の心情であって、現実には今日も普通の日常でしかないことは理解していた。しかし友人の家を出て、二、三〇分ほど時間が経過した頃に、いつも目にするはずの景色に出合わないことに気が付いた。これだけ歩けば、すでにバスの通る大きな通りに出ているはずなのにと思ったのだ。見回してもバスの通る道などありそうもなく、相変わらず裏通りのような小さな道が続いていた。これは少し奇妙だと感じるとともに、何かに出合えるという期待感に、幾分なりのリアリティが生じているように思えた。どこかで道を間違えたのかと辿ってきた道を頭の中で振り返っていると、一丁ほど先に見慣れない輝きが見えてきた。照明器具の類の輝きではなく、松明(たいまつ)が燃えているような鈍く赤い輝きだった。
その灯りを詮索する理由などなかったが、興味の趣くままに、その赤い光を目印に光の方向に進んでいった。すると、全く予想もしなかったことに、江戸時代の大庄屋の屋敷のような立派な門構えの家があって、その家の門前に大きな篝火(かがりび)が焚かれていた。奇妙なことに門の辺りには誰も人がいないのに、その門扉が開け放たれていた。多少躊躇いはあったが、好奇心には勝てず開け放たれた門から屋敷の中を覗いてみると、門前の篝火より小さな篝火が、等間隔で導線のサインのように邸内に並べられているのが目に入った。
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