銅(あか)の磁石
「千の点描」 <第六話>
当時の私は、朝鮮戦争とはどの国とどの国が戦争しているのかさえ知らなかった。学校の先生から、朝鮮は日本のすぐ傍だと聞かされていた。学校の友達にも朝鮮人の子供が何人もいたので、おそらく近所の国だとは感じていたが、かといって朝鮮が日本からどの方向にどのくらいの距離のところに位置しているのかは知らなかった。しかし、朝鮮戦争の影響で、屑鉄や屑銅が高く売れることだけは知っていた。近所の小さな子供たちは、空き地や道端で屑鉄や屑銅を拾っては、それを屑鉄屋に売って日々の小遣いにしていたのだ。
屑鉄屋は、戦争の頃の空襲で焼けたままの状態で放置されていた空き地の片隅にあった。不法に土地を占拠して歪(いびつ)なバラック小屋を建て、買い取った屑鉄や古タイヤを山のように積み上げていた。私たちがわずかばかりの屑鉄を持ち込むと、屑鉄屋が“カンカン”と呼んでいた天秤量りで重さを図り、その重さに比例したお金を払ってくれた。子供相手の商いではないが、大人も子供も相手かまわず買い取ってくれた。鉄や銅の価格は日々変わるらしいが、子供にはその理屈は分からない。ただ、同じ量の鉄や銅にもかかわらず、毎日のように受け取るお金の額が変わるので、その日によって得をしたような、あるいは損をしたような漠然とした気分だけが残っていた。
屑鉄や屑銅集めでは、子供たちそれぞれに自分だけの秘密のテリトリーがあった。才覚のある子供はどこで手に入れてくるのか五〇センチほどの長さがある鉄道レールの切れ端や、一メートルもある厚い銅製の雨どいを手に入れてきて、子供の小遣いとしては不相応なお金を稼いでいた。私は壊れたラジオから強力な磁石を取り出して、その磁石で小さな鉄屑を効率的に集め、私なりに満足できる小遣いを稼いでいた。
父は中堅企業の役員をしていて、私の家は近所の家に比べて決して貧しいということではなかった。しかし、屑鉄を売ればお金になるということを知ってからは、お金を稼ぐという人間の本能的な快感に目覚め、いつもよりたくさんの屑鉄や屑銅を集めることを考えるようになっていた。そんな心理状態にあった時、近くの空き地に子供相手の物売りがやってきた。この手の物売りは、駄菓子や粗末な玩具を子供たちに売っていたが、その日の商品は意外なものだった。
そうした類の物売りから物を買うことは母から強く禁じられていたが、その物売りの商品を見てしまうと、親の忠告も一気に意識から飛んでしまった。物売りの男は、磁石を売っていたのだが、私が母の忠告を忘れるほどに心を惹かれたのは、“銅を引き寄せる磁石”を売っていたからだ。その物売りは口上も巧みに、軽やかな手つきで、磁石が金属を強く吸い寄せる様子を効果的にアピールしていた。鉄を引き寄せる磁石と銅を引き寄せる磁石の二種の磁石を売っていたが、なるほど鉄の磁石はクロームメッキされた釘を、銅の磁石は銅の硬貨をしっかり引き寄せていた。
鉄の磁石は五〇円、銅の磁石はその一〇倍の五〇〇円であった。当時の子供にとっての五〇〇円は、おそらく今の四、五千円に相当する大金であった。しかし、屑鉄集めを通して一端の稼ぎを自認していた当時の私は、銅の価値を理解していただけに、躊躇(ためら)うことなく即刻銅の磁石を買うことを決意していた。
もちろん五〇〇円という大金の手持ちはなかったので、家に帰って屑鉄や屑銅を売ったお金を貯めていた貯金箱から五〇〇円を取り出して持ってくる必要があった。私が家に戻っている間に物売りがいなくなっていないことを、売り切れになっていないことを祈るような気持ちで家に帰り、母に気付かれないように静かに貯金箱の底蓋を開けた。お金といってもほとんどが一〇円玉なので、急いで五〇〇円分の小銭を勘定して牛乳瓶に入れ、物売りのいる空き地に取って返した。
すぐにでも買いたいと気は焦っていたが、一応は父が道修町の衣料店で物を買っているときの様子を思い出しながら、一息ついて大事な商談に臨んだ。これも父の口真似だが、「なんぼかまからへんの?」と、商い慣れた商売人のように値切りを持ちかけた。物売りは、「兄ちゃん、達者やな!」と、お世辞とも皮肉ともつかない言葉をを口にしたが、続けて「この磁石はなあ、アマゾンという国のブラジルちゅうところで採れた貴重なもんで、大きな錫の鉱山でも年にやっと五つか六つ採れるだけやねん」と、難しい説明で私をたじろがせた。アマゾンとブラジルの名前は何となく知っていたが、その話の中身の間違いには当然気が付かなかった。あまりに勢いよく突き放したような話し方をしたため、客の私が引くのを恐れたのか、物売りの男は急に優しい声になって、「おっちゃんも負けてあげたいけど、ギリギリの値段で仕入れてるからもう負けられへんのや!」と、弁解がましく値引きを否定した。値切ってみようという私の思惑も、滅多に手に入れることのできない希少な磁石であるという物売りの自信に溢れた言葉に易々と押し切られるしかなかった。五〇〇円を支払って、周りの子供たちの羨望の視線を浴びながら私は銅の磁石を買うことになった。
牛乳瓶の小銭を手際よく数え終えて磁石を私に手渡す時、物売りの男は高い磁石を買ってくれたおまけだと、思わせぶりな顔をしながら一枚の銅の硬貨を私の手の上に載せた。銅の硬貨といっても一〇円玉ではなく、見たこともない外国の硬貨のようだった。女の人の横顔が浮き彫りになっていて、冠を被っていた。私は銅の磁石を一円も値切れなかったことに多少の悔しさは感じたが、千載一遇のチャンスを逃すことなく、果敢な決断をした自分の才覚に陶酔しながら逸(はや)る心を抑えて家へと向かった。
家の近くまで戻ると、近所の米屋の爺さんが床机(しょうぎ)に座りながら「今日は帰りが遅いな!」と、私に声をかけた。学校から戻ったのはもっと前だったが、その後空地に遊びに出かけ、そこで銅の磁石を買ったものだから、米屋の爺さんにすれば、私がいつもより一時間ほど家に帰るのが遅かったと言いたかったのだろう。私は銅の磁石を手にできたことが嬉しくて、帰りが遅くなった理由を伝えながら米屋のお爺さんに銅の磁石を見せた。見せるだけでは説明が不十分な気がして、「お爺さん、これ銅やで!銅がくっつく磁石やねん!」と、磁石を見ただけではその凄さが分からないので、例の磁石を手に持ち銅の硬貨がパチッ、パチッと吸い付く様を披露した。お爺さんは半分口を開け、「そらあ凄いな。えらい世の中になったもんやな!」と、素直に驚いてくれた。
子供の私にとっては、米屋のお爺さんが感心してくれたことは社会的なオーソライズを受けたようなものだった。そんな単純な理由で、私は銅の磁石を買った自分の判断に絶対的な自信を持つことになった。誰彼なしに、大声で磁石の自慢をしたかった。とりわけ家族にはこの磁石のことをすぐにも伝えたかったが、家には母しかいない。母は私が一旦学校から帰ってきたことを知っているので、母に磁石のことを伝えると、物売から物を買ったことも露見する恐れがあった。母に伝えるのは、私の決断が家族全員によって賞賛された後で、それならば母も納得してくれるだろうと考えたのだ。そこで母には「帰ったよ!」と、簡単に挨拶して、そのままに自分の部屋に入った。私は宝物のように磁石を慈しみながら、何度もパチッ、パチッと銅の磁石に銅の硬貨をくっつけて、兄や弟が帰宅するのを待っていた。途方もない金儲けの武器を手に入れたという私の幸せな興奮は、二時間後にあっけなくその終焉を迎えることになった。
私の部屋は兄の部屋の隣にあって、もともと一つの部屋を襖で二つに区切ったものだから、襖(ふすま)を開けると二つの部屋はいけいけになる。この日も中学校から帰ってきた兄はいつものように、どうという理由も権利もないのだが二つの部屋を隔てていた襖を開け放った。勝手に襖を開けられのは嫌だったが、今日の私は銅の磁石を自慢したくて仕方がなかったので、兄の顔を見るや否や早速銅の磁石を自慢し始めた。兄は制服を脱ぎながら黙って私の自慢話を聞いていたが、制服を脱ぎ終えて家着に着換えると、やにわに私の方に向き直り、有無を言わせず私の手から銅の硬貨を取り上げた。しかも銅の磁石ではなく、銅の硬貨を取り上げた意味が分からず、私は急いで銅の磁石の方を差し出したが、それには兄はまったく反応せず、部屋を出てスタスタと一人で台所の方に向かっていった。
そして二、三分後に、台所から手に砥石(といし)をつかんで戻ってきた。何をするのかと訝(いぶか)しがっている私の眼の前で、兄はどっかりと腰を下ろし足の間に漫画雑誌を置き、その上に少し水に濡れた砥石を載せた。そして、私から取り上げた銅貨の表や裏を子細に観察してから、銅貨の端を砥石でゆっくり研ぎ始めた。何度か研いでいるうちに、兄が予想していた結果が顕れたらしく、ウンウンといかにも納得したような面持ちで、首と胴体を私の方に傾(かし)げながら硬貨を持った指先を私の方に突き出してきた。そこには端が鈍い白色に光る銅貨があった。つまり私が銅貨と信じ切っていた硬貨が、鋳鉄に銅メッキした偽物の銅貨であることを兄はたちまち見破ったのだった。
兄はこの磁石を、手品の小道具だと認識していたらしく、簡単にばれるネタだと私の幼稚さを笑っていた。幸いにも、私が空地の物売りから買ったことは言ってなかったので、五〇〇円を騙し取られた私の恥は何とか封印することができた。勝ち誇ったような兄の顔を見ながら、私は五〇〇円で買ったことは寝言でも口にすまいと心に決めた。それでも兄は、この磁石の入手先を執拗に聞き出そうとするので、五〇〇円という大金を失ったことによる絶望的な落胆を気取られないようにしながら、通りすがりの見知らぬ人に貰ったのだと口を濁した。