見出し画像

水の中の暗い情熱

「千の点描」 <第ニ五話>

ビルの正面には、小さな三、四段の御影石の階段があった。そこを一気に駆け上がると、すでにドアそのものは跡形もなかったが、かつて二枚のドアを収めていたものと思われる上部がアーチ状の石の枠が残っている。上のアーチの部分には、日本建築でいう欄間(らんま)のように小さなステンドグラスの飾り窓があったのか、ごくわずかだがステンドグラスの金属の枠と、彩色されたガラスの断片がかつての姿を偲ばせている。その石の枠を抜けるとそのままビルの一階フロアが開けている。床は緑の大理石だったようだが、フロアの隅には瓦礫が無造作に転がっていて、一面に堆く(うずたかく)砂塵や埃が敷き詰められている。フロアの中央部分には、わずかに子供たちの足跡が細い通り道を描き、その通路の微かな暗緑色が、かつて床が大理石であったことを無言で語っているように思えた。
一階のフロアの奥の方に、一階から地下階に降りる階段があって、その階段を一段、二段、三段と降りたところに水面があった。それより下の段は水面下にあって、下へと降りていく階段も、地下のフロアも当然水の中にあった。戦争前に造られていたコンクリートの川の堤防が空襲で破壊され、応急処理のまま戦後一〇年を経た今も完全には修復されず、堤防の裂け目からわずかに漏れ出した川の水が、川のすぐ傍に建つ半ば廃墟となったこのビルの地下を満たしていた。まだ空襲の傷跡がそこかしこに残るこの街には、いくつもの半壊したビルがあり、そこは子供たちの格好の遊び場であり、隠れ家でもあった。
その中でも、地下フロアに川の水が流れ込んでいるこのビルは、子供たちの常識では捉え切れない不思議な存在だった。もしこの街の半壊したビルを網羅したリストがあったら、赤い鉛筆で二重丸を付けておきたいほど謎めいた魅力を感じさせ、私の大好きな場所の一つだった。ビルの入り口には「斎藤ビルヂング」と書かれた真鍮の銘板が残されていて、建物の風情からみておそらく地上四階、地下一階建ての建物かと思われた。三階、四階部分は空襲で破壊され、朝顔の支柱を思わせる歪(いびつ)な形の鉄筋だけを残していた。二階は南と西の二方の壁面だけが危うくその構造を残っていた。天井部分は完全に失われていて、二階の床に立って見上げれば空が仰げた。
 
一階から地下への階段には半ばまで川の水が流れ込んでいて、穏やかな水面だけが見えていた。一階のフロアから地下へと降りる階段のところを覗くと、四角い小さな池のようにも見える。ビルの地階と川とがつながっているとしたら、ここに鯉や鮒がいても少しも不思議ではないが、魚がいたという記憶はない。ビルの一階には窓枠だけが残された大きな窓があり、ある時間帯には、窓からの明るい太陽の光が一階のフロア全体に溢れ、地下へと続く階段にもその光の一部が差し込んでいた。水は繁茂した藻によるものか暗い緑色で、斜めに降りてゆく階段の手摺が、途中で切断されたように緑に澱んだ水に没している光景は、子供心にも幻想的だった。
ビルの中にあるこの池を初めて見た子供たちは、その不思議な存在感に大いに興味をそそられ、水面に石を投げたり、魚釣りの真似をしたりするのだが、その池にそれ以上深く関わる余地がなく、子供たちの関心が長く持続することはなかった。私は、ビルの中の池という存在の不思議さよりも、その階段の下に存在する世界に対して興味を抱いていた。手摺をつかんで水面から下へと一段降りると、靴が緑の水の中に姿を消した。その日はそれだけで十分な達成感があった。
私は、あの地下のフロアに向かってその第一歩を踏み出したのだ。その日の日記には、日常の記録の最後に、「一歩、一だん目、くるぶし」と付け加えた。それから何日かして、今度は手摺をつかんで、さらに二段ほど階段を降りた。膝の下まで水に浸かると、冷たい水の感触が足を包んだ。私は決して腕白ではなかったし、無謀な冒険を楽しむタイプではなかった。私は、子供ながらも計画的に、少しずつ時間をかけて階段の下の水中の世界を自分の世界にしようと考えていた。もし母に日記を読まれた時のことを考えて、意味不明なシンプルな記述で、目標への進捗を日記に記した。「二歩、三だん目、ひざ」。
 
私の計画は少しずつ前進し、夏を迎える頃には、ズボンとシャツを脱ぎ、パンツ一枚で水面が首のところにくるまで、地下への階段を降りることが出来た。勿論手摺を持ってのことだが、今では思った時に階段を降りて、首の高さまで水の中の世界に滞在することができた。私の次の目標は、手摺を持たずに、地下へと階段を降りることだった。決して無理をすることなく、最初は手摺を持たず一歩階段を降りるところから次のステップをスタートした。それからほどなく、私は手摺をつかまず、少しも怖れることなく階段の中央を降りて、首まで水の中に入ること出来るようになっていた。その日の日記の添え書きは「一五歩、手すりなし、首」だった。
水の中の地下フロアには、眠ったままの事務所があるのだと私は確信していた。私の頭の中にあった水の中の事務所のイメージは、金子君のお父さんの会社が原型かも知れない。去年の一一月に親友の金子君に連れられて、彼のお父さんの事務所に行ったことがあった。確か映画に連れて行ってもらうことになっていて、待ち合わせのために会社に寄ったのだ。会社は肥後橋にあって私たちの家から歩いて行ける距離にあった。金子君のお父さんの事務所には、幾つもデスクが整然と並べられ、それぞれのデスクの上には黒く光る電話機が載っていた。一番奥の社長のデスクの横には、私と金子君が一緒に並んでケーキを食べていたソファがあって、社長の椅子の背もたれの向こうには大きな金庫もあった。
きっと水の中のフロアには、時間が止まったようにそんな事務所が眠っているはずだった。私はいつも、いつかその光景を、部屋の中を泳ぎながら見たいと考えていた。暗緑色の藻が繁茂して、透明度が全くない水中では、そんな光景が見えるはずのないことは考えたこともなかった。ディズニーの映画のように、何時かはこの澱んだ水の中を悠々と泳ぎ、ピーターパンかティンカーベルのように、地下の事務所を俯瞰しながら自由に浮遊できると思い込んでいた。
 
私の危険な挑戦は、私の兄弟や友達など、誰一人気付かないうちに次第にエスカレートしていった。藻に覆われた水中の階段のぬるぬるとして滑りやすい感触や、時間帯によってはまったく光が届かず闇に包まれていく不吉な感覚が、この先に待ちうける出来事の行く末を暗示し始めていたように思う。私が歩いて行ける範囲は首まで水に浸かるところが限界で、そこには何度も降りて行ったことがあるので、今では目を閉じていても行ける自信があった。ここ数日、私の計画は前に進まずそのまま足踏みしていた。その頃の日記には「二五歩、準備終わり。ゆう気・決い」と書かれたままだった。
次のステップとしては、階段を足を使って降りるのではなく、自分の力で水中を泳ぎ、新しい領域に進んで行かなければならない。そう決意はしていても、不安な予感がするのか次の段階への決断に躊躇(ためら)いがあった。ある日、地下のフロアに通じる階段の前に立ってみると、にわかに心が穏やかに感じられた。そして静かな水面が私を手招きし、暗緑色の水が手を広げて、私を抱擁しようとしているように思えた。私は自分が泳げないことなど少しも意識することなく、、階段の中央部分を一歩、一歩と降りて行き、首まで水が浸かるところまで降りるとまず一呼吸置いた。そして、足元の階段の角を軽く蹴ってゆっくりと体を前方へと押し出した。
 
溺れて意識を失う前の甘味な陶酔か、あるいは際限のない苦しみか、私にはそのいずれであったか全く思い出せない。水の中に身体を押し出してから後のことはまったく記憶がないのだ。気が着けば、眼の前に狼狽している母や兄がいた。私の顔を覗き込んでいる近所の人や、いつも一緒に遊んでいる幼い友達がいた。近所に住んでいる水泳部員の高校生が、私の喉に指を入れ、汚い水を吐かしていた。後で聞くとこの高校生は、母が必死に頼み込んで連れてきたという。
私が死ななかったのは、ほとんど奇跡に近いことだったかも知れない。私はいつも一人でこの危険な挑戦に臨んでいた。だから、私が溺れたとしも、誰もそのことに気付くはずはなかったのだ。ところがその日は、幼い友達が近くの川で三尾の鮒をすくい獲り、その鮒を家に持ち帰ったのだが、家で買うことを許されず、困った友達はビルの中の小さな池に放つことを思い付いた。それでこのビルにやってきたということだった。鮒を放そうとビルの中の池を覗くと、私が池の中で苦しそうにもがいていているのが見え、これは大変だと慌ててビルを飛び出したところに、私を探しに来ていた兄と出くわしたということだった。
 
後日、私が兄から聞いた話では、私の救助は実際にはそれほど劇的なものではなかったのだそうだ。兄がビルの中の池に駆け付けた時には、私がほとんど自力で一階のフロアの縁まで近づいていたので、兄が私の手をつかんでただ引き寄せただけのことだった。とはいえ、私がかなり汚濁した水を飲んでいたので、あと少し発見が遅れていたらどうなっていたかは分からないと言っていた。いずれにしても、自分で階段の角を蹴って泳ぎ出たということははっきり覚えているが、その後のことは何も覚えていない。ただ、助かった後も、私が長い期間にわたって“禁じられた遊び”に挑戦し続けたことは、誰にも話せなかった。
親や周囲の人が考えたように、遊んでいて誤ってビルの池に落ちたという経緯を、私も黙って追認することにした。しかし小さな子供にも、来るべき悲劇の可能性を認識しながらも、自分を捉えて離さない世界へとひた走る暗い情熱が存在したことを、今もはっきりと憶えている。
 
 

いいなと思ったら応援しよう!