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わが心の近代建築Vol.2 豊門公園(旧和田豊治向島邸宅)/静岡県駿河小山

皆さん、こんにちわ!
今回は第2弾として、先日訪問しました、静岡県駿河小山にある、豊門公園のなかの豊門会館(旧和田豊治邸)を中心に記載します。
とくに公園内の豊門会館は、駿河小山にあった富士紡績の専務取締役を務めた和田豊治氏の邸宅で、1909年に東京都墨田区向島に建立。
和田豊治氏亡き後、氏の遺言から、小山町に移築。町民や町の協力を得て、移築復元され、公園として整備されます。
以降、富士紡績社員の福利厚生施設や市域住民の修養、教育、保健、慰安の場として用いられますが、2004年に富士富士紡績は小山町に譲渡。2005年に公園全体が国指定登録有形文化財に選定され、現在は西洋館とともに一般公開されています。

この中で豊門会館は、明治期の邸宅の特徴をよくとらえており、和洋並列式になっており、その当時の上流階級の方の邸宅事情をよく伝えいます。
また、東京向島というと、関東大震災、東京再空襲…
向島は2度の大火に遭いますが、関東大震災時には、庭園が広く設けられていたことや、総栂(ツガ)作りだったため火災に強かった点があり難を逃れ、空襲時にはすでに小山町に移築されていたため、大きな被害に遭うことなく、今日に当時の姿をよく伝えている、大変幸運な建造物になっています。
なお、「豊門」の間前の由来は、富士紡績の携わった和田豊治氏の「豊」と、富士紡績の3門と謳われた森村市左衛門、日比谷平座衛門、浜口吉右衛門の「門」からとられたことが伝えられています。

建物メモ:豊門会館
●竣工年:1909年(移築:1925年竣工)
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●休館日:毎週火・水曜日、年末年始
●入館料:¥300
(他に貸切期間があるので行く前に小山町に確認を)
●交通アクセス:JR御殿場線「駿河小山」駅より徒歩25分
●参考文献など:BS朝日放映「百年名家」など

豊門公園 正門:
豊門公園開園時からの門で、高さ1.7mのRC造柱を左右に配し、その外側に曲線平面の袖壁を付けています。
笠石には江戸切仕上げの大型の花崗岩が用いられ、モルタル洗出の柱身には、石詰風の目地を等間隔に入れた重厚な造りになっています。

和田豊治銅像:
和田豊治(1861~1924)は、現在の大分県に生まれ、慶應義塾入学後、渡米。
1891年に帰国後は日本郵船神戸支社に入社ののち、三井銀行を経て鐘淵紡績東京本店支配人に就任。
欧米の技術を導入して経営を立ち直らせ、1901年に富士紡績に入社。
和田豊治は、小山町の豊富な水源を活かして見事経営を立ち直らせます。
また、その生涯、多くの会社設立に関わり、「第二の澁澤榮一」と謳われました。

和田豊治氏の家族写真:
和田豊治は、豊門会館を母との生活の為に建てた孝行息子として知られ、邸宅には、母の為に作られた部分などがあります。

明治期の駿河小山に遭った富士紡績小山工場:
小山町は、足柄峠を越える東海道足柄路の駿河川の出入り口で、いくつかの宿場町が運営されました。
明治期には、東海道線(現・御殿場線)の開通や、豊富な水源に着眼され、で、富士紡績が小山工場を進出したことで発展し、駿東地区では比較的早くから町制が敷かれ、現在は富士スピードウェイなどが置かれています

豊門公園和田君遺碑:
和田豊治の生前の功績をたたえて作られたもので、高さ3mの花崗岩の石造物。
角を丸めた1.5m四方の台座に碑紋を刻印した円柱を載せ、さらにその上に宝珠を戴く三層の屋根型を載せています。
建築的なモチーフを取り入れた、朝倉文夫案による独特な意匠になっています。

豊門会館噴水塔:
こちらは豊門公園の中央部分に位置する噴水で、1925年の開園時に作られたものになっています。
半径5mの半円形のRC造りのものになっており、両端にモルタル洗い出し仕上げで、石積風に目地を入れた角材を配しています。

豊門公園 西洋館:
こちらは1925年に豊門公園の開園に併せて作られた西洋館になっており、富士紡績社員の研修施設などに利用されました。
なお、この建物内部は、大きな改変を受けており、階段以外は当時の面影を残していません。
なお、現在、1階部分はレストランやイベントスペースに。2階部分は展示施設に使用されています。

豊門会館 全体を臨む:
右側には洋館、左側に和館を設えた和洋並列型住宅になっています。
また、和館は屋根が重なり、2階部分の天井も高く作られています。

豊門会館 表玄関:
建物の構造的には、江戸東京たてもの園に保存されている、高橋是清邸に似ていますが、高橋邸と違い、車寄せ部分は無く、玄関は桟唐戸(さんからど)になっています。

豊門会館 洋館玄関部分:
和館の右側に並列して建てられており、簡素な造りながら、壁面はモルタル貼り、屋根はスレート葺きになっています。

豊門会館 ベイウィンドウ:
洋館の横側には、洋館らしくベイウィンドウが設えています。

豊門会館 裏側から臨む:
表玄関裏側から臨むと、洋館の背後はサンルームになっており、邸宅全体の並び方は雁行型に並んでいます。

豊門会館平面図(カタログより拝借):
平面図を見ると、和館と洋館が並列した造りになっており、近代和風建築の状況をよく著しています。
また、洋館と和館は雁行型に並んでもいます。

豊門会館表玄関:
大きな靴脱ぎ石のほか天井部分にも、質の高い木材が使用されています。

豊門会館 1階広間:
まず、玄関前に掲げられているのは、澁澤栄一翁が齢92の時に書いた書で、「豊門会館」と書かれており、渋沢翁と和田豊治の関係は、渋沢翁と和田豊治は深い関係にあったと言われますが、これが書かれた際には、残念ながら和田豊治はすでに鬼籍に入っていました。
また、邸宅も、個人の邸宅というより寺社建築を思い出される造りになっています。

豊門会館 玄関口に飾られた額(ネットより拝借):
こちらは、渋沢栄一翁が91歳の時に著したもので豊門会館と記されています。
和田豊治と渋沢栄一は古い繋がりがあり、渋沢栄一のまごの敬三氏が結婚する際に媒酌人を務めたこともありました。
なお、この額が記された際には、和田豊治は既に鬼籍に入っていました。

豊門会館 1階ギャラリー:
元応接間で、現在は、ギャラリースペースに用いられ、和田豊治の足跡が掲げられています。また、豊門会館は外観こそ和風になっているもの、この部屋は洋間になっていました。

豊門会館 洋間(1)シンプルな外観からは想像がつかない豪華な室内になっています。天井が非常に特徴的で、室内全体が、スコットランドの建築家・アダム兄弟が広めたアダム・スタイルになっており、18世紀のスコットランドで流行した造りになっています。室内や暖炉ばかりに目が行きますが、床の寄木部分も非常に美しく、竣工当時からのものになっています。

豊門会館 1階洋間(1)の暖炉と家具:
この部分からも床材が非常に手の込んだ寄木張りになっていることが分かり、また室内のほかの設えと同様、暖炉部分や家具もアダムスタイルに統一されています。



豊門会館 1階洋間(1) 扉部分:
扉には一見すると、模様が書いてあるように見えますが、木の象嵌によるものになっています。

豊門会館 1階洋間(2):
先ほどの洋間(1)とつながっている部分で、この先には、サンルームが設えています。

豊門会館 1階サンルーム:
先ほどの洋間(2)を抜けるとサンルームになっており、いつ尽くされたかは定かではないものの、大正12年の園遊会の写真にはすでに残されていたことが分かります。
この当時のガラスは大変貴重で、いかに和田家に財力があったかを伺い知ることができます。
また、タイルの美しさに目が行きますが、入口部分に木の床材が貼られており、大理石で区切られていますが、もともとは、和田豊治の母親が植物を育てるために作られた部屋で、タイル部分に植物を置き板の間でそれを眺める仕組みになっています。

豊門会館 1階和室(1)【10畳の間】
10畳の内向きの部屋になっており、ちょうど豊門会館のヘソの部分に当たる部屋になっています。
この部屋は主人居室として利用され、薄縁式(うすべりしき)の床の間、床脇には違い棚、天袋、地袋が備えられていmす。
床板、落とし掛けには栂(ツガ)材を。床框はウルシの真塗。
床脇にはケヤキを用いており、天袋の小襖には金もみ紙が貼ってあります。
なお、壁は、やや赤みが買った土壁塗り。
天井高は9.4尺(2.85m)と高く、二重廻縁の竿縁天井になっています。

豊門会館 和室(1)【10畳の間】の書院欄間:
書院欄間は、杉の柾目材に朝顔を透かし彫りにしたものになています。

豊門会館 和室(2)

豊門会館 1階和室(3)

豊門会館 1階部分から階段を臨む:
階段手すりカーブは、1本の木を用いており、そのことから、相当太い材を用いていることが分かります。また、階段下方に蕨手(わらび‐て)という装飾がされており、個人邸宅、というよりも寺社建築に近いものになっています。

豊門会館 和室(4)【8畳の間】:
下の階の和室とは違い、数寄屋、とまでは言わないまでも崩した書院になっており、床板は1枚板を用いたものになってます。
この部屋は特に和田豊治の趣味を反映させており、かつては富士紡績の小山工場を観ることができました。
また、壁の書については、幕末時代に活躍した、佐久間象山のものになっています。

豊門会館 2階和室(4)の袖壁(そでかべ):
袖壁は寺社建築で用いられる八掛(はっかけ)になっており、小襖部分から覗くと、柱部分に材が通っており、塗りで隠した意匠になっています。

豊門会館 2階和室(4)【8畳の間】に掲げられた佐久間象山の書:
佐久間象山は幕末期の兵学舎・朱子学者で、弟子には勝海舟や吉田松陰らがいます。
この軸は、勝海舟から、富士紡績初代会長の富田鉄之助氏に譲られたものだと考えられています。

豊門会館 2階次の間(2):
先述の2階和室4【8畳間】と2階和室5【次の間】を結ぶ部分になっています。

豊門会館 2階和室(5)【次の間】
後述の和室(6)に付随する部屋で、イベント時には、障子を外して使用します。
写真から和室(6)が覗きますが、その格調高さを伺い知ることができます。

豊門会館 2階和室(6)【15畳間】
和田豊治邸で、最も格式の高い部屋になっており、本格的な書院造になっています。
真ん中正面に床が備えてあり、その両方に床脇が付けられています。
また、幅1間半の薄縁床の床框には黒漆塗りになっています。
天井部分に注目すると、柾目材を支える極太の竿縁には、角を落とした猿頬(さるぼお)という伝統工法が用いられています。
これは建物全体に言えることですが、栂(ツガ)普請ということもあり、柱という柱の木目には不思議な模様になっています。

2階和室(6)の書院部分:
書院欄間の上に掲げられている書は、勝海舟が著したものになっています。
六合山荘は、富士紡績初代会長の富田鉄之助氏が小山町に構えた住居の称号で、富田氏は、勝海舟の高弟でもありました。

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