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わが心の近代建築Vol.29 旧松城家住宅(静岡県戸田)

みなさん、こんにちわ。
最近は暑い中、いかがお過ごしでしょうか?こちらは、建物探訪…やはり5月に比べ、暑さからか、だいぶ訪問ペースが落ちていますが、皆さんも暑さ対策、気を付けてくださいね‼
なお、今回は、静岡県沼津市戸田にある旧松城家住宅について紹介できたらと考えております。

旧松代家住宅について記載する前に、静岡県戸田について記載すると、現在は沼津市になり、その歴史について記載すると…
歴史の表舞台に出たのは1854年の幕末期。
ロシア海軍船・ディアナ号が安政東海地震の津波により大破。
代わりの船を造るに際し、戸田村の宮大工・上田寅吉らがロシア人に手助けを行いながら「ヘダ号」を建造。
その造船技術を学んだことに始まります。

ヘダ号【図面はWikipediaより転載】:
1854年の安政東海大地震の津波により、ロシア船「ディアナ号」は大破、田子の浦沖に座礁。
ロシア軍は、自身の状況も顧みずに援助した地元住民に感謝。プチャーチンは帰国のための船を戸田村で建造しますが、この際に上田寅吉ら船大工が協力、造船技術を学びます。
完成後、ロシア海軍は造船に携わった戸田村の協力に感謝し、その船を「ヘダ号」と命名。
プチャーチン一行は「ヘダ号」とともに3年ぶりにロシア・ニコライヘスクスまで帰国。
ヘダ号は、日露友好のシンボルとして日本に返還。
戊辰戦争の函館戦争で官軍で使用されたのち、その足取りこそ途絶えてしまいますが、戸田村ではヘダ号の同型である君沢型の量産が行われ、日本の造船技術の発展に大きく寄与しました。

ヘダ号の歴史以降、1889年の町村制において戸田村は近隣の井田村と合併ののち戸田村が誕生。
また1896年に君沢群・賀茂郡と合併され田方郡が誕生し、それらは2003年に沼津市に編入されました。
おもな産業として、駿河湾の海溝がある特性から、世界最大の節足動物「タカアシガニ」の産地として知られ、近隣には戸田温泉が広がり、ミカン科植物・タチバナの日本最大自生地となっています。

金冠山から望む戸田湾【写真はWikipediaより転載】

次に松城家住宅は、江戸時代から海鮮業を営み、財を成した家柄で、基金の際に私財を投げうって村を救った功績が認められ、名字帯刀が許可。
以降、当主は代々「松城兵作」姓を名乗ることに。特に2代目熊三郎は米穀食品の輸出業でさらに事業拡大し邸宅を新築。それが今回扱う「旧松城家住宅」になります。
松城家住宅には、1887年にプチャーチンの娘・オリガ・プチャーチナが来村宿泊します。
また熊三郎の長男・長も事業を拡大。伊豆浦汽船会社(豆州共同汽船会社)社長に就任するとともに、田方群議会議員・静岡県議員・衆議院議員を歴任し、戸田村村長を務めるなど、戸田村発展に尽力しました。

たてものメモ
松城家住宅
●竣工:1876年
●設計者:大工棟梁・上田儀兵衛
●文化財指定:国指定重要文化財
●写真撮影:可
●入館料:¥300
●休館日:年末年始、毎週水曜日
●交通アクセス:
伊豆箱根鉄道「修善寺」駅よりバス「戸田」行で「戸田」下車7分
●留意点:
修善寺から出るバスの本数は異様に少ないため、事前に交通ルートの確認をすることを強く推します

正門:
正門には伊豆石で作られた高さ9尺(2.7m)の門柱があり、外周を整層切石積の石塀が設置されています。建築党委は敷地外部が現在より1m低くなっているため、基礎石より下の地下部分がろしゅつしていました。
もともとは、伊豆石を積んだだけのものでしたが、現在は耐震保護上、鉄柱を入れ、色の違うものは、復元工事で補強されたものになります。
また、主屋まで邸内の道が斜めなっていますが、これは魔除けのため、とも。

東土蔵:
この部分は、外部や出入り口からよくみられるため、格式高く作られています。なお竣工当時、松城家では質屋業もやっていたため、質蔵として使用していました。外壁は黒漆喰塗と黒ナマコ壁塗りがされ、西側中央部分に両開き黒漆喰塗扉付き戸口と2階南面に両開き黒漆喰塗黒漆喰塗扉窓が付けられています。1階は北半分が切石敷、南半分が板敷きになり、2階は棚が多く設置されています。

ミセ:
番頭が詰める帳場として使用された部分(現在は事務所として活用)そのため、内装は質素な造りになっているものの、帳簿管理のため、押し入れ内部は温度調節と防虫のため漆喰塗になります。また2階部分は住み込みの使用人部屋として活用されました。

主屋:
竣工当時の明治初期に見られた「疑洋風式住宅」になっています。特に、この松代家は現存する日本最古の「疑洋風建築」と言われており、1999年に国指定登録有形文化財に選定。
その後2006年に「主屋」「ミセ」「文庫蔵」「東土蔵」「北土蔵」「門」「塀」が重要文化財に選出され、2018年から2022年の長い期間をかけ、修復工事が行われ、竣工当時の姿に近づけて戻され、現在では広く公開さえれています。なお、邸内の配置は家相学が用いられ、壁や天井部分などには静岡を代表する鏝絵師の入江長八の作品が多く遺された大変貴重な作品になっています。

煙突部分:
ミセ側から見ると屋根に煙突がついていますが、こちらは囲炉裏部分のものになり、建物の配置上、うまくは機能しませんでした。

庭門/塀:
塀は伊豆石が積み上げられ、アーチ型の門で構成。
塀部分は外壁と同じく基礎石上に伊豆石を8段積に。アーチ状の門の上には笠石をアーチに沿って「むくり」破風状にした独特な形に。
この部分は、主屋において歌人と乗客の出入り動線を区切る仕切りになっています。
余談ですが左部分に見える鉄の補強材、石の色が違う部分は、のちの耐震工事で増強された箇所になります。

ホンゲンカン外観:
こちらは格の高い客人が使用する玄関口で、ワキゲンカンとは違い、格の高いものになります。
懸魚は現在レプリカ(本物は邸内にあり)。下側部分は亀で上側は鶴が描かれたものになり、舞良戸も付けられています。
また、左側のガラス戸は、摺りガラスになります。

側面写真:
まず左側1階。2つに連なる火灯窓のある部分は手前が浴室、奥側が厠になっており、現在、火灯窓部分などはアクリル板で保護されています。
1階部分が伝統的な和風建築に対し、2階部分は石積み風になっており、西洋風の鎧窓が3か所に付けられていますが、うち奥側の2か所はダミーになっています。

ワキゲンカン:
主に家人や使用人が使用した玄関。
入り口部分には防火のための天水桶が置かれ、邸内は裏庭まで抜けられる土間になっています。

ワキゲンカン天井:
松代家家紋の木瓜とも、刀の鍔様ともとれる意匠の中に3輪の牡丹の漆喰鏝絵が描かれています。鏝絵は、漆喰で描かれたレリーフで、この邸宅に携わった左官職人の方の高いスキルを感じさせられます。

松城家住宅平面図【図面はWikipediaより転載】

1階ヒロマ:
この部屋は来客者が立ち入る部屋ではないため、襖ではなく、板戸で仕切られています。また、正面部分には神棚が設けられていあmすが松代家住宅では2階がある為、「神様を踏まないように」との配慮から、雲に見立てた意匠になっています。
なお、地元に鎮座する部田神社の護符があり、護符の前には大黒天、布袋の小さな象が祀られていました。

1階ホンゲンカン:
先述のホンゲンカンから入った部分。
松代家にとり、特に大切な来客者を招いた部屋のため、天井は竿縁天井に。右側、押入の中に見える金属部分は、耐震補強材になっています。

1階オザシキ:
奥に付書院を備え、火灯窓を備え、地板には黒柿を使用した、他の部よりも格式高い室内になっています。また、左側はジョウダンノマとなり、さらに格式高い部屋になっています。

1階オザシキの釘隠し:
釘隠しには長寿を表す鶴が描かれています。

1階ジョウダンノマ:
松代家のなかで、最も格式高い部屋になっており、オザシキからは1段高く設えています。
床の間横には違い棚を付け、ロシア海軍大将プチャーチンの娘、オリガ・プチャーチナが来訪した際にはこの部屋に宿泊。
かつては、家族や子どもたちも立ち入りを制限された部屋になっていました。

1階ジョウダンノマ/釘隠し:
落らの部屋の釘隠しには六曜になっており、古くから日本の仁アj仏閣で使用さえたデザインになっています。

オクザシキ脇のトイレ:
まず、窓部分は現在、風雨が入り込まないよう、アクリル板で保護されています。また小便器を備えています。

オザシキ脇の客人用トイレ:
こちらのトイレは黒漆塗りになっています。

1階浴室:
浴室部分は「沼津御用邸」と同じくかけ流し式で、出入り口は2か所あり、1か所はトイレへ。もう1か所は浴室へ入るものでした。

1階家人用トイレ:
松城家住宅にはトイレが2か所あり、奥側は家人用トイレとなります。

1階家人用トイレ(大便器):
客人用の大便器が黒漆塗りだったのに対し、家人用はただの木製のトイレになっています。

1階文庫蔵:
松城家の大切な書類などを保管した場所で、湿度調節と防虫のため、室内を漆喰塗壁にしています。
扉は防火のために厚く設えています。
竣工当時はこの蔵の東側に池がありましたが、巨大金頃入れるため、池にかかるように増築されます。

1階オクナンド:
家族及び使用人の使用する部屋。
客人は入る事は無いものの、戸棚の襖絵は、富士市の吉原宿に手脇本陣の管理を勤めていた鈴木香峰(1808~1885)の作品になっています。

1階オクナンドの襖絵:
襖絵は、鈴木香峰の作品になり、氏は詩歌や絵画を好み、引退後は絵画作成に専念。水墨画に彩色を施した山水画は、名声を博し宮内省にも買い上げられています。

1階マエナンド:
オクナンド同様に、家人及び使用人が使用する部屋になっています。
写真右側には、来客が分かるようにワキゲンカンと紐でつなげた呼び鈴が。また天井装飾には、野菜が描かれた「秋の実り」の鏝絵が描かれています。

1階ナンド側の廊下:
オクナンドとマエナンドの廊下部分で「勝手」と繋がっています

1階ナンド側の釘隠し:
廊下部分の釘隠しは「茶の実」が描かれています。

1階ナカノマ:
左側に見える太い柱が大黒柱になります。
ガラス窓からはワキゲンカンを見ることができ、来客をこちらからも知ることができました。
囲炉裏を備えてあり、天井には煙抜きの空間があり、先述の煙突から排出される仕組みになっていましたが、現実的にはうまく作動しなかったようです。
また、
左側上部の空間は踊り場の窓から光が差し込み、右側の仏壇を照らす仕掛けになっています。

1階カッテ

1階 釜場:
近年まで浴室があった部屋。
発掘調査により、大中小のかまどが3基発見。明治時代の建築当初はここが釜場(台所)だったことが判明・
構築材には石が用いられ、実際に使った痕跡として、灰や炭化物、焼土なども発見されました。

1階ナカノマのある階段部分:
この階段も、漆塗りの豪華なものになり、2階は疑洋風になっています。

2階前の間:
2階部分の構造は、丸木柱を中心に、日本家屋の伝統的な田の字に配された4部屋と2部屋に分かれています。
前の間は、階段室と接続した部屋になり、天井は明治当初に輸入されたとされる幾何学模様のクロスが貼られています。

2階前の間/天袋:
天袋の襖絵は、1階オクナンドと同じく、吉原宿で活躍した鈴木香峰の作品になっています。

2階応接間:
前の間との仕切りの鳥の子紙の建具は取り外すことができ、4つの部屋を1つの部屋として使用することも可能になっています。
子の建具の開口部分はアーチ状、畳の部屋に天井が洋風という「疑洋風」になっており、中央部分のランプは、高さ調整ができるよう、巻き取りチェーン付きになっています。

2階ベランダ:
ベランダの柱はトスカナ風なっていますが、この部分は、木材に漆喰を塗ったものになっています。

2階ベランダ/鏝絵「雨中の虎」:
1976年の入江長八氏の作品。
激しい雨に向かう勇敢な虎をモチーフにしており、虎の目玉には玉眼(色ガラス)を使用。口蓋を紅色で彩色、
左下には、長八氏の画号「乾道」の落款がある正真正銘の彼の作品になります。

2階南西8畳間:
先述の写真になりますが、外観で3つの鎧窓があったと思いますが、そのうち一番右側の窓のみが火灯窓にあるもので、他の部分は、ダミーなります。
なお、火灯窓部分の窓は開閉が行なうことができ、採光を行えます。

2階北西10畳間:
この4部屋は各部屋とも障子で締め切ることができ、各部屋とも独立して使用が可能です。
また、床の間脇の棚の壁は上部に上げることができ、隠し戸棚になっています。
なお、写真では分かり辛いですが、床の間にはゴザが敷いてあり、左側の柱を中心に4部屋とも仕切られています。

2階龍の間:
天井部分には龍の漆喰鏝絵が描かれています。
そのため「龍の間」と呼ばれています。
また、アーチ状に開けられた漆喰塗壁で仕切られ、壁や天井も白く塗られていることから、他の部屋よりもさらに洋風の要素が濃い部屋になっています。

2階次の間:
床の間の床材は黒柿を使用。
また。その部分のグレーの壁に関しては、絞り模様の漆喰壁になっており、これは左官材料の持つ特性を生かした優れた技法が用いられています。
なお、天井の鉾絵に関しては、三枝の松が茂り、中央を竹で囲んだ円の中に梅があしらわれた…
松竹梅の漆喰鏝絵になります。
※しぼり壁:
当時、粋とされていた鼠色の漆喰を用いて、絞り模様があしらわれています。
左官材料の特性を生かし、壁面が湿って居r津状態で、薄い布をかぶせ、つまんで描く非常に優れた技法になっています。
光の加減で壁面の肌合いが変化します。

2階踊り場:
まず、右側のアクリル板で保護されたのは、竣工当時からホンゲンカンに掲げられていたものです。
また、左側の窓から、ナカノマに光が差し、仏壇に光が入る仕掛けになっています。

北土蔵:
外壁は黒漆喰塗とナマコ壁でできています。
1階の南面には医師団と戸口が2か所設けられ、2階部分は南面に小庇を付けた小窓が2つも受けられ、内部は壁で仕切られ東側を味噌蔵、西側を米蔵として使用。
松城家の中では最も標準的な土蔵になっています。

【編集後記】
松城家住宅に関しては、その情報は以前から認識していたものの、なかなか足が伸びず、今回の掲載になりました。
行ってみた感想として、非常に趣深い建造物…
また修善寺を起点として、松崎にも数多くの建造物が遺されているので、そちらもぜひ訪問したいと感じます。

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