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わが心の近代建築Vol.38 旧篠原家住宅(栃木県宇都宮市/JR宇都宮駅)

みなさん、こんにちわ。
今回は栃木県宇都宮市から、町屋建築の旧篠原家住宅について記載しますが、宇都宮について記載すると…
宇都宮は栃木県のほぼ中央に位置し、東西ではJR宇都宮駅と東武宇都宮駅、南北では二荒山神社と宇都宮城址公園の間に広がる付近を中心に構成され、古くから市内には古墳が作られ、豪族たちがその地を統治。

笹塚古墳【Wikipediaより転載】

平安時代には「二荒山神社」が造営、この地の守り神とされて門前が発展。平安末期から安土桃山時代までの400年間を二荒山神社の社務職を務めた宇都宮氏がこの地を納めました。

宇都宮二荒山神社【Wikipediaより転載】

江戸期になると、宇都宮の地は有力な譜代大名が統治。日光道中と奥州道中が行きかう要衝として、徳川将軍家や参勤交代の大名ら、多くの人々が行き交い、ますます発展。

「日光街道と奥州街道の追分」宇陽略記(1864)【宇都宮市歴史文化資源活用推進協議会「宇都宮の歴史と文化財」より転載】

また、穀物・酒・醤油 ・塩・呉服・古着・荒物 ものなどの日常品を 扱う商人。大工・紺屋・鍛冶屋などの職人も在住し、江戸末期には豪商として江戸に出店する者も出現します。しかし、戊辰戦争では新政府軍側についた宇都宮城を幕府軍が襲撃、宇都宮の町は焼け野原になります。

戊辰役宇都宮城攻防図(宇都宮市 曹洞宗光明寺蔵)

が、1884年に県庁が移転し県都として発展。また、1904年の日露戦争では、市内にも師団誘致運動があり、第14師団の駐屯が決定、のちに軍需工場なども整備されます。

紙本淡彩県庁新設祝賀之図(菊地愛山)【宇都宮市歴史文化資源活用推進協議会 「宇都宮の歴史と文化財」より転載】

しかし、再度戦禍を宇都宮の町を襲い、大東亜戦争では宇都宮も空襲の標的になり1945年7月12日の宇都宮大空襲では東武宇都宮駅~JR宇都宮駅周囲は焼け野原に。

東武宇都宮駅周辺の空襲の状況【旧篠原家住宅展示パネルより転載】

戦後、宇都宮はいち早く復興。
特に1960年代には宇都宮工業団地が造成し70社の工場の誘致に成功。また、工業都市に発展するなか、東北自動車道などの交通網の発展、鉄道では東北新幹線の開通など交通の要衝としても発展。2024年では50万人を超える北関東最大の都市に君臨します。

なお、今回紹介する篠原家は、宇都宮を代表する豪商で、19世紀初めころより、奥州j街道口の現在の場所で屋号を「堺友」と謳い醤油業・肥料業を運営。
なお現在の建物は1885年に建立。
先述のように1945年に宇都宮大空襲に見舞われ、町の大半が消失。篠原家でも、醤油醸造蔵や米蔵を失うものの、母屋部分と3棟の蔵は無事で、周囲におにぎりを配布するなど、災害拠点として活躍。
その大きな要因として…
  ・大谷石が邸宅に多数使用されていた
  ・漆喰で徹底的な防火対策が施されていた
ことが考えられています。
なお、邸宅は1964年の旧奥州街道拡張工事で7m曳家され1995年に宇都宮市有形文化財に選定され、1998年より一般公開。
2000年には現存する主屋部分が国指定重要文化財にされ今日に至ります。

【たてものメモ】
旧篠原家住宅
●竣工:1895年
●文化財指定:
 ・主屋・新蔵:国指定重要文化財
 ・文庫蔵・石蔵:宇都宮市指定文化財 
●写真撮影:可
●入館料:¥100
●交通アクセス:JR「宇都宮」駅より徒歩3分
●参考文献:
・国指定重要文化財「旧篠原家住宅」解説シート1~8
・宇都宮市歴史文化資源活用推進協議会「宇都宮の歴史と文化財」
など

外観:
側面部分の1階は厚さ約8cmに削った大谷石を貼り、大きな鉄釘で止め、目地や釘の頭を黒漆喰で塗装。
2階部分の壁は、もともとは黒漆喰が塗られていたものを、1964年の道路拡張工事の際に補修せず、鉄板を貼り黒く塗装。
屋根は切妻屋根の桟瓦葺き。野地板の上に杉皮、土の順に載せて桟瓦を載せています。
また、棟積みは熨斗瓦を2段に積み、冠瓦で押さえています。
症ん面部分は1階部分が旧篠原家住宅 側面写真:側面部分は、厚さ約8cmに削った大谷石を梁、大きな鉄釘で止め、目地や釘の頭を黒漆喰で塗ったものになっています。また1階部分の扉は格子戸で、店を開けている際には、すべて取り払われ、2階部分は3連の観音開きの窓になっています。

鬼瓦:
平瓦と漆喰で土台を作って大きな鬼瓦を置き、鬼瓦を大きく見せるため漆喰による陰盛りがなされ、軒丸瓦には屋号である「サ」の文字が描かれ、家紋の「丸に木瓜」が描かれています。

東廊下側部分:
庭園に接する部分。
1階部分には大谷石を貼り、1階部分には板張りの雨戸があるものの、火災の際には漆喰塗の雨戸を入れられるようになっており、そのための溝が地面と鴨居に掘られ、2階部分は板張りの戸の表面に薄く漆喰を塗り、その上に銅板を貼って防火に備えていました。

平面図:
1階は52坪、2階は48坪、合計で100坪からなる非常に大きな建造物で、優良な建材を多数使用しています。
また、現在は撤去されましたが、東側の6畳間階段部分には、新蔵に行くための外廊下が設えてありました。
2階部分には、現在主流になった中廊下を見ることができます

ドマからチョウバとチャノマを臨む:
旧篠原家住宅は、醤油醸造業などを営んでいたため、入り口部分が、土間になっています。
また、帳場の部分の上がり框はサクラ材が使用されています。

1階チョウバ:
帳場格子を配しており、その後ろはケヤキ製の一枚戸を用いた押入になり。、帳場格子後ろ部分のみ鍵がかかる仕組みになっており、そちらに重要書類などを保管され、防犯上、押し入れ部分を開閉する際に音が鳴る仕組みになっています。
また、チャノマとの境部分の障子は季節により障子を夏障子に変更することもできます。

復元された帳場:
かつての帳場を復元したもの。
三方囲いの帳場格子を置き、その中で番頭が金銭の水納や帳簿を付けて業務を行い、格子の中には硯箱やソロバン、ダイヤル式の電話などが置かれ、当時の様子を偲ぶことができます。

チョウバの神棚:
神棚部分は竣工当時からガラス扉が使用。御札や縁起物が飾られていました。

1階チャノマ:
11枚の畳と箱階段から構成。
主に家族団らんや食事の際に使用された部屋で、天井板はケヤキ製で、昭和初期まで使用していたガス灯の栓が遺されています。

1階チャノマの箱階段:
すべてケヤキ材で構成されており、側面の引き出しは、収納家具としての側面もあります。
引き出しの部分には獅子がかたどられ、箱階段自体が精巧な3段構成になっており作られてから100年以上経過している今も、全く狂いはありません。

1階大黒柱:
1尺5寸角(約45㎝)のケヤキ製の大黒柱で高さは11mを超え、2階座敷の床柱を兼ねて、その上に伸び、棟木まで達しています。
旧篠原家の大黒柱は太さ・長さともに、家を支える中心的な存在になり、大黒柱と梁が接する部分には金属製の補強金具が使用されています。

天井部分は人見梁に2階の梁をかけて半間ごとに根太梁をかけた根太天井になっています。
2階の床(ゆか)が1階の天井を兼ね、2階床下の梁が見えることから、見世梁などともいわれ、簡素な中にも豪壮な趣を醸し出しています。
この方式が採用された理由として、天井の高さを高く保つなどの利点があります。また、梁部分にはアカマツ材が使用されています。

1階ブツマ:
10畳間の篠原家代々の先祖がまつられた部屋で、畳には縁付きのものが使用。年寄夫婦の寝室として使用されていました。床の間は1間半のケヤキ材、床柱にはキリ材が使用されています。
天井部分にはヒノキ材を使用しています。

ブツマの仏壇:
精巧な組子細工を施し、その下部には、薄い板を家紋(丸に木瓜)に切り抜き、黒漆を塗っています。
ちなみに篠原家の宗派は浄土宗で、菩提寺は慈光寺になっています。

1階東廊下:
長さ9mの廊下で庭園に面しています。
廊下部分の柱はケヤキ、床部分には幅広のケヤキ材を惜しみなく使用。雨戸は9枚で戸締めされ、戸袋・庇部分は銅板が使用されていたものの戦時供出により、トタンに変更されました。

1階ダイドコロ:
この部分は、創建当時は使用人たちの休憩室に使用され、給仕は別棟の炊事場で行われていたものの、1945年の空襲で焼失。
そののち、この部分を台所に改造。
また、掘りごたつ部分はあまり使用されることなく、正月に餅を焼く際に使用されたとのこと。
また、この部屋の箱階段はヒノキ製で、2階の部屋を掃除する際に使用されたとのこと。なお、高さが邸宅に合っておらず、他の部分で使用されたものを再利用されたと考えられます。

1階6畳間Ⅰ:
この部屋には、2階に行くための急な階段と、(現在は撤去されたものの)新蔵に行くための渡り廊下がありました。
なお、階段の下は収納になっており、金庫が置かれ、普段は襖で見えないように隠されていました。
なお、この部屋は女中さんたちの寝室として使用さえました。

1階6畳間Ⅰの金庫:
この金庫は、旧篠原家住宅が竣功したころに備え付けられたもので、金庫を開けると扉の裏には「篠原家」の文字と「丸に木瓜」の家紋が描かれ、金庫の番号は、主人のみが知り、家族といえども勝手に開けることはできませんでした。

1階「6畳間Ⅱ」:
篠原家は代々、醤油構造業や肥料販売を行った家柄で、かつて電話が置かれた跡や土間を伝って、帳場に行けたと同時、障子と襖を閉めれば密閉された室内になることから、商談などにも利用されました。

2階中廊下:
1階チャノマの箱階段部分を上がると、2階に中廊下になります。写真の左側部分は空洞になっており、その理由として真下に神棚があり、神様の頭の上を踏まないために設らえたもの。これは竣功当時からのものではなく、大正期の改築で設けられました。

2階10畳間:
報酬街道沿いに面した部屋で、若夫婦の寝室に充てられました。

2階10畳間の小引き出し:
良質の桐材で作られた作られた小箪笥。
身の回りの物をしまうのに用いられ、栃木県田沼町で作られたものです。

2階10畳間の布団箪笥:
小箪笥と同じく、栃木県田沼町で作成されたもの。
布団をしまう箪笥で、嫁入り道具として持ってこられた物で良質な桐材で作成されました。

2階客間:
10畳間で、ザシキに次ぐ部屋になり、少人数の来客時などに使用されました。
床の間は奥行き半間(0.9m)、幅1間半(2.7m)のケヤキ材を使用。畳は縁付畳が使用。床の間前には1間半幅の特別な畳が使用され、少人数の来客時以外にも、日露戦争時に視察に来た宮様が宿泊された部屋でもあります。

2階客間の地袋:
江戸時代末期~明治期に活躍した狩野派の画家、菊池愛山氏の作品になります。氏は宇都宮市茂登町(現在の大寛町)で生まれ、明治39年に亡くなりますが、人物画や花鳥画を得意とし、この鯉の絵は氏が78歳の時の作品になります。

2階客間/児玉果停の書:
明治時代の南画家の児玉果停の作品。
氏は人物画などを得意としていました。

2階ザシキ:
篠原家で最も格式の高い部屋になり、20畳の広さがあり、婚礼やお祝い事などの接客の場として使用されした。座敷の「床の間」は幅2間半(4.5m)あり、ケヤキ材の一枚物。
床脇部分もケヤキの1枚板で、通し棚になっており下には地袋が付けられています。床前には、床の間に併せ、2間半の畳を使用。
中でも注目したいのが床柱で1辺が1尺2寸5分(約38㎝)もあり、1階の大黒柱から伸びており、棟木まで達する11mを超えるものになっています。
なお、天井板、はケヤキの一枚板で作られ、竿縁もケヤキの1本物です。

2階ザシキの照明:
この照明器具は、昭和初期につけられたもので、東廊下部分や客間にも同じものを使用。
同様のものが神奈川県箱根にある富士屋ホテルの本館客室に遺されており、現代のものとは違った美しさを出しています。

2階ザシキの障子:
枠は黒漆塗りで、桟部分は面取りがされ、各市にの高さを感じさせます。また、東廊下部分の敷居と鴨居は長さ4間(7.2m)ありますが、ケヤキの1本物でできています。

2階東廊下:
廊下の床板は檜製。客間の東側に巾半間、長さ8間(約14.4m)のものになります。4間の長さの板を2つ併せて8間にしています。
また、ガラス戸は当初からのものではなく、昭和初期ごろ、生活の変化に合わせてつけられたもので、室内外のバランスを崩さないデザインのものが採用され、当時の豪商の財力と見識の高さを今日に伝えています。

庭園:
庭園部分は、現在の物よりもっと広く、2段に作られていましたが、1964年の道路拡張により、東側に家を約7m曳家したため、広さが半分になりました。
中央の石灯篭は、御影石製で笠木灯籠と呼ばれる形。
なお、笠や宝珠の形から、江戸末期~明治初期のものと判断さえrます。

蔵:
奥側は文庫蔵で、一見すると大谷石製に見えますが木製で、木を組んだものに竹を巻き付け土を塗り、大谷石を貼ったもので
その規模は…
・桁行:4間(約7.5m)
・梁間:2間半(4.6m)
といった畳20畳分の大きさ。
高さは約7.1mにも及びます。
ただ、雨漏りがひどく、一度解体の後、シロアリ被害対策などの保存のための修繕工事を平成14~15年、約2年かけて行い、使用可能な木材などを極力使用して、建物の価値を損なわないように復原ざれました。

文庫蔵の扉:
鉄製の扉になっています。

文庫蔵1階:
この部分では主に生活用具などを保管しました。

文庫蔵2階:
こちらでは主に衣類や書画、骨董などを保管しました。

文庫蔵2階の梁:
この部分の記載から、嘉永4年(1857)年の江戸末期に作成されたことが証明されています。

【編集後記】
この邸宅に関しては、最初旅行した際には、何の変哲のない町屋建築と素通りしてしまいましたが、調べれば調べるほど、すさまじい建物と発覚‼
即座に、この建物を見たいがために再訪問し、ただ感動した次第でした。
そうした意味で、非常に思い入れ深い建物の一つになりました。

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