人生の最後に笑顔を与えるサービス / 無形の幸せわカネで買う
「人生の最後。笑って死ねるかどうかが人の価値だ」
それは極論ではあるが、ある意味、正しい。
死の直前。生の灯火が消え去る前、その前にはなにも取り繕れない。
映画だってそうだろう? 最後の最後、ハッピーエンドか、バッドエンドかで、その映画がどういう映画かが、決まる。
映画だったならばバッドエンドでも、面白みがあるかもしれない。だが、こと人生において、それが自分の人生だったならばハッピーエンドを望むだろう。
そのために人はなにかをして、なにかを成し、生き続けて、終着にいたるのだ。
ーーいい人生だった。
男は、生の終わりを感じながら、文字通りの走馬灯をみる。
ここに至るまでさまざまなことがあった。しかし、もはやそれも懐かしい。
多くの苦労を重ねた。しかし、それももはや過ぎ去ったこと。
いまではいい思い出だ。
こうして病室で迎える最後だが、恐怖はない。
自分は運が良かった。いや、恵まれていた。
妻とは行き違いもあったが、最後には和解できた。息子たちも不出来な父だったろうに、尊敬してくれて、見舞いに来てくれている。
財を成した。しかし、それが人生にとってなんだというのだ。
あの世には金は持っていけない。
人生で知り合った人たちが、自分の最後が近いのを知って、会いに来てくれた。
恵まれている。
この無形の幸せこそが、人生で追い求めるべきものなのだろう。
男はそう、噛み締める。
自分の人生はーーーー幸せだった。
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「サービス、満足いただけているようですね。
「ああ、きっちりと幸福感も感じてくれているようだ」
男が幸福そうに眠るのを、男たちはディスプレイ越しに見ていた。
そして、別のモニターに映る数字を見ながら満足げに語り合う。
数字は男の幸福度をーー脳内状態をモニタリングして数値化したものだった。
男は笑みを浮かべていた。しかし、目元は見えない。
その顔にはゴーグルがつけられていた。
そこに映し出されるのは、皆が優しく接してくれる映像だ。
映像とはいえ、全ては現実味を持って体感できる。
もはやそこに現実と虚構の境は不明瞭だ。そして、映し出される映像は彼の記憶を元に作られている。
彼が望むならば、それが現実と思えるだろうクオリティと現実味。
現実の男には、誰もいなかった。
妻とは離別し、子供たちからも愛想を尽かされた。友人の多くは彼の傲慢な態度に辟易し、離れていった。
彼と関係を持つ者は誰も彼とプライベートを共にしなかった。
誰も、いなかった。
しかし、金はあった。金しかなかった。
だからこのサービスを使った。
そして提供元は彼に、幸福な最後を約束した。
たとえそれが虚構だとして。
男は、幸せに死にたかったのだ。