ルッキズムの極地/外見至上主義の飽和と崩壊と人の性根
時代が進み、外見至上主義ーールッキズムは絶えた。
いや、突き進みすぎて滅んだ、というべきか。
美容整形の普及や廉価化、SNSでの他者との比較に常に晒され続ける社会は、社会運動がルッキズム排除を叫ぶ中でも進んだ。
ルッキズム廃絶を目指す人達が一般の”美”的感覚まで排除したことで、反発を招いたのも一つの遠因だったろう。
しかし、ルッキズムを否定する口で、人々は美的な欲求や行動を求めた。
他者の美しくなる権利は否定しつつも、自分自身が美しくなることには貪欲だった。
そして、美しくなった自分への承認は注いだ額に利子がついて、肥大していった。
しかし、その美しさは大衆が求める美しさだった。
その結果、皆が求めるものが同じだった。
結果、どうなったか。
美麗に整った、凡庸な顔が街中にずらりと並ぶ結果になった。
同じ目に同じ鼻に同じ口、同じ輪郭に同じ髪型、同じ服装。
その顔が美しく、求められたのは希少だったからだ。
大金を積まないと乗れない車がカッコいいのは、その価格があればこそだ。
誰も彼もが同じ車を乗れるならば、その車の価値は暴落する。
さらに拡張現実の普及が追い打ちをかけた。
もはや誰もがなりたい顔に一瞬で、メスを入れることなく慣れる「夢」のような社会だ。
結果、前述した通り、同じような似たような顔が並ぶ結果となり、
結果、ルッキズムのような価値観は衰退した。
人々は美しさに価値を見失った。
そして、誰もが自分のなりたい姿に自由になれる世界が訪れた。
しかし、
「アイツラの顔、マジありえない」
「ああいう顔をしている奴らはロクなもんじゃない」
「見ろよ、あれ。ひと世代前の顔面だ」
「あの目の色は敵だ」
人々は価値観を外見に投影した。
そして、近しい価値観の人々は近しい外見や顔つきをするようになり、集団ができた。
まるで人種ごとに顔つきや肌の色が違い、言語が違うように、
その人を表す外見を自らするようになった結果、いくつかに収斂した。
そして、その修練された姿形で人は判断する。
ルッキズムは絶えた。
しかし、差別と偏見は絶えなかった。
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