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幸田露伴の「努力論⑧ 四季と一身と」

四季と一身と

 人はその内より之をいうときは、天地をも覆い尽くし古今をも包括しているものである。天地は広大であるが人の心の中のものに過ぎない。古今は悠久であるがやはり人の心の中に存在するものである。人の心は一切を容れて余りあるものである。人ほど大なるものは無いのである。しかしその外より之をいうときは、人が天地の間に在るのは大海の一滴、大沙漠の一砂粒のようなものであり、また人が古今の間に在るのは、大空の一塵、大河に浮ぶ一泡のようなものである。人は空間と時間との中の一ツの微小なものに過ぎないのである。
 その内よりいうことはしないで、その外よりいう方について一言すれば、人すでに空間及び時間中に包有される一微小の物である以上は、我を包有するところの空間や時間の、大きな威力勢力の為に支配されるのを免れることは出来ないので、即ちその測りがたい大威力大勢力の左右するところとなっているのである。日本に生れたものは自然に日本語を用い、日本人の性情を持ち日本人の習慣に従っているのが現実である。ロシアに生れたものは自然にロシア語を用い、ロシア人の性情を持ちロシア人の習慣に従っているのが現実である。これ等は明らかに人が空間の威勢に左右されていることを語っているのである。
 空間の人に対することは此処では語らない。時間が人に対してその威勢を加えていることも、甚だ大きなものである。鎌倉時代の人は、自然に鎌倉時代の言語風俗習慣を持ち、また同じ時期の思想や感情を持っており、奈良朝時代の人は、自然に奈良朝時代の言語風俗習慣を持ち、また同じ時期の思想や感情を持っていたのである。人々個々の遺伝や特質によって差異があるのは勿論であるが、時代の威力勢力があらゆる人々に或る色を与えているということは誰しも認め得る事実である。このような一時期一時代というやや長い時間の威力勢力が人に及ぼすことは、これも今説(と)こうとする点では無いので措くとして、ここに言おうとするところは、一年の四季が人に及ぼす威力勢力と、かつ人がその威力勢力に対して、如何に応答し如何にこれを利用すべきか、ということである。
 一年の四季が人の一身に及ぼすところの有るのは、大きな空間や長い時間がその威力勢力を人に影響するのと同じ理屈である。一時代は一時代でその威勢を持ち、十年二十年は十年二十年でその威勢を持っている。それと同様に一年は短い時間では有るけれども、尚かつ一年だけの威勢を持ち、そしてその勢力を人の上に加えるのである。尚(なお)一層詳しく言えば、春は春の威勢を持ちこれを人の上に加え、夏は夏の威勢を持ちこれを人の上に加え、秋は秋、冬は冬の威勢を持ちこれを人に加えているのである。
 人間と季節との関係は、昔から感覚の鋭敏な詩人や歌人等が十二分にこれを認めているところである。私が一々例証を挙げる迄もなく、少なくとも詩歌を理解する能力を持つ者は若(も)し春の詩歌を読んだならば、明らかにその春の詩歌の中に、春の威勢が如何に人間に影響したかということを表す辞句を容易に見出すだろう。秋の詩歌を味わったならば、明らかにその詩歌の中に秋の威勢が人間に影響したことを表す辞句を容易に見出すだろう。昔の四季の詩歌は言い換えれば殆んど皆四季の威勢が人間に影響する状態を吟詠しているのが、即ち四季の詩歌であると云っても宜しいくらいである。
 詩歌以外に於いても遠い昔から、四季が人間に及ぼすところのものを、ズバリと言い切っているものは決して少なくない。そのことについて断片零句を拾って証明するならば、人文が生まれて以来の多くの文字は皆この事の証拠とすべきものであろう。もし、その比較的詳細にかつ適切にかかる事を説いたものを求めるならば、『経書』以外の古いものでは『呂覧』などは最も詳しく説いているものである。古代の人の思想には天時が人事に関係が有るばかりでなく、人事が天時にも関係影響すると考えていたことは、『呂覧』が極めて明らかに表わしている。いやそれどころではない殷(中国古代の王朝)の湯王が自分を責めた語などを見ても、天と人とは甚だ緊密に関係していると古人が認めていた事が窺われる。これ等の事を考証するのが本意ではないから今は論じないが、かかる事例や証拠は少なくとも多少でも昔を知る者が、これを引用することは難しいことではない。
 昔は昔である。多く云うに価(あたい)しないとしても宜しい。直ちに今の我々の上について、我々の実際に感じ真実に知るところを基として語ろう。我々の目で見て心で知るところに就いて一言してみようか。我々はやはり四季が我々に及ぼす影響の少なくないことを認めない訳にはいかないのである。
 鉱物界には生理が有るか無いか知らないが、先ず常識の考え得るところでは生理は無いようで、その在るところは物理だけのようである。植物界には意識は有るか無いか不明であるが、その存在するところは生理と物理とで、常識の判断では心理は無いようである。舍利(しゃり)が子を産むの、柘榴石が生長するの、黄玉が徐々に老いてその色を失うのということは、事実が有るにしてもそれは物理がそうさせるので生理の働きでは無いようである。阿迦佗樹(あかだじゅ)に感覚があるの、フライトラップが自ら食物を取るの、含羞草(おじぎそう)が感情的に動くの、或る植物が徐々に自己の所在地を変更して歩行するような観を為すのと云ったところで、それは物理生理がそうさせるので心理の働きでは無いようである。人と動物とに至っては物理、生理、心理が備わっているのである。
 それなので、鉱物界の物ですら四季の影響を受けている。即ち鉱物体の隙間に在る水分は、冬の寒気に遇って氷となり膨張し、春の暖気に会して融けて消え去るために、崩壊砕解の作用が行われるのである。或いはまた夏の烈日や霖雨が酸化作用を促して、秋の暴風や厳霜が力学的熱学的に働く為に、断えず変化が起こされているのである。また植物は鉱物に比べていよいよ多く四季の影響を受けている。太陽の光線の量と熱が異なる、それ等の事情の為に物理の作用を受けるのは勿論の事、植物自身が生理作用を持つだけに物理作用が生理作用に影響して、生理状態が季節と共に変遷し、そしてその繁栄と衰枯の始終を遂げるのである。春に花咲き、夏に茂り、秋に実り、冬に眠るのは、樹木の多数が現わすところの四季の影響である。春に生じ、夏は成長し、秋には自然に後に伝わる子を遺し、冬には自然に生活の閉止を現わすのが、穀物や野菜類の多数が示すところの四季の影響である。このような自然の有様は一切の人の認め識っているところで、そしてこの自然の情勢を利用して、春は播種して之を生じさせ、夏は耕耘施肥してその成長を助け、秋は収穫してその功を収めるのである。
 これが穀物や野菜類に対しての大概の道である。また春には花を求め、夏には葉を取り、秋には実を収め、幾春秋を経た後には材を取るのである。これが樹木に対して無理のない処理の大概の道である。人は植物と四季との関係を明白に知っている。そしてその智識によって巧みにその関係を利用する。それと同様に家畜やその他の動物等に対しても、四季が家畜やその他の動物等に及ぼす関係を明知して、そしてその関係を利用するのに拙くない。蜂から蜜を収め、蚕(かいこ)から繭を収め、鶏から卵を収め、家畜からその仔を収めることについても、皆々季節によってこれを得ることを知っている。狂人でない限り季節が与えないものを得ようとはしないのである。
 これ等の道理に照らして考えたならば、内省の力を持つ人類は、自分が四季の作用をいかに受けているかを観察して、そしてその四季との関係を洞察して、その関係状態に順応して処すのが良いということに心づく筈である。人類は他の動物よりは確かに卓絶した有力な心理(意識)を持つ。その心理が有力であるだけそれだけ、四季の支配を受けることが他の動物ほど著明でなくて、心理の力だけで行動しているように見えるものである。動物は下等になれば下等になるだけそれだけ心理の力が弱くて、そして心理の力が弱ければ弱いだけ、著明に四季の支配を受けていることを現わしている。犬や馬のような高等動物は随分心理で行動する。海鼠(なまこ)や蛞蝓(なめくじ)はやはり心理で行動することも有るだろうが殆んど生理だけで行動しているようで、心理で行動しているところは我々の眼には上(のぼ)らないと云ってもよいくらいである。心理で行動することの多い者の行動はその一点頭一投足も、その動物自身の意志感情から点頭し投足するように見えて、自然がそうさせているようには見えないものである。特に人類は自意識が旺盛であるから、自分の行動はすべて自分が之を為すように感じていて、自然が之を為させているようには感じないのが常である。
 そこで人類は四季が人類に及ぼす影響を的確に知って、そして自分で之を利用するとか、之に順応するとかいうところまでにはなっていないように見える。もし植物や家畜に於いて、四季の作用することが甚大甚深でありかつその作用に順応し、または之を利用することが有理でかつ有益であることを認めたならば、人類もまた天地の外に立ち、日月の照らさないところに居るものでない以上は、他の動物や植物と同じく四季の作用を受けている道理で有るから、詳しく四季が我に作用する根源を考えて、之に順応し或いは之を利用するのが、有理の事であり有益の事ではないか。自意識が旺盛な為に一切が我から出るとしているのは、自分の掌(てのひら)で自分の眼を覆っているようなものではないか。人類が他物に比べて優秀なのは、疑いもなくその自意識の旺盛な点にも在るが、自意識が旺盛なだけで一切の事が完了してはいない。太陽の熱は、自意識の旺盛なものにも無意識のものにも同様に影響しているのである。四季の循環は、一切の物の上に平等に行われているのである。自意識が旺盛なままに、自然が我に加える根源のものの存在することを忘れているのは、観察の智識が完全ではないとしなければならない。試みに四季の循環が我々に及ぼすところのものを観察することに努めてみようか。
 春は草木の花を開かせ芽を抽(ひ)かせ、動物をその蟄伏(ちっぷく)の状態から活動の状態に移す。草木の花が開き芽を出すということは、明らかに草木の体内に於いて生活の働きが盛んになって、その栄養分である水気の類が毛根から吸収されて幹を上り枝に伝わりそして外に発するのだ、とも言い得ることを示している。換言すればまた太陽の温熱が加わったり、空気の湿度が異なって来たりする為に末端が刺激されて、そしてその為に水気等のものが促進されて上昇するとも言い得ることを示している。動物等が春に遇って次第に多く活動するようになるのはそもそも何に因るのであろうか。専門学者ではないので自説を詳述し確信することは困難であるが、要するに気温気湿の変化と地表の状態の変化とに基づくのが第一で、次にその摂取する食物の性能の差異に基づくのが第二の原因であろう。夏秋冬の三季に於ける植物動物が自然から受けるものも、また春と同じく皆太陽熱から起こる気温気湿等の空気状態、及びこれによって起きる地表の状態の差や食物の差等に基づくのであろう。
 人類は四季の為にどういう影響を受けるだろうか。春が来て風が和(やわ)らげば人もまた冬とは同じではない。春になれば人の顔にも花は咲くのである。この事は昔から人々も観察し得ていることである。黄ばみ黒ずんでいた人の顔は、紅色を帯びて来て次第に鮮やかに美しくなり、悴(かじか)み萎(しな)びて硬(こわ)ばったり亀裂したりしていた人の皮膚は、潤(うるお)い軟(やわ)らいで生気を増し、瑞々(みずみず)しく若くなって、しもやけ等も治(なお)り、筋肉は緊張し血量は増加したように見える。従って心理状態もまた冬期とは異なって、確かに発揚すること多く、退嬰すること少なく、家に籠るのを嫌い外出を喜ぶようになり、機械がするような労作には飽き易くなって、動物がするような意志あり感情ある仕事を為そうとする。着実な事よりは華麗(はなやか)な事に従いたがる。穏健な事よりは矯激な事を喜ぶ。理性に従うよりは感情に従いたがる。泣くよりは笑いたがる。愁えるよりは悦びたがる。勤めるよりは遊びたがる。青壮年男女に於いてはいわゆる春気が発動する。このようなことは春が人に及ぼす大概である。
 顔色が艶(つや)を増し、感情は和(なご)やかに、人が春に於いてこのようになるのは自意識に基づくのであろうか。それとも自然がそうさせるのか。疑いもなく意識だけには基づかないのである。春に於いて人の顔色が美しくなるのは、血液の充実に基づくのである。血液は何故に冬は減少し、春は充実するのであろう。この事実は寒暖計の水銀が直ちに示している。ゴム球(まり)の中の空気が明らかに教えている。水銀や空気が熱に遇えば膨張するように、同じ重量の血液にせよ温熱に遇えばその容積は膨張し増加して、同じ容器内では充実の観を生じて来る。春暖に際して人の皮下体内に血液が充実して、漲(みなぎ)り溢れるばかりの様相を生じ来る理由は決して唯一の理由ではなく複雑な理由から成立っているには違いないが、温熱を著しく感じるものは気体や液体であるから、血液が暖かな気候の影響を受けて人の体内に於いて膨張することは確かに有力な一原因に疑いない。そして血液容量の増加は、血圧即ち血管内壁を圧する力の増加を為すに疑いない。脳の中に於ける血量の減少と増加は明らかに心理作用に影響する。肢体に於ける血量の増加と現象も心理に影響する。飲酒・入浴・按摩等が心理に及ぼす影響は何人(なんびと)もこれを認めるところである。血液の滞りについては此処では論じない。すべて適度の血量増加即ち血圧増加は、心理に於ける陽性作用を為し、感情に於いては愉快・怡和(いわ)・興奮を現わし、理性に於いても同じくその影響を受けるに違いないが、感情の昂(たか)ぶりは却っていささかその働きが鈍(にぶ)らされる観を呈する。春の人に及ぼす影響は、その温暖という点から説いてもこのようなものがある。
 食物の変化が人に及ぼす影響もまた大きなもので、昔の人ですら「食は体を変える」と認めているくらいである。春に当たって人が新鮮な野菜・海草・野生草木の嫩葉(わかば)・新芽および軟幹等を取って食とすることが多いのは争えない事実であるが、これ等の食物中の或る物は疑いもなくその独特の作用を人に及ぼすに違いない。動物等が春に於いて著しく冬季に於けるのとその動作を異にする原因の中の有力な一件が食物の変化にあることは、家畜等に照らして明らかに知ることの出来ることである。緑色素を有する菜類、即ち菘(すずな)の類を与えなければ鶏は多く不活発に陥る。これに反して之を与えればその鶏冠(とさか)は著しく鮮紅または殷紅となりその行動は活発となるのである。人類も緑色素を有する野菜類を長く絶つ時は、憂悶に陥り血液病に罹るが、多く野菜を取れば血液は浄められ、憂悶は快活となり顔色は蒼黄(そうこう)より淡紅(たんこう)となる。これ等の普通食物でさえこうである。まして特異な効能を持つ植物に於いてはである。薬用草木として用いられる以外の草木、即ち普通食物として用いられる草木でも、その花を開いて芽を抽く時、即ち多くは春の時に当たっては、その効能は花又は嫩芽(わかめ)に蔵(ぞう)しがちのもので、例を挙げれば山椒や茶のように、その花や芽はその物の効能を全蔵しているものである。芳香ある花柚(はなゆず)や猛毒ある烏頭(うず)は春季には開花しないものであるけれども、同じく花時に於いてその芳香も猛毒もその花に蔵しているように、草木はその開花抽芽の時に当たっては、自体の性能精気を花や芽に蔵しているものである。そこで春の時に当たって我々が取る植物性の食事は、たとえ平凡なものでもその効能精気をもって我々に何等かの影響を与えることが少なくない。カラシ菜であるとかフキノトウやその茎であるとか、ミョウガ・ワラビ・ゼンマイ・ウド・ツクシ・よめ菜・ハマボウフウであるとか、タラの芽やサンショの芽であるとか、菜の莟(つぼみ)であるとか、タケノコであるとか、ミツバであるとか、ホーレンソウであるとか、花でも芽でもないがハルコシイタケであるとか、これ等のものはその性質に和平甘淡のものもあり、辛辣峻急のものもあるが、何れも多少の影響を生理上に及ぼし、延(ひ)いては心理上に及ぼすことであろう。茶の精気は老葉には少なく、その嫩葉に在る。嫩葉でも葉軸よりは葉尖(はさき)にある。烏頭(うず)は花ある時はその毒が根には乏しいくらいで、蝦夷人は花無く葉枯れた後になってその毒が根に帰するのを待って利用する。あぶら菜は平淡のものであるが、その莟を多く食えば人を興奮させる。イタドリの生長したのは食えるものでは無いが、その嫩茎(わかくき)を貪(むさぼ)り噛むと爽快を感じさせる。フキノトウはその苦味の故か知らないが確かに多少の薬効が有る。これ等の些細な事実を総合して考える時、草木の発花抽芽の季節である春に於ける植物性食事が、我々の生理上心理上に、比較的やや強い影響を与えることは見過ごせないことである。
 香気が我々を衝動する事も決して小さなことでは無い。沈(じん)・白檀(びゃくだん)・松脂(まつやに)等が我々に或る感を起させるのも、決して因襲習慣から来る連想によるものだけではあるまい。仏教の儀式には、沈・白檀等が用いられ、ユダヤ教の儀式にはその香炉から松脂の香が振り散らされる。これ等の香気は明らかに動物の生殖慾の亢昂時に成り立つところのジャ香(ジャコウジカより得られる香料)やショウ香(ノロジカより得られる香料)や、植物の交精時に発する薇薔花香・百合花香・菫花香・ヘリオトロープ花香・茉莉(ジャスミン)花香等とは異なったものである。物性異なれば反応もまた異なる。我々の感じが彼(かれ)に対する時と此(これ)に対する時と異なるのも、勢い自然とそうならざるを得ないものが有るからであろう。春の世界は冬に比べて大いに香りの有る世界だ。花が香りを発する。若芽や嫩葉が薫る、小溝の水垢も春は浮立って流れて、従ってその異様な香りがする。ハマボウフウの生えている砂地や、ツクシ、タンポポの丘の辺(ほとり)から、陽炎(かげろう)の立つ柔らかな日の光の下で種々の香りが蒸(かも)し出される。女はいよいよ女くさく男はいよいよ男臭くなる。腋臭(わきが)のある女や男はいよいよその奇臭を発して空気の純潔を乱す。食べ物の中でも植物性のものの多くは或いは愛賞すべく或いは嗜好すべき個々の香気を発するものが、冬季に於けるよりは比較して多い。
 およそこれ等の数件、即ち温暖が与える物理的の働きや、食物が与える生理的又は薬物学的の働きや、香気が与える心理的の働きや、これ等の事は皆春が我々に及ぼす明らかな事象である。尚この他にも研究すれば研究するに従って、春が大いに季節の流行という力を背景にして我々に迫るところは決して少なくないことを見出し得るだろう。このような諸種の力の衝動するところによって、我々は春に於いて春らしい心になるのである。ただ単に我々自身の心理で或る気持を持つのではないのである。春だけではない夏も秋も冬もまた同じである。我々が明らかに四季の影響を受けていることは例えば草木や動物と同様なのである。
 果してそうであるなら、我々は四季の我々に対して与えるところのものに順応して、我々自身を処置するのが至当でありかつまた至妙であるに違いない。
 このような道理で、我々は春が我々にどういうことをさせるのか、また夏や秋冬がどういうことをさせるのかを考察して、そして之に順応して、自身を処置するために或る調節を取って行きたいと考える。
 さて春夏は我々の肉体を発達成長させることが、秋冬に於けるよりも比較的に多く行われるようである。秋冬は心霊を発達成長させることが、春夏よりは多く行われるようである。春夏は四肢を多く働かす時は目に見えて四肢が発達する。秋冬は脳を多く働かす時は目に見えて脳が発達するようである。そして春夏に於いて体育に努めた人は秋冬に於いて容易に脳を発達させ得るようである。私はようであると言っている。也(なり)とは言っていない。しかしどうも私の観察の範囲では、そのように思える。で、春夏に当たって自然に逆らって余り肢体を働かさずに、余りに脳を働かすと、その人は脳の機能器質に疾患を起こすに至るようである。これは自然に逆行する為に生じるのではないだろうか。春分以後夏至以前にともすれば濫りに脳を使った人が、あたかもその時期に精神的疾患を発したり得たりするようである。或いは又甚だしい発作を為すようである。それは季節の力が最も盛んな時に当たってその季節に逆らったことを敢えてした結果が現われるのではあるまいか。これ等の事は少ない範囲の経験で確論する事は甚だ無思慮の事に属するが、各人は各人で内省的能力を持っているのであるから深く自分で考察したら良いと思う。私は各人が人と天との関係を考察して、そして適応して反しないように自分を処することを勧めることが、道理ある親切だと考えるのである。(努力論⑨につづく)

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