幸田露伴の「二宮尊徳⑥(小田原)」
天保七年の飢饉では、駿河・伊豆・相模の小田原領の民は困苦極めて甚だしく、草の根を掘り樹皮を噛むほどであったので、小田原侯は家臣を遣って先生を呼び戻されたが、先生は命令に従わず、「今この飢饉の時に当って此の地の民を救おうとして少しも暇の無い時に、私を召されるとは何としたこと、お尋ねの事があれば君侯自ら来られたい」と答えられたと云う。使者が怒って帰りその旨を報告したところ、「私が間違えた。詳しい事情も告げずに呼び返したのでそのように答えたのであろう、尤もである。お前は再び彼の地に行き、私の間違いであったと二宮に伝えて、その上で小田原領の民に飢餓が迫っているので早く帰って領民を救い、私の心労を軽くするよう頼むと伝えよ」と、侯が云われたので使者がまた桜町へ行き事情を伝えると、今度は先生は命令に従い、「この地が無事に終わり次第、直ちに帰える」旨を答えたので使者は悦んで帰った。
大久保侯はこの事を聞かれて大いに悦んで群臣を集め、「二宮の功績は明らかである、これを賞する道が無くてはならない、それ相当の俸禄(ほうろく)を与えて用人格で取り立てよ。」と命じられる。先生が野州の処置を終って直ちに出仕(しゅっし)すると、その時、侯は病気に罹り皆々は憂いていたが、侯は先生が来られたと聞いて大いに悦ばれ、「マズこれを賞し与えよ」と命じられ、いよいよ恩賞を与えられる前日に、麻上下(あさかみしも)を賜る。普通の者であれば恩賜の礼服などは悦んで受領すべきであるが、先生はこれを見るると顔色を変えて、「これは私には不要なもの、謹んで返上致します。今や数万の民が飢餓に苦しみ、そのため遥か遠地の私を呼び出され、これを救うことを命じられたので、取るものも取りあえず出仕致しました。出仕の暁には私にどのようにして民を救うかと問われて、私に米や粟を下し賜ると密かに思い居りしところ、このような麻上下を下さるとは思いもかけず、この礼服を寸断して飢えた民に与えたところで何の用が立ちましょう、このような無益な物を賜ろうとは思いも寄らないこと」と云われると、侯はこれを聞かれて、「私が間違えた。その物を二宮に与えることのないように」と云われる。サテまた役所が先生を呼び出すと先生は、「アア、私は今や一時(いっとき)も速く小田原領へ行かなければならないのに、私を役所へ呼んで私に碌位(ろくい・職位)を与えようとなさる、私一人が碌位を受けたとて民に何の益がある、与えるのであれば千両を与えるべきである、下されば直ちに飢民に分け与えるのに」と畏れることなく当然の論を述べられると、侯がこれをまた聞かれて、「二宮の云うところ一々尤もである。碌位を与えてはならない、今私の手元にある金千両を二宮に与えよ、領民を助けるための米粟は小田原城の倉を開くが善い、他に金も与えよ」と、一々先生の云われる通りに命じられたので、先生は直ちに小田原に行かれた。
大久保侯は病床で先生が飢民救助の為に小田原に行かれたことを聞かれて、「そうか、二宮は私の命(めい)を承知したか、病中の安心これに優るものは無い」と悦ばれたが、それからは日々に病気は重くなり、大久保侯は自ら回復の無いことを悟られて、辻・吉野・鵜沢(うざわ)・三幣(さんぺい)などと云う者たちを枕辺に呼び、「ここ何年も二宮を用いようとして果たさず、治国安民の事業を彼に任せること無く私の命(いのち)はここに尽きるが、お前等は私の志を継いで、心を合わせて孫を補佐し、二宮を用いて国を安泰にせよ」と懇々と遺言し、ついに御逝去されれた。
先生は大久保侯の命令を受けて、早くも小田原に着いて「君侯が私に窮民を救わせようと手元金千両を下され、米粟は小田原城の倉を開いて用に当てよと命じられた。速(すみ)やかに米倉を開かれよ」と、城代家老らが飢饉対策について様々な意見を出しあって評議しているところへ申し出ると、諸士等は一度は喜び一度は疑い、「倉庫を開く命令は未だ我々には下っていない。君命が無いのに倉を開けば後日に罰を受ける。この旨を早速江戸に確認し、その上で開くべき」などと云う者もあり、ゴタゴタして衆議は一致しない。先生はこの時大声で、「怪しからん人々の言葉である。今や民の命は旦夕(たんせき)に迫っている。君侯が病苦をも忘れ之を救おうと憂い思われているのに、各々方(おのおのがた)は君侯の為に図り民の為に図って仁であるべき職に在りながら、君意民情を他所(よそ)にして罰を恐れて空言空座するとは何事か。私が来なくてもマズ倉を開いて民の死を救い、その後に君侯に報告し罰を受けても可(よ)いではないか、であるのに私が君命を伝えても疑い、江戸に問い合わせるなどとは余りに手ぬるい、往き還りの間に民の死者はどれ程になろうか、それにもかかわらず皆々が罰を恐れて民の死を顧みないようでは、私が何を云おうとも無駄であろう、アア、評議の決するまでは皆々も断食して、苦しみを民と分ちたまえ、飽食して飢民を救うことを座上で空論し、一体何時決するのか。小生も断食し、この席に同席しよう、皆々も断食したまえ」と、雷の落ちるように諫められれば、流石に皆々も迷いを去って、即時倉を開くことに同意する。先生は直ちに倉庫に赴き、「早く倉を開け」と云うと、倉庫番が、「君命で無ければ開くことは出来ない」と云う。先生また、「ならば私と共に断食せよ」と大声で諭されれば遂に倉を開く。そこで先生は俵数(たわらかず)を調べて運送の手配を決め、終日終夜休まずに慈善心を尽くされたが、このようなところへ鵜沢某が来て大久保侯の逝去の報を伝えると、先生は大いに悲しみ歎き、「アア、私の道も窮まった。私が君侯に知遇を受けて以来十有余年、千辛万苦を尽して事業に当るが事半ばで逝去されるとは、この後誰と共にこの民を救えよう」と前後不覚に歎かれたが、「いたずらに歎いてどうしよう、今や飢饉で民は死生の時なのに怠けてはいられない、一刻も空費しないで君侯の意(おもい)を実現して民を救おう」と涙を拭きつつ巡回して、出来る限り力を尽せば、頼り来る飢民は四万三百九十余人、領内において飢寒で死ぬ者は無かったと云う。
大久保侯逝去の後は、小田原の老臣等は先君の命を奉じて、先生にお願いして領内に先生の仕法(しほう・分度の法)を行おうとした。そこで先生は根本から分度を決め出入を算定する大法を説き聞かせられたが、老臣等にその能力が無く、その法を行うことが出来ずに兎角(とかく)言い繕(つくろ)って、根本の改革を成さないで、ただ実際に先生の道を行うことを求めるので、先生も仕方なく一二の村に手を付けて例の通り、廃れた荒れ地を開拓する道を施されたが、先生の徳を慕う民なので成果も早く挙がって、徳風の及ぶところ七十二村に亘った。
しかし、先生がしばしば国元の分度の確立を尋ねられたが、家老たちは、「それは国の大本なので容易には決まらない」と云うばかりで、埒(らち)が明かない。遂に先生を桜町に飄然と帰させて仕舞った。領民等は先生が去られた理由も、去られた事も知らないで、ただ自分等の努力の足りないことを悔いていたが、先生が桜町へ帰られたと聞いて、諸村の村長や村民等はわざわざ桜町まで来て衰村復興のやり方を求めて止まない。そこで先生は日夜、教えられるのに修身斉家(しゅうしんせいか)の大道(身を修めて家を斉(とと)える正しい教え)を以てし、日々数千語を夫々の人物に応じて諭されたので、至誠の教えに感激し、寝食を忘れ涙を流す者も出て、この間に先生の教えを受けて故郷に帰り衰退を回復する者は少なく無かった。先生は遂にまた民を憐れむ情の止(や)みがたく、天保十年の冬に桜町を発って小田原に帰られたが、行く年の春にはまた桜町に帰られた。
小田原領内の民は先生の徳風に感化されて、七十二村の領民は競って業務に励み辛苦を忍び殊勝の行状が多いので、他国の者さえ徳風を感じて奮い立つ者も在ったりしたが、弘化三年になって、どうした事情か小田原では先君以来の仕法を廃して、領民が先生の許へ往来するのを禁じるなど不届きな処置が多く、流石の先生も不愉快を感じて、「アア、私の道もここに廃された。私は聞く、君子は天を恨まず人を恨まずと、私もまた誰を怨み誰を咎(とが)めよう、皆私の誠心が足らないからである。私の道の本地である小田原藩が私の道を廃したのに、私が他の地に行って私の道を立てれば、小田原の非を顕わすようで誠に心苦しい、今まで手掛けた諸地方の仕法も同時に廃して小田原の非を隠蔽しよう」と、先生は生涯に亘って理に明るく疑惑を抱くことの少ない人であったが、この時は困苦心労に疲れたのか、小田原の先君の墓に詣でてこのように告げられて、しばらく合掌され、どのような心を抱かれたのか、黙然として涙を流された。その後先生は生涯、心中常に小田原に安民の法が再び行われることを祈られたと云う。(⑦につづく)