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幸田露伴の讃「趣味」

趣味

 趣味は人の好みであり、見識であり、思想であり、気品であり、心である。心は常に淘汰して、気品は常に清く高く、思想は品があり汚れなく、見識には卑しいところが無く、好みにはこだわりが欲しい。趣味がむやみと低く浅いのは残念なことである。自ら植え付け、自ら養い、自ら育て上げ、自分の満足できる心の色が自然と花のように咲き出す趣味を、立派に栄えさせるべきである。
 目覚めるような華やかさを好む人があり、心引き締まるものを喜ぶ人があり、淡白なものを好む人があり、濃厚なものを愛おしく思う人があり、艶やかな美しさを愛する人があり、渋く古びたものを欲しがる人がある。人の趣味は人の顔の形が異なり人の声色が異なっているように、千差万別である。自分の基準で他人を正してはならず、他人の基準で自分を変えるのも難しい。趣味は人々の心の花から自然と出た色だからである。花を染めて本(もと)の色でない色を作り、花を洗って本(もと)の色でない色を作っても、それにどんな価値があろうか。だがしかし、それぞれの花は、植え付け、養い、育て上げ、充分に成長させ、その自然の色を春空や秋空の下に思う存分に豊かに放ち展開させるべきである。人々の趣味は、植え付け、養い、育て上げ、充分に成長させ、その自然にかもす趣味の香りを大らかに世に放ち香らせるべきである。
 足りないところを知るのは、満たすに到る道である。至らないことを知るのは、向上への道である。自分の趣味のまだ不十分なことを知り、まだ至らないことを悟る人は幸せである。その人の趣味は正に徐々に進み、次第に成長しようとしているのである。自分の趣味が幼稚であるのを反省しないで、自分が善いと思うものばかりをいつも善いと思い、自分の興味あるものをいつも興味深いとして、高みを目指そうともせず、卑しいところを改めようとしない人に幸せはない。その人の心の花はすでに石となって、生命を失っているからである。
 髪飾りには常に金を欲し、着物には常に絹を欲するのは、欲というものである。それは趣味というものではない。欲望は自分を縛り、そこに自由はない。趣味は自分を縛ることをしない。自由である。趣味が低くて欲が強いと、欲しいものが手に入らないときは、その苦悩は際限ない。趣味が高く欲薄ければ、欲しいものが手に入らなくても、別の楽しみは一ツ二ツに限らない。幽かに匂う嫁菜の花を髪飾りにしても、香りのない山吹の花を髪飾りにしても、白く膨らむ薔薇(バラ)の一輪を髪飾りにしても、赤い実の五ツ六ツある梅擬(ウメモドキ)を髪飾りにしても、その人の趣味から見て善(よし)とするものならば、木の端や竹の切れ端を髪飾りにしても、満足や喜びがあるに違いない。時や場所に応じて、いつでもどこでも喜びの気持ちを見出すことができるのは、趣味によるものである。欲しいものが得られないと苦しみ、遂げたい願いが遂げられなくて悩み、自分の心を自分の外にある物の奴隷にして、その物に支配されてしまうのは、欲望がそうさせるのである。欲望は人を苦しめ、趣味は人を活(い)かす。趣味の豊かな人は幸せである。
 自分に得るところがあって、他人に頼るところはない、これを徳という。心に楽しむことがあって、物事に煩わされることはない、これを趣味という。仮にも善い趣味を持つならば、荒涼凄寒の境涯にあっても、その趣味を楽しもうではないか。植え付け、養い、育て上げよう、人の趣味性。
(大正元年)

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