幸田露伴の小説「幽情記⑦ 泥人」
幽情記⑦ 泥人
趙孟頫(ちょうもうふ)、字(あざな・通称)は子昂(すこう)、号(ごう・名乗り)を松雪(しょうせつ)と云う。湖州の人である。宋に仕えて真州司戸参軍となり、宋が亡んでからは、至元二十三年に元に仕えて五代の帝の優遇を得て、至治元年に死去し魏国公を追封される。書を能くし、画を能くし、音楽に通じ、詩詞に巧みで、文を作れば人を動かし、政治に携われば有能で、博学多能、聡明慧敏、まことに世にも稀な人であった。それなので、世祖クビライのために詔(みことのり)の下書きをした時には、クビライに「朕の心が言おうとするところそのままである」と嘆賞させ、書画で天下に名が知られるとインドの僧が千里の道を遠いとしないでその墨跡を求めて来る。史官の楊載(ようさい)と云う者が、「孟頫の才能は書画の為に覆われ隠されている。その書画を知る者はその文章を知らず、その文章を知る者はその経済の学を知らない」と云えば、人は之を尤もな言であるとする。趙孟頫の才能の大きさが分かる。刑部に於いて至元鈔や中統鈔の紙幣の事で論争して屈しなかったように、また、奉御(ほうぎょ)の徹里(てつり)を勉励して丞相の桑哥(そうが)を弾劾させたように、実に文筆だけの人ではなかったことが分かる。仁宗に「孟頫は操履純正」と評されたことを見れば、才能ばかりでなく心掛けも行いも純正で、また初めて世祖(クビライ)に見(まみ)えた時に、その優れた風采は溌剌として殆んど神仙中の人のようだったので、世祖はこれを見て喜び、右丞の葉李の上座に座を与え給われたと言えば、その風姿の立派なことが分かるだろう。才あり、学あり、識あり、徳あり、加えて家柄も貴く、風采も美(よ)く、寿命も長く、官位も高く、多事多難な世に在って大した憂き目にも遇わず、死んでからは、書き残しの文章の切れ端までもが子昂の筆の跡だと貴重がられ、生きては皇帝に名で呼ばれずに字(あざな)の子昂で呼ばれるまでにもてなされた。この人ほどの福人は稀である。
このような人であるが、二つの朝廷に仕えたことで、後世の人は之を悦ばない。水戸の藤田東湖は若年の時に子昂の書を学んだが、成長して趙子昂の人物を知って、子昂を学んだ事を悦ばなかったという。東湖の若い頃の書は殆んど子昂に似ていて、後のものにも猶幽かに子昂のおもかげを留めるが、その勁抜な筆致は機敏な文章に適しているように見える。東湖が子昂の帖を机から遠ざけたということは、東湖の事としては疑わしい。学ぶなら学べば善いのである。捨てるなら捨てれば善いのである。書は心の画である。水戸の藤田東湖は、恐らくそのようなことはしなかったであろう。
明末から清初めに、陽曲の人で、傅山(ふざん)、字は青主(せいしゅ)、朱衣道人と名乗る人がいた。傅山の在世の有様は殆んど子昂の在世のようである。ただ子昂は宋と元との間に在り、傅山は明と清の間に在った違いがあるだけである。傅山もまた博学多能な人で、医を能くし、画に巧みで、金石彫刻の道にもその精力を注いだと云う。もとより書を能くし、大小の篆書(てんしょ)や隷書はもとより、そのほか精巧でないものは無い。この人は嘗て自身の書を語って云う。「若い時に晋や唐の人の楷書を学んだが、皆真似ることができなかった。子昂の香山の墨跡を得て、その円転流麗なのを愛したが、少し之を学んだところ真率(しんそつ)なところから逸れるようになった。そこで之を愧(は)じて考えるに、例えば聖人君子を学ぶ者は常に近づき難い感を覚えるが、降って匪人(ひじん・良くない仲間)と遊べば、日々に物足りなさを感じるようなことで、これは心構えが悪くなって、それによって行動も悪くなるからだと気付いた。よって之を棄て去った。」と、また顔真卿を学んで云う、「書を学ぶには、拙であっても巧であってはいけない、醜であっても媚であってはいけない、支離であっても軽滑であってはいけない、按排することなく真率であれ」と、傅山は子昂の書を軽薄で飾った悪いもののように思っていて、子昂の書を学んで修得するのは易しいが、それは悪友に交わって親しみ易いのと同じで、子昂の書が習い易いのはそれが良くない証拠であると思ったことにある。傅山の言葉に道理が無いことも無いが、これは少し言い過ぎである。子昂の書を匪人に喩えるのは穏やかでない。子昂の書がどうして学び易いものか、子昂もまた晋や唐の人を学んだのである。柔媚(じゅうび)のところは有るが邪道だと決めつけることはできない。清の馮鈍吟(ひょうどんぎん)は語って云う、「趙子昂は古人を学んで学ばないところが無い。古人の書を研究して自然に一家を成す。当時に於いては誠に並ぶ者の無い人であった。近代に李禎伯(りていはく)が奴書(どしょ)の論を唱えてからは、後世の人は子昂の書を手本とするのを恥じ、書道を始める人は古人を模倣すると言われることを恥じて、晋や唐の旧法は今や廃れてしまった。子昂の書法は子孫が守るだけとなっているが、子昂の書を謗(そし)るのに奴(ど)と云うのは過言ではないか。ただ実力以上にその立論字形を流美にしようと工夫したため、古人の簫散した処や廉断な処において少し足りないだけである」と。馮鈍吟は書法に深く博(ひろ)い、これは公平穏当な論であると云える。傅山が子昂を斥けるのは、子昂が二ツの王朝に仕えたことを憎んで、顔真卿の節操を通したことを喜ぶ言葉で、傅山自身革命の世に際会し、非常な苦労の中に節操を守って、甲午(こうご)の年には刑に遭い、殆んど死刑になる処を危うく逃れ、早く死んだ方がましだと、仰いでは天を見、伏しては地を掘って、住むこと二十年、天下が大いに定まってようやく横穴を出てからも、自ら歎いて、「強く柔軟に動く骨も字を書くことで之を朽ちさせて終った。なのでこれ等の字は、私の死後千年の後にも輝きを失うことはなかろう」と云うほどの人で、画を能くし文も能くする吾が子の眉(び)に、山に入って薪取りをさせたと云うのにも、その気質の恐ろしさを思わせる老先生なので、子昂の書を評してこのような言を為したのも怪しむに足りない。旅に在っても子に夜学をさせて、夜明けには誦唱させて出来なければ杖で警(いまし)めたというが、どれほど父としで厳しかったことか。また欧陽脩(おうようしゅう)の「集古録」を評して、「吾は今にして此の老人が真に書を読まなかったことを知った。」と云ったのは、どれほど歯に衣を着せない人であることか、先ずその人物を知って、言葉の因って出るところを思うが善い。
子昂を人が不満に思うのは二ツの王朝に仕えたことに因るが、これもまた同情すべき事情がある。その宋に仕えたのは父の死によってであり、宋が亡んだのは子昂が二十七才のときで、世に出て功績を立てたいと欲する思いの強い年齢であった。しかし国が亡んだ後は家に在って学に努め、敢えて自ら進んで栄達を求めることもしなかった。元が大いに宋の人材を求めたのは至元二十三年で子昂は時に三十四才であったが、程鉅夫(ていきょふ)と云う者に薦められて世祖に見(まみ)えた。元が武力で天下を取ると、その勢いで人材を得て民情を安定させようと子昂のような者を招致するために、恩と威で挟み攻めにしたことを知るべきである。時勢を考察しないで責めるのは、理屈は正しいが論が少し過酷である。国亡びた後に次第に出世したが、決して驕慢の態度は無く、密かに哀しみ傷む情を持つ子昂の人品を思うべきである。ゆえに後人の邵復孺(しょうふくじゅ)は評して云う、「公は宋の王孫の身で世の変に関わる。亡国の悲しみの情に忘れられないものがある。ゆえに長短の句は深く文人の支持を得る」と。邵氏の言葉は人情に近い。
しかしながら子昂と同じ時期に、劉因、字は夢吉と云う者がいた。至元十九年に召されて承徳郎右賛善大夫を授けられたが、まもなく母が病気となったため辞任して故郷に帰った。至元二十八年に集賢学士嘉議大夫に任命されたが固辞して出なかった。子昂に劉因を比べると劉因は貞節である。傅山も康熙十八年に中書舎人を授けられたが老病を理由に参内しなかった。無理やり竹篭に担ぎ入れて参内させられると忽ち地面に倒れた。次の日直ちに帰って、「後世が無暗に劉因などの輩を以って我に勝るとされては、死んでも死にきれない。」と歎けば、聞く者は驚き恐れて舌を巻いたと云う。劉因に傅山を比べると、傅山はさらに貞節である。まして子昂は宋の太祖の十一世の孫であって、宋が亡んで敵の元に使われる。その働きが済世治民の補(たすけ)になったとはいえ、後の人の評価は低い。これもまた人情である。敏才が余り有って貞志が足りない。人は皆、子昂の為にこれを惜しむ。
子昂の諡(おくりな)を文敏と云う。まことに文敏である。文貞とか文忠とは云えない。子昂の貞忠に欠けることを後人は悦ばないが、一生を多福に夫婦仲良く暮らした。まことに幸せな人であった。
子昂の夫人は、管(かん)氏、名は道昇(どうしょう)、詩を能くし、画を能くする。現在も呉興の白雀寺の壁にその画いた竹の図があると清人(しんじん)の記に見える。清初期の銭牧齋(せんぼくさい)の「秋槐集」に、管夫人の画竹と子昂の修竹の賦を寄せるを観てと題す詩も見え、また明の鄭長卿(ていちょうきょう)の管夫人画竹石に題するの詩が残っている。管夫人の画は猶多く世に残っていると思われる。
子昂はこのような佳い伴侶を得て、当時の大官貴人のようには侍妾(じしょう)を置かなかったものと見える。これは子昂の人品が良かったことにあるが、また一ツには夫人が夫の心を失わなかったことに因るものと思われる。子昂が既に高官となった翰林学士の頃、夫人も年四十を過ぎて容色やや衰えてきた頃、どのような折であったか、子昂は書斎の手伝いに美人を雇いたいと小詞を作って夫人に見せた。その詞に云う、
我は学士なり、
爾(なんじ)は婦人たり。
豈(あに)聞かずや、
陶学士には 桃葉・桃根あり、
蘇学士には 朝雲・暮雲ありしを。
我便(すなわ)ち多く幾個の五姫越女(ごきえつじょ)を娶(めと)るとも何ぞ過分ならん。
爾の年紀(とし)は已(すで)に四旬を過ぎたるに、
只管(ひたすら)に占住するや 玉堂の春。
(私は学士である、お前は妻である。聞いたことは無いか、陶学士には桃葉・桃根があり、蘇学士には朝雲・暮雲のあったことを。即ち私が側女を幾人娶(めと)ろうとも何で過分であろうか。お前の年齢(とし)は已(すで)に四十を過ぎているのに、一人占するのか妻の座を。)
この小詞を見た時の心はどうであったか知らないが、夫人もまた同じような小詞を以って答える。その詞に云う、
爾儂(なんじ)・我儂(われ)、
忒煞(はなはだ) 情多し。
情多き処 熱きこと火の如し。
一塊の泥を把(と)って、
一箇の爾(なんじ)を捻(ひね)り、
一箇の我を塑(つく)り、
咱(わが)両箇(りょうか)を将(い)て 一斉に打破し、
水を以って調和し、
再び一箇の爾を捻り
再び一箇の我を塑るに、
我が泥の中に爾あり、
爾の泥の中に我あり。
爾と 生きては一箇の衾(ふすま)を同じうし、
死しては一箇の槨(ひつぎ)を同じうせん。
(貴方と私、甚だ愛が深い。愛の深い処は火のように熱い。一塊の泥を把(と)って、一箇の貴方を捻(ひね)り出し、一箇の私を塑(つく)り出して、その二箇を一緒に砕いて水で練って、再び一箇の貴方を捻り一箇の私を塑れば、私の泥の中に貴方が在り貴方の泥の中に私が在る。貴方と私、生きては衾(ふすま)を同じくし、死んでは槨(ひつぎ)を同じくしよう。)
子昂はこの詞を読んで、大いに笑って取りやめにしたと云う。男女が夫婦となるのは、実に二ツの泥人を壊して復(また)造るようなものである。我が泥中に爾あり、爾の中に我ありの句は、理もあり情もあり、なつかしみあり、おかしみあり、土偶の譬えの、執着と解脱が糾(あざな)い合い織り合いする詞の章には、子昂も笑うほかなったとは面白い。笑って取りやめにしたとは、流石に人品が良い。ただし、子昂の詞は現存する「松雪齋詞」には無い。
管夫人は小蒸(しょうじょう)の人である。蘇州と嘉興の松江とが交わる所に小蒸と大蒸がある。みな積水の中に在って、草樹が繁茂する中に集団で村落を作っている。気は蒸す雲夢(うんぼう)の沢(たく)と云う言葉からその名を得たという者もいる。子昂の出た湖洲はそこからほど近い。子昂は夫人の故郷のその地に往来し、その風光を愛して水村の図を作ったと伝えられる。また夫人の父の為に楼(二階屋)を造り、管公楼と名付けたという。それで子昂の手製の仏教抄に管公楼の朱格をした紙を用いていたものがあるという。子昂と菅氏と夫婦の情の極めて篤いことは以上のようであるが、舞袖(ぶしょう)という妾があったことも伝えられている。明の李竹嬾(りちくらん)は、夫人が没した後に子昂が自身で置いではと云う。であれば子昂は二度と正室を迎えることは無かったのである。竹嬾は風流の士で、詩文も書も画も皆一家を成す。その地を通ったことで子昂の風流を偲び、水郷の佳景を悦んで、大小蒸の図を作ったという。
子昂の信仰が孔孟を中心に置くのは言うまでもない。そして平正で温和な性質から、儒教に依っていても老子を斥けず、その自ら「老子道徳経」を謹書したものは、端厳優麗で小楷書の典型として後人の敬重し臨模するところである。また仏教を嫌わず、経論を書写すること李氏の言葉通りである。嘗て自著して三教の弟子趙孟頫と云う。三教を併せ奉じる者には、元に王嚞(おうきつ)があり、明に林兆恩(りんちょうおん)がある。子昂はこれら狂妄の一家言を誇る人のようでなく、ただその寛厚温敦な人柄から老仏の道にも佳い処があるのを観て、自然とこれを尊信するようになったものと見える。これもまた、子昂が断乎と独り立って、厳然と自らを侍するような人では無かったことを語るものである。
管夫人の印に、趙管と刻印したものがある。中国の習慣では女子は嫁いでも夫の姓を名乗ることが無い。であれば韻文は管氏道昇と有る筈であるが、趙管とあるのは趙氏の管氏である意味で、夫人の心の状(さま)も見えておもしろい。ただしこれもまた先例のようなものがある。王義之の書道の師でもあった衛夫人は、李矩(りく)と云う人の妻であったが、夫の姓と合わせて李衛と称したことがある。管夫人は学あり識あり才あり情あり、そのため趙管または魏国夫人趙管などと云う印を用いた。泥像の中に夫があるだけでなく、印文の中にも夫を擁して離さず、趙管か、管趙か、子昂夫妻、生きては双身の魂を交え合い、死しては一蓮の座を共にする。まことにめでたしめでたしである。
(大正四年七月)
注解
・クビライ:モンゴル帝国の第五代皇帝、中国を征服し中国・元の初代皇帝となる。
・中統鈔の紙幣:元で発行された紙幣正式には「中統元宝交鈔」と云う。
・奉御の徹里を勉励して丞相の桑哥を弾劾させた:大臣の桑哥が絶大な権勢をふるうようになると、その権勢に危機感を覚えた徹里は激しい口調で桑哥を弾効した。弾効したことで一時クビライの怒りを買ったが、やがてクビライの理解を得てサンガの失脚につながる。
・藤田東湖:江戸時代末期の水戸藩士で学者(水戸学藤田派)。
・傅山:中国・明末清初の文人、画家。
・顔真卿:中国・唐の政治家、書家。
・馮鈍吟:中国・清初の文学者。
・欧陽脩:中国・北宋の政治家、文人。唐宋八大家の一人。
・劉因:中国・元の学者。
・銭牧齋:銭謙益、中国・明末清初の文人。
・李竹嬾:中国・明の文人。
・王嚞:中国・元の道士。道教の一派全真教の開祖。
・林兆恩:中国・明の学者。儒,道,仏の三教融合を唱えた。
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