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幸田露伴の随筆「簡素治新ということ」



 手軽くて運びのよいことを簡(かん)という。簡と並び立つものは易(い)である。易とはやさしくて分かりやすいことである。何事も簡易であればスラスラと都合よく、もつれも迷いもなく運び行われてゆくのである。簡の反対が繁(はん)で、繁は小うるさく小面倒なことである。易の反対が晦(かい)で、晦はむずかしくて分かりにくいことである。繁雑や晦渋は何につけても好ましいことではない。何かと引っ掛かりが多く、もつれや迷いや誤りや争いのもとになるのである。そこで昔から「易であれば知り易く、知り易ければその知は久しい」と言っている。また、「簡であれば従い易く、従い易ければ功績あり、その功績は大である」と言っている。このような事は誰でも知っている事である。しかし小学生が知っていることでも、大先生に出来ない事が甚だ多い。簡易が良いものであることを知らない人は少ないが、さて簡易には中々出来ないものである。簡易になりきれる人があるならば、その人は既に大人(たいじん)に成れた人である。修行が一(ひと)通り済んだ人である。ところがなかなか簡易にはなりきれない。そこで、「学、簡処に至れれば力を道に得るなり」という言葉を誰やらが申している。もっともなことである。
 政治は特に簡易を尚ぶ。「弊害を除き民を救うは簡恕に在る。網(もう)を捨て綱(こう)を治めれば、煩(はん)といえども埋め易し」と言われている。大綱を忘れて細目を論じているようでは事は成功しない。イワシを獲る網の網目はイワシの体が自由に出入り出来るくらい大きいものである。一ツの目の大小を論じたら、こんなものでイワシが獲れるものではないと、誰しも言うに違いない。そしてその網の目をもっと大きくした方が論理的だと言うに違いない。そしたまた多数決で結論を求めたならば、網の目を細かくする方がよいとなるかも知れない。けれどもそんな一目を論じているようなことではイワシは獲れない。イワシの大群を獲るには目の大きい網でよいのである。大綱がシッカリしていれば素敵に、大きな網全体で大海を割合に早く引くことが出来るのである。そしてイワシの大群が獲れるのである。この網というものは、作るにも扱うにも綱(もとづな)を第一とする,先ず綱がよければ網のことは自然に解決されるのである。網のことは自然にそれぞれの人達が手を動かし智を働かせてやって行くから、親方の命令一つで済むのである。網の目の一ツ一ツを論じるようなケチな根性では億兆のイワシを獲ることは出来ない。政治は簡恕である。簡には明白の意味があり、恕には仁慈の情を含む。
 早い話が面倒くさい規則などは専門家や小役人に任せてよいので、例えて見れば東京の復興のようなことも、大概の方針は紙に書いたら十行か二十行でよい、それだけの大綱を示しさえすれば、後はいろいろの知恵自慢や経験自慢や算盤自慢や技術自慢が寄り合って、その場合その場合で良いものを当て嵌めて行くに違いないのである。泥芋を洗うのに一個一個洗うのは個人の台所での事である。大樽の中へ入れてXの棒で掻きまわすと、芋と芋は擦れ合って泥は落ちてしまう。大政治家というものは結局、その樽の大きさを見計らって決めればよいのである。あとはXの棒で、どうだどうだとやっていると、芋は良い加減に洗えてしまうのである。ただ芋が少なくて樽が大き過ぎたり、樽が小さくて芋が多過ぎたりしてはいけないのである。そこを過不足なく見計らうところに親切がなければならない。智慮がなければならないのである。
 蕭何(しょうか・中国、漢の政治家)の法律はたった三章。それで春秋・戦国から秦へわたって荒(すさ)み切っていた天下を治めることが出来たのである。これは誰でも知っていることだが、それでは三章以外に何も法文を出さなかったのかというと、その事は「史記」には何も書いてない。「史記」にはただ蕭何が大綱(たいこう・大筋)を治めたことが書いてあるだけである。であれば、細目はどうであったかというと、無論それは蕭何が多くの人々の知恵や分別を借りて、種々の政令を出したに違いない。ただし、人民に示した大綱はいわゆる三章で、まことに簡易至極で、そこが蕭何の偉大な政治家であったところである。そうであれば蕭何が自ら考え出さずに取り決めた細目があったに違いない。それがどうして分かるというと、それは曹参(そうざん)の伝記を読むと分る。曹参は酒飲みの軍人上がりで、蕭何の後を受けて政治を執った人であるが、着任すると諸官員が新宰相の施政はどういうものであるかと尋ねると、曹参は、何事も蕭何のしていた通りにと答えた。そこで諸官員も従前どおりに事務を執ったということである。であれば、種々の細目が備わっていたからこそ、それに準拠して諸官員も事務を執ることが出来たので、そこで蕭何のしたことが如何に周到で如何に賢明で如何に弊害が少なく、効果が多いように計画されていたかが思いやられるのである。蕭何の政治も簡であるが、太史公(「史記」の著者・司馬遷)の文章もまた簡である。このようでなければ天下の政治も執れないし、百千年の事を記すことも出来ない。蕭何の偉大なところはそのよく簡なところであり、政治の道は簡恕にあることを悟っていたところにある。張良・韓信を抑えて三傑の筆頭とされる所以(ゆえん)はここにある。
 近頃の人では、西郷隆盛がやや簡であったかと思われる。煩瑣で細かいことは小人の行う事である。河上公(かじょうこう)の老子注に、「小魚を煮るのに腸をとらず、鱗(うろこ)を去らず、敢えて撓(た)めず、その糜(び・無駄)するを恐れるなり、国を治めるに煩雑なれば下(しも)乱れる。」と云っているのも面白い。心を用いるに煩雑であれば即ち精緻は散じ、身を持するに簡易であれば即ち思いは遠大である。小才覚・小分別・小主張・小理屈を余りごてごてもちゃもちゃ云い過ぎる世より、スラリとした方が幸福だろう。学んでよく簡なところへ至らなければならない。


 物の自然なのを素というのである。錬り絹に対して練らない絹は素である。光彩華やかな美しい文飾に対して、ただ白いばかりで何の染まるところもないのが素である。環境に動かされて他の影響を受けたものに対し、生まれたままでそのまま成長したのが素である。何やら彼やら善であれ悪であれ何等かのものが有るのに対して、何も彼もなく善も悪もなく形容詞がいまだ付かない「空」が素である。奢りに対して奢らないのが素である。感情の発動に対して感情が未だめばえない心境が素である。新たに出てくるものにたいして、前々からあったものが素である。いわば吾自体の本来なのであるから極めて大切なものであることは云うまでもない。「うぶ」または「き」という邦語が大体この素に当るが、「うぶ」だの「き」だのと云うものは、愛すべき尚ぶべきもので極々大切にすべきものである。ところが純素は日々に薄れ散ることが有り勝ちで、言述は繁多を去り、感情は素一に帰すなどということは、修行の心を持っている者でも、なかなか得難いことである。
 地方の好青年が成長し意気天を衝(つ)くようになると、立身出世の志をいだいて東京へ出てくる。身の上は様々であるが、何れにしても或いは勉学し、或いは就職する。それはよいが、やや国訛りが抜けて少し東京づれしてくると、自分では進歩したつもりで、また実際に幾分かは真に進歩したのであろうが、「うぶ」なところが日々に減耗して、「き」の匂いが段々薄くなって、酒でいえば酒でないものが混じり、茶でいえば茶でない香りがするものとなってくる。そこで眼の高い者は使うのにも用心して使うようになる。操守が堅くない者は自分から堕落の道に吸い込まれる。素履(そり)であれば往くに間違いなし、という本文があるが、うまく行けばよいが、どうも素履ということが難しくなる。素履とは本来の自分で実践するということである。昔話にある越後伝吉や塩原多助のように、江戸で揉まれても、何時も「うぶ」なところを持ち通していれば偉いが、悲しいかな「うぶ」の徳は無くなりがちで、そこで「国を出る時偉い奴、江戸に居る間にただの奴」となって仕舞うのが多い。あの一種の気骨を二百年後の今に至るまで凛(りん)として遺す芭蕉でさえ、「雲とへだつ友かや雁」の句を遺した時のうぶさは大いに宜しかったが、京都や江戸やあちこちで揉まれた中年の頃は、大分「うぶ」なところを失って、トボケ者の檀林派俳人の感化を受け、世間と共に笛吹をふき太鼓をたたく獅子舞の仲間になりかかっていた。幸いにして目覚めることができ、いわゆる俳諧の誠を見開いて、自分の「き」を出したからよかったものの、そうでなければ高政や松意など檀林派俳人の末に名を連ねて仕舞っただろう。東京にいれば東京の水を飲み、東京の埃を浴びない訳には行かないが、全東京の価値よりもその人にとってはその人の「うぶ」の方が尊いものである。一時代とか一世とかいうものを大層有難いものだと思っている人が多い。しかし、実際は一時代とか一世よりも、その人の「き」の方がその人にとっては尊いものでなくてはならない。時代に適応するということは利口者の云うところであるが、時代に合わなくてもよいから、素を失ってはいけない。「一肚皮時宜(いちとひじぎ・心中の思い時勢)に合わず」、といった蘇東坡の方がその当時の時勢に合せた利口者より実は偉かったのである。人に笑われれば心喜び、人に褒められれば心憂いたと、韓文公は「李翊に答える書」に云っており、また「憑宿に与える書」にも、世人は私が好いと思う者を危険だとし、私が筆にするのも恥かしいような人を好いとする、と云っていが、それ程に自分と世とが異なっていも、世を軽く見て自分の素心を重く見た韓文公の方が本当であったのである。
 日清・日露の戦争に日本兵はなぜ強かったか、日本の兵は「うぶ」であったからである。「き」の一本であったからである。日本人の素を失わなかったからである。吾自身の本来を失っていなかったからである。木曽義仲とその四天王は皆「き」であって、強かった。「うぶ」を失って亡びた。平家の公達(きんだち)は都(みやこ)ずれして、「き」のところがなくなって弱くなったのである。或る集団の中に入ると兎角、人はその素を失うものである。随分と好い人も議院ずれ・政党ずれすると、いつの間にかその人の「うぶ」な好い点を失って仕舞うことはないであろうか。随分好い人でも日本人的な「うぶ」な好いところを、なまじ外国を見学して失って仕舞っては詰まらないではないか。
 素は全生命の相(すがた)である。素でないのは生命が何かに腐食されている相である。豪傑に種々の段階があり、酒にもいろいろ品位があるが、大小高下は別にして、良く「うぶ」であれば既にその人は豪傑である。本物である。良く「き」であれば既にその酒は本物である。まがいものではない。日本は日本としての素を保たなければならない。個人は個人としての素を保たなければならない。既に大統領となってもなおその「うぶ」なところを失わないで、子供のように恥かしがったところに、ワシントンの本物であったことを看取ることが出来る。


 どんなに良い木でも柱にするには、墨縄を当てて歪みを除かなくてはならない。どんなに良い竹でも矢にするには妻削りをしてみて、少しの触れもないように真直ぐな上にも真直ぐに箆矯(へらだ)めをしなければならない。自然のままで役立つ物は少ない。皆いくらかの手数を加え、そしてその物本来の美を現わし、その物の本来持っている長所によって世の役に立てるのである。この少々の宜しくないところを除いて、本来持っている良いところを現わすようにするのを治というのである。詳しく云うと修治というが、この修治に依らなくても充分に良い人がいなくはないが、それは聖人とか何とかいう稀有な人で、そんな人はまず居ないとするのが実際の状態である。
 百人が百人まで、才能ある者は才能の有るに従い、徳性の多い者・豊かな者は徳性の豊なのに従い、意志の強い者・感情の強い者、それぞれの生まれつきの性質に従い、皆それぞれ宜しくないところがある。いわゆる気質の偏りがある。それをそのままにして置いて良いということはない。どうしても修治しなくては困りものである。天真爛漫は実によいことだが、何でもかでも天真爛漫でよいということではない。好色者の天真爛漫などは困りものである。個性の尊重もいいが石川五右衛門の個性の尊重などは恐れ入る。偽善者になれというのではないが、悪いところをそのままでよいという道理はない。悪いところを治してもらう方が当人のためにも世のためにもなる。近頃やたら人々が個性の尊重だの天真爛漫だのというが、何も松の木にむかって杉の木になれと要求する訳ではない。個性は尊重してもらってよいが、松の木は松の木としての悪いところを少なくしてもらいたい。天真爛漫でよいから自分の悪いところまでを、天真爛漫だといって無遠慮に振り回してもらいたくない。即ちバカバカしいほどの自尊狂・自惚れの天狗でない以上は、誰でも自分で悪いと思うところが無い筈は無いから、その悪いところを除く心掛けを持って欲しい。決してその人の「うぶ」や「き」を傷つけようというのでないが、自ら反省して修治の気持ちを持ってもらいたい。赤裸々にいえば大抵の人はそんなに立派な天分を持っているものではないから、個性の尊重などということを自分の口から云うのは自惚れ過ぎている訳で、個性の尊重などということは他に対して云うべきで、自分でそんなことを云うのは自己弁護のようで、かつまた修治の気持ちのない浅はかな人であるということを示すことになるのである。
 社会に不詳(ふしょう・理解不足)のことが多くなるのは、はき違えた天真爛漫や個性尊重などということを、詳しく考えず良いこと思っている世の空気の中で、自分勝手な解釈が多く横行していることによる。人々が皆、吉野山の勝手明神の氏子でもでもあるまいが、勝手に振舞ってはばからないようであれば、どうしても不詳のことが多くならない訳にはいかない。人々が皆修治の気持ちを持たなければ世界は荒れ果てて仕舞うのである。収拾のつかない乱世になって仕舞うのである。堕落し落ちぶれて仕舞うのである。ただこういうことを云うのは多くの人にとっては気に入らないことである。今の世は宗教家も教育家も政治家も人の気に入ることだけを言っていい子になりたがる。いい子になれば多数者に持ち上げれる光栄に浴せるという打算的見地からでもないだろうが、どうも信徒の機嫌を取り、生徒の機嫌を取り、党員の機嫌を取って、本当に世のため人のためになることを言うことが少ない。おだて上げられたものはよろこぶ、それで伊呂波カルタの憎まれっ子のように向こうっ気のみ強い人々が多くなって、天分がよい人物までが妙に自分の悪いところに巻き倒されてしまう傾向がある。不詳のことがこれでは多くなる訳だ。まじめに人々は考えてほしい。


 古臭いことは厭である。古(いにしえ)を尚(たっと)ぶということもあるが、古臭いことは誰しもよろこばない。古文家の韓文公でさえ、努めて陳言を去るといっている。陳言は即ち古臭い言である。新しいということは即ち光輝あることで、古臭いというのは光輝なく錆び付いていることである。日新(日にあらた)これを盛徳という、と二千年も前から定まっている。また心ある人は三千年前から日新を心がけている。今更新しいことを尚ぶべきだと言うなどは、ソレコソ古臭い極みだ。
 しかし、これは恐ろしいはきちがえであって、新しくさえすればいいと思って、新しいつもりで昨日と違ったことを今日やり出すと、今日やり出したことが実は新しくなくて、却って去年既にやられていたことであることが稀でない。つまり知ることの少ない者には新しいものが多い道理で、子供には大抵のものは新しい。老人には新しいものは少ない。外国へ出ると新しいものが多い。天王星の世界にでもいったら定めし新しいものが多いだろう。しかし、子供にとっては新しいものでも真に新しいものではない。子供が生まれない前からあったものである。外国で見るものは真に新しいものではない。その男が見る前からその国にはあったのである。天王星の世界へ行ったとしても新しいものはない。その世界にはそれは古くから存在していたのである。こういう新古は論じる価値もないことである。が、人は多く自分の出会ったことない事物に出会うと、それを新しいといい、そうでないものを古いというのである。
 これらのことは詰まらないことで、いわゆる風が動くのか旗が動くのか見る人の心が動くのかという問題になる。余りにも古臭くて話にならない。今言いたいのはその新古ではない。沈滞して流れない。それを古いといいたい。生き生き活動する。それを新しいといいたい。木の葉が出る、もちろん新しい。葉が展開する、花が開く、それも新しい。紅葉する、それも新しい。落葉して風に随ってひるがえる、それも新しい。樹の良さは日に新しく、日々に新しい。流れる川の水は刻々に流れて新しい。水の良さは日に新しく、日々に新しい。動かすことが出来ない石がある。この石は今不変不動であるが、諦観すればこの石も絶えず変化しているのであって、その良さは日々に新しい。黄玉は長い間にその黄色を失うものである。その黄から白へ移り行く間、昨年は一昨年と異なり、今年は昨年と異なり、明年はまた本年と異なるのである。その良さは日々に新しい。
 このようにいうと一切のものは皆、日に新しい。光彩は煌々(こうこう)としている。どこに塵や埃があろうかである。人ももちろん日々に変化して、日々に異なって行く。二十・三十の人が新しいだけではない。七十・八十の人もまた新しい。しかし、その形体の事ではなく、その精神の事ではなく、その観念の上においては、何時とはなく人というものは自分にとらわれて、自分の昨日に執着し、昨年に執着し、十年前・二十年前に執着して、そして自分で古くなってしまうのである。或いはまた自分が古くなった為に新し味に憧れるようになるものである。新しいものに憧れるというのは自分が古い為でなくて何であろう。このような沈滞・鬱抑の境地に立たなくとも、世界のある限りは万物は皆日新の良さを備えているので、それで日も輝き月も照って、鳥も歌い花も咲いているのであるから、我もまた日新の活気で以て生き生きと活動の境地に立ったらどうだろう。太陽の下に新しいものなし、それだけでなく、太陽の下に古いものなしでもある。日新の良さは天地が存在し、日月が照らし、山が峙(そばだ)ち、川が流れる根源である。この絶えること無い新し味で以て、春夏秋冬を楽しむべきである。寒熱冷暖に従い衣装を替え、風前雪裏に好く自在を保つべきである。
(大正十三年一月)


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