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幸田露伴の「努力論②着手の処・自己の革新」
着手の処
着手の処(ところ)が分らない教(おしえ)は、いかに崇高な教でも、荘厳な教でも、正しくて完璧な教でも、教えられる者にとっては差当たり困り果てる訳である。本来を云えば教には、着手の処の判らないものなどが有ってはいけない訳である。しかし我々は実際その意図が甚だ高尚遠大なことは感じるが、それと同時に、漠然としていて着手の処を見出し難いものに遭遇することが少なくない。それも歳月が経って見ると、実は教そのものが漠然としていて着手の処が分からなかったのではなくて、自分が或る程度に達していなかった、その為に着手の処を見出せなかったのだと悟るのであるが、それはとも角、ともすると着手の処の分からない教に遭遇する事があることは誰しも経験する事らしい。冗談であれば論理的なゲームとでもいえる謎のような教も良いが、実際に利益を得ようという意味で教を請(こ)うのに、着手の処が分らない教では実に弱る訳である。そこで問う者は籠耳(かごみみ・耳を通過するだけ)になってしまって、教は聞いたには違いないが何等の益も得ずに終るという事も少なくない。それでは聞く人にも聞かせる人にも不本意千万に違いない。教というものがともすればその場限りの座談で終る傾向になりはしないか。そして又いわゆる「籠耳」で終る傾向になるのではないかと心配である。もしそうであったなら、それは聴者にも談者にも、着手の処が強く認識されていなかった為として反省しなければならないので、教そのものに就いて是非すべきものではないであろう。
着手の処、着手の処と求めなければならない。農業の事を学ぶとしても、経営建築の事を学ぶとしても、操船の事を学ぶとしても、軍隊の事を学ぶとしても、画を学ぶとしても、書を学ぶとしても、着手の処、着手の処と着手の処を把握して学ぶのでなくては、百日過ぎてもまだ学びの中に入れないのである、一年経っても実践の域に進まないのである、どうして会得の境地に至り得よう。どんなことも着手の処を適切に知り得て、そしてそこに力を用い修業を積んで、そしてそこから段々と進めるのでは有るまいか。さて、そうであるなら着手の処は何(ど)の様な処だろうか、それはやはり学ぶところのものによって違うだろうから今直ちにこれを掲げ示す事は出来ないが、一般の修養の上からなら、教える者によっては敢えて示せないこともないだろう。けれども着手の処、着手の処と求めて、人々各自がその志す所の道程に於ける着手の点を認め出した方が、妙味が有るだろう。君、脚(あし)有り、君、歩むべし、君、手有り、君、捉えるべし、である。
自己の革新
年というものは何処に首が有り尾が有るというものではないが、昔の俳人のいわゆる「定め無き世の定め哉(大晦日定めなき世のさだめ哉 (井原西鶴))」であって、自然に人間には大晦日もあれば元日もあり、終(つい)には大晦日は尾のように元日は首(かしら)のように思われてきているのである。さてそこで既に頭があり尾があるということになると年の尾である大晦日には一年の総勘定を行(や)ってみて、年の首(はじめ)には将来の計画を行(や)ってみたくなるのが人情である。年末の感慨や年頭の希望はこの人情から生じて来るので、誰しもそう自分の思ったように物事が運べている者は少ないから、年末には日月の逝(ゆ)くのが河水の流れのように見えて今更ながら感嘆し、そしてまた年頭の志(こころざし)が挫折して思い通りにいかなかったことを恨み嘆くのが常であり、それからまた年首には屠蘇の盃を手にして雑煮の膳に向って、今年こそはと自分で祝福して、前途に十二分の希望と計画とを懸けて奮然として奮い立つのが常なのである。年に首があり尾があるはずはないなどと、愚にも付かない理屈などを考えている者は一人だって有りはしない。大抵の人は年末には感慨嗟嘆し年頭には奮起し祝福するのが常である。実に人情自然そう有るべき理屈なのである、当然なのである。大人・小人・俊傑・平凡の別無く皆そういう感情を懐くので有るから、即ちそれは正当な感情なのである。
このような感情の発動が正当で有るとすれば、我々はその年末の嘆きを本年に於いては無くし、年頭の希望を本年に於いては実現したいと考えることが、第二に起って来るところの意思であって、その意思はもとより正当でかつ美しい意思なのである。
有体(ありてい)を云えば、誰しも皆毎年々々にこのような感情を懐きこのような意思を起こし、そしてまた毎年々々嘆いたり発憤したりしているのである。そこで立脚点を動かして暫らく自分というものに同情しない自分になって客観して見れば、年々歳々、仮に決められたようなこの年末年頭に於いて、何某(なにがし)という一人の拙い俳優が同じような筋書によって、同じような思い入れを、同じような舞台の、同じような状態の、同じような機会に於いて演じているに過ぎないことを認めない訳には行かないから、笑い出したくもなり、馬鹿々々しいと云うような考えも起らないわけにはいかない。がしかし、この考えは自分に取っては決して良い考えでは無くて、どんなに達観して悟ったような事を思ったからといって、それなら明日から世間の外の人となれるかと云うと、そうはなれないというのなら、やはり正直に筋書に従って、同じ感慨、同じ希望、同じ思い入れをした方が良いのである。すると努力すべきは、次の年末または年頭に於いては、今迄とは少し違った役廻りを受取って、少しは気焔を吐き溜飲を下げるようなことを演じたいとして、その注文の通りに行くようにする事である。即ち何某という自分を「新(あらた)」にすべきなのである。例に依って例のような何某ではいけないから、例の何某よりは優れた何某に自分を改造するよりほかに正当な道はないのである。
けれどもそれは知れ切った事で、誰も皆「新しい自分」を造りたい為に腐心しているのであるが、その新しい自分が造れないので、年末年頭の嘆きや祝福を繰返すのだという言葉が其処(そこ)此処(ここ)から出るに違いない。いかにも自他共に実際はそうであろう。しかし新しい自分が造れないと定(き)まっているわけではないから、多くの人が新しい自分を造ろうとして努力しても造れないからと云って、全ての人が新しい自分を造れないとは限らない。イヤ、成し得た人が随分と去年の自分と違った今年の自分を造り、或いは一昨年の自分と違った今年の自分を造って、年末の嘆きの代りに凱歌を挙げて、密かに歓呼の声を洩しているのも世の中には少なからず有るだろう。してみれば、もし新しい良い自分を造り得なかったとあれば、それは新しい良い自分を造り得ない道理が有ってではなくて、新しい良い自分を造るに適さない事をして歳月を送ったからだと云ってよろしいのである。即ち新しい自分を造るべき道を考えて之を実行することに漏れが有った為に、新しい自分が造れなかったという事が明らかなのである。
同じ貨幣は同じ時には同じ価値を持つ理屈である。もしも去年や一昨年と同じ自分で有るなら、自分が受取る運命も同じである筈である。即ち新しい自分が造られない以上は、新しい運命が獲得される訳はない。同じ自分は同じ状態を繰り返すだけだろう。そしてそんな事を幾度となく繰り返す中に時計のゼンマイは徐々に弛(ゆる)んで、その人の活力は次第に少なくなり、終に幸福を得ないだけでなく、幸福を得る望みさえ無くして仕舞うだろう。であるから、悟りきって幸不幸を度外視するならばともかく、普通に考えれば、今まで年々に不満を感じて嘆いたり祝福したりしているのであれば、是非とも振るい立って自分を新(あらた)にして、そして新なる運命の下(もと)に新しい境遇を迎えなければならないのである。では、どうやって自分を新にしようかというのがこれ当面の緊急問題である。
この問題は一つ考えて見たい問題である。第一何によって自分を新にしたものであろうかという事が先決である。即ち自分によって自分を新にするか他によって自分を新にするかという事である。ここに自然の一岩石が有ると仮定する。この一岩石はある形状性質を持ち長い年月の間、同じ運命を繰返していたものとする。この岩石に新しい運命を与えるには、この岩石を新にすれば自然に成立つのである。即ち他力を以ってその凸凹(でこぼこ)を使えるようにし、その表面を美しくすればその岩石は、建築用或いは機材用として用いられるようになるだろう。これは他によって自分を新にして、そして自分で新しい運命を持つようになったのである。又ここに一医学生が有って、数年開業試験に応じて数年間同じ運命を繰返していたものとする。この医学生がある朝に同じ貨幣は同じ価値しか持てないと悟り、発憤して勉強研鑚に努めた結果、試験に合格して開業することが出来たとすれば、それは自分によって自分を新にしたのである。
この例のように、自分を新にするにも他によるのと自分でするのとの二ツの道がある。他力を仰いで自分の運命を、自分そのものを新にした人も、決して世に少なくはない。立派な人や賢い人や勢力者や勤勉家やそれ等の他人に、身を寄せ、心を託して、そしてその人の一部のようになってその人の為に働くのは、即ち自分のために働くのと同じであると感じて、その人と共に発達し進歩して行き、結局はその人の運命の分け前を取って自分の前路を得て行くというのも世間に在ることであって、けして慚(は)ずる事でも厭(いと)うべきことでもなく、やはり一ツの立派な事なのである。往々世に見える例で有るが、それほど能力があった人とも見えなかった人が、ある他の人に随身して数年を経たかと思う中(うち)に、意外にその人が能力の有る人となって頭角を出して来るというのがある。で、近づいてその人を観ると既に以前の愚者(おろかもの)では無くて、その人物も実際に価値を増していて、現在に幸運を得ているのも成程不思議では無いと思われるようになっているのがある。それは即ちその初め或る人に身を寄せた時から、その人によって新しい自分を造り出し始めたので、そして新しい自分が出来上った頃、新しい運命を獲得したのである。この他力によって新しい自分を造るという道の最も重要な点は、自分は自分の身を寄せている人の一部分同様であるという感じを常に保持する事なのであって、決して自分の生賢(なまさか)しい知恵などを出したり、自分の為に小利益を私有しようとする気を起こしたりなどしてはならないのである。
他人によって自分を新にしようとするならば、昨日の自分は捨てて仕舞わなければならないのである。他人によって新しい自分を造ろうと思いながら、やはり自分は昨日の自分同樣の感情や習慣を保持して、内心では一家の見識などを立てていたいと思うならば、それは矛盾であるから、何等の益を生じないばかりでなく、却って相互に無益な煩労を起す因(もと)になる。それほど自分に執着するくらい自分を良い物に思っているなら、他人に寄る事も要らないから自分で独立していて、そして在来の自分通りの状態や運命を持続して、自分で可として居るのが良いのである。新しい自分を造る必要も無いようなものである。樹であるならば撓(たわ)めることも出来るが化石であっては撓めることは出来ない。化石的自分を持つ人も世には少なくない。もし化石的自分を持つ人ならば他力を頼んでも、他力の益を受ける事はやはり少ないだろう。藤であれば竹に交っても真直ぐにはなるまいが、蓬(よもぎ)であれば麻に交れば真直ぐになる。世には蓬的自分を持つ人も少なくはない、もし蓬的自分を持つ人であれば自分を捨て去って仕舞って、自分より卓絶した人即ち自分がそう有り度いと望むような人に随従して、その人の立派な運命の圏中に於いて自分の運命を見出すのも、見苦しい事では無くて合理的で賢良な事である。昔の良臣という中にはやはりこの類(たぐい)の人が有る。これは他力によって自分を新にする方の話である。
他力によって自分を新にするのには、何より先に自分を他力の中に捨て去らなければならないのである。丁度(ちょうど)浄土宗の信者が他力本願に頼る以上は、なまじっかの小才覚や知ったかぶりを棄てて仕舞わなければならないようなものである。しかし世には又どうしても自分を捨て去ることの出来ない人もある。そういう人は自分自身で新しい自分を造ろうと努力しなければならないのである。他力に頼るのは易行道(いぎょうどう)であって、これは頗(すこぶ)る難行道(なんぎょうどう)である。なぜ難行道であるかと云うと、今までの自分が良くないから新しい自分を造ろうというのに、その造ろうというものがやはり自分なのであるからである。之を罵り嘲って見るならば、まるで自分の脚(あし)の力によって自分を空中に昇らせようとするようなものであって、殆んど不可能であると云いたい。であるから、成程世間の多数の人が毎年々々嘆いたり祝福したりして、新しい自分を造ろうと思いながら新しい自分を造れないで、また年々歳々同じ事を繰り返す訳なのである。けれども一転して語を下して見るならば、「自分でなくてそもそも誰が何某(なにがし)を新に出来ようや」である。
真実(ほんとう)の事を云えば我流で碁が強くなる事は甚だ望みの少ない事で、専門棋士に頼って学んだ方が速やかに上達するのと同じく、世間で自力だけで新しい自分を造って年々歳々に進歩して行く人は非常に少なく、やはり他力に頼ってそして進歩して行く人の方が多いのである。しかし自分だけで新しい自分を造ろうとすることは実に高尚偉大な事業であって、たとえその結果が甚だ振わなくとも、男らしい立派な仕事であることを失わないのである。ましてや「百川(ひゃくせん)海を学んで海に至る(全て川は海を目指し、終には海に達す)」であるから、その志(こころざし)さえ失わないで、躓いても、転んでも、倒れても、起き上がり、起き上がりして敢えて進んだならば、「鈍駑も奮迅すれば豈(あに)寸進なからんや (駄馬も奮迅すれば少しは進む) 」である。であるから、必ず一年は一年に、一月(ひとつき)は一月に、好処に到達するのは疑いないのである。自分を新にするということは、換言すればつまり個々の理想を実現しようとする努力であるから、その人の為だけに限らず、そういう貴い努力が積み重ねられればこそ世が進歩するのであるから、実に世間全体に取っても甚だ貴ぶべき悦ぶべき事なのである。自分を新にしようとする人が少なくなれば国は老境に入ったのである。現状に満足するという事は進歩の杜絶という事を意味する。現状に不満で未来に望みをかけて、そして自分を新にしようとする意志が強烈であれば、即ちそれがその人の生命が存在する根源なのである。
他力に頼って自分を新にしようとするにしても、信じるものは自分に由(よ)って存在するのであるから、即ち他力に頼る中に自力の働きがある。自力に依って自分を新にしようとするにしても、自照の知恵は実に外部からの賜物であるから、自力に依る中に他力の働きがある。自力他力と云って強いて厳正に区別する事も難しいくらいのものである。しかし他力に頼る以上は自分を捨て去るのであるから、舟に乗り車に乗ったようなもので大いに易しいようであるが、自分を新にしようとする以上は自分の手脚で把握し歩行しなければならないのだから、それについて直ちに計画を立てる必要があるがさてどうしたら自分を新にする事が出来るであろう。
仮令(たとえ)ではない、やはり大抵の人の実際がこうなのである。「何某(なにがし)当年何十何才、自分を顧みるに従来の自分は自分の予期した所に背くこと大にしてそして今日(こんにち)に及ぶ、過ぎたことは仕方がないが、今後は奮って自分を新にして自分を善美のものにし、そして自分の目的希望を成し遂げ、福徳円満、自分の理想境に到達するようにしたい。」というような事を思っているのが普通善良な人の掛値なしの所で、これ以下の人は自分を新にする工夫もしないで、運命が新に上等な運命として現れることを望んでいるだけだろうから、それは論じるに足らないとして捨ておいて、それなら差当たりどうやって自分で新しい自分を造ろうとすれば良いのかが喫緊な研究問題なのである。そしてその着手着意の処を知って間違わずに実行し、実際の場面で対応対処を誤らないことを人も我も欲するのである。
自分を新にする第一の工夫は、新にしなければいけないと信じる旧(ふる)いものを、一刀の下(もと)に斬って捨てて跡を残さないことである。雑草が今まで茂っていた畑を、これではいけないと新に良好な野菜を仕立てようとする場合、それはやはり敢えて新にするのであって、もしその地が新にされれば多少であれ野菜の収穫の時が来て、従来とは異(ちが)った運命が獲得される訳なのである。であればそれは雑草を棄てて野菜にしなければならないと信じるのであるから、第一に先(ま)ず新にしなければならない旧いもの、即ち雑草を根きり葉きり、取り去って仕舞わなければならないのである。旧いものは敵である。自分の土地に生えていたものでも旧いものは何でも敵である。雑草を取り去って仕舞わなければ新しく野菜は播(ま)き付けられないのである。この道理に照らせば自然に明らかであるが、今までの自分の心中でも行為でも、少なくとも自分を新にしようと思う以上は、その新にしなければならないと信じる旧いものを、大刀一揮(だいとうひとふり)、英断を振るって切り倒して仕舞わなければならないのである。例えば今まで為して来たところの事は習慣でも思想でも何でも一寸(ちょっと)棄て難いものであるが、今までの何某(なにがし)でない何某になろうという以上は、今までの習慣でも思想でも何でも、悪い旧いものは全て棄てなければならないのである。しかし、そうなると未練や何(なん)ぞが出て棄てられないものである。妙な弁解などを妙なところから考え出して棄てないものである。だが、古い歯を拔去ることを躊躇していては新しい歯の為にならない、「草莱(そうらい・雑草)を去らねば嘉禾(かか・良い穀物)は出来ない」のである。去年の自分は自分の敵である位に考えなければならないのである。何を斬って棄てなければならないかは人によって異なるが、人は皆自分で能(よ)く知っていることだろう。
具体的に語ればこうである。従来不健康で有った人ならば不健康は一切の良くない事の因(もと)だから、自分を新にして健康体にしなければならないと思うのである。さて、そう思ったならば、自分の肉体に対する従来の自分の扱い方を一応見直して見て、先ずその良くない箇所を斬って棄てて仕舞わなければならない。そしてその点に於いて努力して新にしなければならないのである。例を挙げよう、従来大食家で胃病勝ちであったならば、大食という事を斬って棄てなければならない、節食しなければならない。大食の為に弁護して大食でも運動を多くしたら良かろうなどと云うのは良くない。雑草を抜かなくても肥料さえ多く与えたなら野菜は成長するだろうというような理屈は、理屈としては成立つだろうが要するに正当な説ではない。従来と同様な身的行為をしていれば従来と同樣の身的状態を得るのは当然の事である。従来と異なった身的状態を得たいならば従来してきた身的行為を旧敵のようにして斬って棄てて仕舞うが良い。従来と反対な結果が得たければ従来と反対の原因を播くが良い。大食をしては胃病を患い薬の力を借りて病(やまい)を癒してはまた大食して病(や)んで、永く自分の胃弱を嘆いて恨むような人も世には少なくはない。昨日の自分をさえ斬って棄てれば明日の自分に胃病は無いのである。大食と胃薬とは雑草同士の絡み合いなのである。二者共に取り去って仕舞えば健康体の精力は自然と得られるのである。胃病を嘆いている人を観るに、多くは大食家か乱食家か間食家か大酒家か異食家か呆坐家(ほうざか・座りっきりの人)で、そして自分の真の病源である悪習慣に対して賢く弁護することは、雑草を抜かなくとも、雑草が吸収するよりも多くの肥料を与えれば、野菜の生育に差支えはないと云うような理論家によく似ているのである。仮初(かりそめ)にも自分を新にしようとする者は昨日の自分に媚びてはならないのである。一刀の下(もと)に賊を斬って仕舞わなければならないのである。何をするにも差当たって健康を保持するようにしなければ一切が崩壊する危惧(おそれ)が有るから、従来が不健康なら発憤して賊を斬るのが何より大切なのである。親譲りで体質の弱い人は実に気の毒であるが、それでもすべて従来してきた事で悪いと認めた事はズンズンと斬り棄てて行ったら、終には従来とは異なった健康体になれないとも限らないのである。再び言う、新(あらた)にしなければならないと思うところの旧いものは未練気なく排除して仕舞わなければならないのである。
不健康な人が衛生に苦労するあまり、アレコレ言って下らないことにアクセクしているのは、そもそも間違いきった話で、歯磨き、石鹸の瑣事にまで神経を悩ましていたり、なぐさみ物のような、もしくは間食が変化したような薬などを、嘗めたり齧ったりする事に心を使っているのは、それが先ず第一に非衛生の極みで、それよりも酒を廃(よ)すとか煙草を廃すとか不規則生活を改めるとかした方が、どれほど早く健康になれるか知れたものではない。もし従来不健康の為に甚だ不利を受けていると思う人があったなら、是非共その人は自分を新にして健康にならなければならないのだが、さて、本当に自分を新にしようと思ったなら、昨日までの自分の身体の取扱方を断然と改めなければならないのである。今日以後も昨日迄と同様の取扱方を我が身に加えていて、そして明日からは今迄と違った結果を得ようという、そんな自分勝手な注文は成り立つ道理がない。胃病に就いて云えば、もし間食家だったなら間食を斬って棄てるがよい。大酒家だったなら徳利と絶交するがよい。乱食家だったならムラ食いを改めるがよい。異食家だったなら奇異なものを食わないがよい。呆坐家だったら座布団を棄てて仕舞って、火鉢を打砕いて戸外で運動する習慣を得るがよい。湯茶を無暗に飲む習慣があったなら急須(きゅうす)や茶碗を抛り出して仕舞うがよい。喫煙家だったら煙草を棄てて仕舞うがよい。自分の生活状態を新にすれば自分の身体状態は必ず変らずにはいない。激変を与えるのだから身心共に楽では無いに相違ないが、これが出来ないならやはり永久に昨年のように、一昨年のように、一昨々年のように、同じ胃病に悩んで青い顔をして居るが良いので、そして胃病宗の帰依者となって、ついに胃病の為に献身的な生涯を送るが良いのだから、嘆息して不足などを言わない方が良いのである。右が嫌なら左に行け左が嫌なら右に行けである。良医の判断に従い、自分の生活状態を新にして、それで胃病が治(なお)せないなら、それは既に活力が消耗している証拠であるから致し方ないが、大抵の人は活力が消耗して病が癒えないのでは無くて、自分の生活状態を新にしない為に、即ち昨日までの自分の身体取扱方に未練を残している為に、やはり昨日通りの運命に付き纒われて苦しんでいるのである。例に依って例のような旧い運命に生け捕られたくないならば、旧い状態を改めるほかないのである。
胃病だけではない、粗食を常にして諸病に犯され易い薄弱体を持って苦しんでいる人もある。刺激物を取り過ぎて、精神不安で恨みや憂いや恐れや危ぶみなどの状態に捉えられて困っている人もある。夜業を廃(よ)さないで眼を病んで弱っている者もある。最も甚だしく愚かなのは、唐がらしを好物にして痔に苦しんでいるなどという滑稽なのもある。生活に逐(お)われて座業をしている為に運動不足で、筋肉が弛緩し脆弱になって悄然としている、同情すべき者もある。父母の為に悪い体質を付与されて、それが原因で常に薬を常用している悲しむべき者もある。が、要するに従来の自分に不満を感じるなら、従来の自分の状態を改めて仕舞うのが良いのである。ところが昨日の自分もやはり可愛いものであって、「酒が我が身体を悪くしているな」とは知りつつも「酒を棄てる事は出来ない」などと云うのが人の常である。とかくに理屈を付けて昨日の自分を弁護しつつ、さてその結果だけは昨日より良いものを得たいと望むのが人情であるから、許すべきではあるが、それを許すと結局のところ自分は新にならないのだから何にもならない。是非英断を施さなければならないのである。身体が弱くては一切の不幸の根が断れず、一切の幸福の泉が涸れがちであるから、少なくとも自分を新にしようと思ったならば、苦痛を忍んで不健康を招く昨日の自分の旧い悪習と戦って之に克ち、之を滅し尽して仕舞わなければならないのである。
しかし身体が弱くても事が成せなくはない。身が弱くても意志が強ければ、一日の身あれば一日の事は成せるのである。しかし身体を弱くする原因が何であるかを知りながらも、之を改めることが出来ないような、意志が弱くてそして身体が弱くては、気の毒ながらその人は自分を新にする事が出来難いのであって、従来通りの状態を脱する事は出来ない。それではならないのである。宜しく発憤して自分を新(あらた)にすべしである。(努力論③につづく)