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幸田露伴の随筆「魂魄のむき」

魂魄のむき

 真ツ暗な夜に、少しの明かりもない所で坐っている。そして何等の音も聴かず聞こえず、触覚も何等刺激される事なく、ただ寂然として居ると、人というものは大分単純になる。そして、殊更に自分の脈拍や呼吸に注意しない時には、それは常にあるものだが、殆んど無いと同様になる。また昼間であっても光線が我が身に注ぐことを遮断した時は、物を見ない事は前の場合と同じである。それからまた、失明した人が正座している時は殆んど前と同じになる。この三ツの場合に於いて、物を見ない事は一様であるか、或いは個々に差があるか、これは一寸面白い問題で、仏教に中にこの事を指摘しているのがある。
 それはさておき、五官の感触が殆んど無い場合に人はどんなものだろう。無念無想になって仕舞えばいざ知らず、面白いことは、生きている我というものがあることを自覚していて、そうして観照する時には、そこに一切の現象は消え去っていても、我という存在に従って、自然に我というものに「ムキ」というものがある事を誰しもが見出すだろう。魂もしくは精神に一定の立ち向かう方向が定められているという事は、漠然と魂魄や精神を論ずる人には思い付かないことであろうが、眼を明いている時と同じように、自然に我知らず、人の精神は前方は向かっているという事を感得しはしないか。これは人々が暗室で寂坐して、自身で検(しら)べて見たら分かるだろう。どうも自分の精神は自分の背中の方へは向いていないように感じられはしないか。これは、顔が前に向いているという生来の事実から養われた習慣の遺影であるか否かは知らないが、面白い事実だ。仮にこれを「精神の方向」と言ったらどうだろう。
サテ、この精神の方向というものがあると仮定すると、そういう無感覚正座の場合ばかりでなく、何かの仕事する場合にも無論、ある方向が時と事とによって存在するということになりはしないか、そして、人が突然恐るべき激変の事態に出会った時など、その精神の方向が殆んど見出されずに、云いかえれば一方に或る力が発射されないで、四方八方へ一時に飛散して爆発状態のようになった場合には、その人はまるで何が何だか分からないようになるのではあるまいか。即ち、精神の方向が無くなった場合に、いわゆる魂消(たまげ)るというので、魂が粉々になったような状態になるのではなかろうか。
 それも暫くサテ措いて、方向のある場合をもう一度考えると、それが筋肉に伴い、運動習慣に伴って具体的に現れる場合には、また一段と面白い現象がある。例えば左利きの人は左手で、他の人が右手でするように何でも能く出来る。徳川時代の文学者で、且つ書家で、且つ彫刻もよくした窪俊満は尚左堂といっただけに恐ろしく左利きだ。それで、文章には方向のないことだから暫く差し措くが、彼は浮世絵師としても立派な技倆を有していて、その絵はいかにも細かく且つ奇麗で出来映えがよろしい。どうしてこんなに左手でうまく描けるのかと思う位だ。しかし、その彫刻を嘗て見たが、それは自身のサッとした絵に自分が詠んだ狂歌を小さな盆に彫ったものであったが、彫刻になると流石に左手で刀を使ったナという味が見て取れた。それは絵では分かり難いが、文字をよく見ると、文字にはその文字を成り立たせる方向が存在するので、左手で右の端や下の方向で止まる事が多い文字を彫ったのであるから、小刀の止まり工合がどうしても右手で彫ったものとは違って見えるのであった。
日本や中国の字は、左上の隅から始まって右下の方に収まるのが多い。これは文字にも方向があるので、勿論一切のものに方向が無いということは無いから何も不思議はないが、大体において先ずそういう傾向を持っている。ところで、我々は日常は右手でこれを縦に書き、そうして左に行を移して行く。書によって我々の習慣はそのように養われてきている。そこで、右手で左文字を書こうとすると、ただ単に右手の筋肉の運動が左向きに動くには不随意のためというばかりであるなら、そんなに拙く書ける筈は無く、且つまた、誤った字画などを書くことも無いのであるが、著しくそこに精神上にも障害があって、うまく書けないということを誰もが気が付くであろう。これは、大雑把に云えば、習慣がさせるのだと云ってもいいが、確かにそればかりではない。また、筋肉のせいだと云ってもいいが、そればかりでもない。
 今もし、左手で字を書く場合に、左文字を書くと割合に容易に書ける。これは一ツの面白い事実である。左手に精神が働く場合には、右手に働く場合とは反対に、ちょうど裏返しに働くというように解釈しても差し支えない。もしそうだとすると、精神の発向の道は習慣によるにせよ、意識によるにせよ、また筋肉の構造によるにせよ、難しい道と易しい道の二ツがあるという事が明らかである。また、もう一ツこれを反対にして見ると、左文字を右手で書く場合には、ちょうど左手で普通の字体を書くと同様な困難を誰もが感じるであろう。
 ところが、左文字を右手で書いても容易に書き得る道がある。それは、どうすれば右手でうまく書けるかと云うと、筆を右手に持って、ちょうど洋文を書くように、紙へ横に左から右へ左文字を書いて行く、そうすると、当人が平常に右手で書く字体と同様な容易さで書けるのである。少し馴れると、その字を紙に裏返しにして縦にして見る時は、あたかも右手で平常に書いた文字の通りに、能く書けるものである。それから、左手で普通の文字を書こうとする場合には、左手に筆を持って、横に右から左へと書いて行く。あたかも洋文の書き方をただ方向だけ逆にしたように書くのである。そうすると、あたかも右手で普通の人が書くように書けるものである。私の知人の或る人は、左手で常に文筆に従事していたが、横行左移の書き方で実に立派な書を成していて、知らない者は誰も左手で書いたものとは思わない位である。俊満も或いは非常に細密な絵を書く場合には、そういう方法を執ったのではないかと思われる。
 こういういろいろな事実や試みを考えると、筋肉にも無論、右と左との差はあるが、精神発向の方向もまた、自然に方向があるように思われる。そうして、横行右移の洋文と縦行下移の我々の文を比較して考えると、西洋人の書法は、ちょうど我々の行き方を裏返しにして横にしたのと同じであると云い得る。或いは西洋人の行き方を裏返しにして縦にしたのが我々の行き方であるとも思った。
精神の働き方の面白いことは、例えば、一本の鉛筆を削るにも、我々は小刀を前方へ押し進める場合が多い。他国人は鉛筆を手前に引く場合が多いようだ。ノコギリの目立て方まで、自然と国によって押し切り、引き切りの違いがある。これ等いろいろな事を考えると、人の精神の働き方は全てにおいて違っているのではないが、働き方の方向が違っているという感じがする。精神発向の方向ということは、考慮に値しない事では無かろう。
(昭和六年一月)

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