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幸田露伴の小説「幽情記⑤ 共命鳥」

幽情記⑤ 共命鳥

 中国の明の末、清の初めは人材が輩出する。その中で江佐(こうさ)の三大家と称えられた者は、銭謙益(せんけんえき)、呉偉業(ごいぎょう)、龔鼎孳(きょうていじ)である。偉業は梅村(ばいそん)と名乗り、鼎孳は芝麓(しろく)と名乗り。芝麓は清の世祖に、「筆を下せば千言たちどころに成って思索を要せず、真に当今の才子なり」と嘆称させた者で、梅村は評する者をして杜甫や牧之の風情と白楽天の才思があるとされた者である。二人の俊敏で霊慧のほどが分る。謙益もまた大文豪であり、広博な学問によって実力を自在に発揮し、特に詩歌や文章で天下に名を馳せる。偉大であると云うべきである。
 謙益は字(あざな・通称)を受之(じゅし)と云い、牧齊(ぼくさい)と号し、また虞山蒙叟(ぐざんもうそう)と名乗り、さらに東澗遺老(とうかんいろう)と名乗った。江南地方の常熟の人である。明の萬暦の庚戌(こうじゅつ)に進士に及第して翰林院編修となったが、それからは、或いは斥けられて退き、或いは用いられては出仕して務めたが、役所勤めは険難な事が多く、時には刑部の獄舎に入れられたこともあった。高い樹には風は自然と烈しく当る、高位大官の者は安泰ではいられない。これは一ツには明の時代においては、朋党間での止む間もない争闘が繰り広げられたことにも因る。時代は既に明の勢威が衰えて流賊が大いに盛んとなり、崇帝十七年三月に首都が陥落して皇帝が死ぬと、謙益はたまたま下野していたが南京に赴いて諸大臣と共に潞王(ろおう)を立てて皇帝にすることを相談する。相談が纏まらない中に馬士英(ばしえい)や劉澤清(りゅうたくせい)等が福王を皇帝に擁立することを知り、謙益もこれに賛同して礼部尚書(礼部大臣)となる。しかし馬も劉も謙益を疑っていて、特に阮大鋮(げんたおせい)と云う者は謙益の敵なので、事を起こして謙益を誅殺しようとさえした。幸いなことに馬士英が事を起こすことを望まなかったことで無事を得たが、上に立つ皇帝にはもともと明を再興する志が無く、実務に当る臣にも雄材が無く、明の晩期はついに見るに足る者無く、弘光元年には南京を清に陥落させられて、弘光帝と共に謙益も出て降伏した。
 国亡んで生き延び、節操を欠いて官職に着いた謙益の所業は、後の人の厭い憎むところだが、尋常でない才能は礼部右侍郎(礼部局長)の職に着いて秘書院学士の事を管轄する。しかし流石(さすが)に清に仕えることは心よくなかったのか、老病を理由に職を辞退して故郷に閑居すること二十年、康煕(こうき)三年八十三才で卒(みまか)る。謙益の一生は大略このようである。長寿であったが得意の時期は実に短く、官職においては変転あわただしく、謙益が朝廷に立って栄えた時期は僅かに五年未満だった。福分は少なかったと云えよう。
 牧斎(謙益)は書においては、経史百家から仏典や道籍や民間伝説に至るまで読まないものは無く、その該博な知識で筆を執っては紙に臨んで思いのままに記述する。それは例えば大金持ちが楼閣林園を造るのに、美しい高大な建物や優雅な泉水や庭石を思いのままに現出させるようなことで、その自在で豊麗なことは人を嘆称させる。沈徳潜(ちんとくせん)はこれを評して、「金銀銅鉄を合わせて一ツのものを作る。」と云って牧斎の詩文を論じ尽くす。閻潜邱(えんせんきゅう)は牧斎の文を批判して、「牧斎の古文の名声は最も重い、独り私はその文を佳くないとする、思うに古文には古めかしい趣きが欲しいが、牧斎の古文には修飾がある。古文は単行でありたいが牧斎の古文は対句になっている」と云う。その言葉は能く牧斎の弱点を指摘している。しかしながら、李攀龍や王世貞ら古文辞派の模倣や鍾惺や譚元春の詭弁にも陥らずに、言おうとするところを言って流暢でよく通じるのが牧斎の文である。また沈徳潜がその詩を貶して、「巧緻は余りあるが表面的で正声ではない。」と云うのも悪口とは言えない。しかも杜甫を中心に韓愈・白居易・温庭筠・李白・蘇東坡・陸游を学んで、絢爛で老成なのが牧斎の詩である。その人の節操が無く卑しいことで、その詩才を不美として軽んじてはいけない。康煕帝の世では臣の忠節を奨励し、人心を正しくする議論があって、牧斎の著述や詩文は悉く廃棄すべしと命じられたが、その「有学集」や「初学集」以下「楞厳経鈔」等は今に至るまで遺っている。死後の災危や遺文の迫害によって牧斎の運も窮まること甚だ過酷であったが、この迫害のために牧斎の美が却って顕われたとも云える。
 魏忠賢が権力を握ると思いのままに忠臣良臣を陥れて酷烈を極めた。東林党の一派は一日として迫害を受けないこと無く、また忠賢に媚びる者は焔を煽り威を揚げて他を斥け出世を計る。崔呈秀と云う者は忠賢に媚びて、天鑒録(てんかんろく)や同志録や点将録を差し出し、党人の姓名を注記する。忠賢はこれを帝に奉じて聖書としたと云う。その天鑒録は初めに東林党の党員を列挙し、次に東林党に賛同する者を列挙し、また別に真心(しんしん)を以って国の為を思い、東林党に付かない者を列記する。同志録は詞林部院卿寺を列挙し、台省(だおせい)を列挙し、部属を列挙して記す。点将録に至っては東林党の党員を「水滸伝」の百八人の盗賊に擬(なぞら)え、葉向高(ようこうこう)を及時雨(きゅうじう)とし、楊漣(ようれん)を大刀(だいとう)とし、李三才を托塔天王とし、忠賢の嫌う者をその才能性格風貌によって、悉く「水滸伝」の大盗賊の綽名(あだな)を付ける。その中で銭謙益を名付けて浪子(ろうし・遊蕩青年)とする。「水滸伝」の浪子燕青(えんせい)は水滸百八人中第一の風流(ふうりゅう)慧巧(けいこう)の人である。浪子に擬されたことで謙益の人品は推して知ることができる。(谷氏記事本末七十一)
 牧斎の愛妻を柳夫人(りゅうふじん)と云う。舒仲光(じょちゅうこう)の「柳夫人伝」では、文を簡潔にするためにその氏名の詳記はない。夫人の本性は楊、名は愛児、またの名は因、また是とも云う、字は如是(にょぜ)、号(名乗り)を河東とし、影憐とし、蘼蕪(びぶ)ともしたと云う。不幸にして早くから南京遊郭の芸妓となった人である。風流で温雅、画を能くし、詩を能くし、好んで読書に励み教養を身につける。その容姿の美、技芸の精は、当時に冠絶して三千の芸妓を圧倒するものがあり、当時の公子才人は争ってこれに押し寄せ、花の下に車を停める者、柳の陰に馬を繫ぐ者、次々と来ては絶える間がない。如是君と同席して言葉を交わしては、大きな宝石を得たような、美味な桃を味わうような思いをする。それなので金銭を軽んじて誠を表わし、千篇の詩を寄せて才能を示して、願わくは君と一生を共にしたいという者も多かったが、如是君は意に介せず心密かに牧斎を思って、虞山(ぐざん)の隆準公(牧斎)は未だ古今を凌駕するとは言えないが、一代の英雄を圧倒する人であるとして、その才能に心服して之を重んじている。牧斎もまた紅灯の中に如是の奇美を認め、緑酒を取り交わす中で満たされない志を察して、「昔の人も、蓬島(ほうとう)に遊んで桃渓(とうけい)に宴(うたげ)しても、美人を一度(ひとたび)見るには及ばないと云う、私の人生に此の人無しでは居られない」として、ついに幣(かね)に委せて如是を迎え入れる。如是は願い牧斎は望む、如是は所を得て牧斎は人を得る。金襴の好み夫婦の情は、どんなに濃やかであったことだろう。牧斎は山荘を築いて紅豆(こうとう)と名付けて、妻と共にその中で吟詠し、茶と香と美しい床と座禅板の楽しい日々を送った。
 紅豆はまた相思子(そうしし)とも云う。蔓性の常緑樹で高さ一丈余りで莢(さや)を付け中に実を結ぶ、その大きさは豌豆(えんどう)ぐらいで鮮やかな紅色をして甚だ可愛らしい。紅豆は嶺南地方の暖地に産し中央の地では稀である。昔ある人が遠い異境で亡くなったが、その妻は夫を思いその木の下で慟哭して死んだという伝説があって相思子の名がある。そのためその実のしおらしい美しさ、その名のなつかしい韵(におい)に、唐以来の詩人でこれを詠じる者は多い。牧斎の山荘にこの樹があって、この樹の伝説を愛して、その名を採って山荘の名とする。牧斎の詩句に云う、

  青袍(せいほう)便(すなわ)ち官を休(や)むるに擬して好し。
  紅粉還(かえ)って道(どう)に入るを能くするや無(いな)や。
  筵(えん)散じ 酒醒めて 一笑を成す、
  髩絲(びんし) 禅榻(ぜんとう) 正に疏蕪(そぶ)たり。
 (青い袍は官を辞めた身に似合う。化粧を落として入道を能くするのかどうか。禅榻に座った白髪頭は正に蕪のように見え、宴を終えて酒も醒めて大笑いする。)

 辞(ことば)の中に、如是の日常の化粧しないことが見え、牧斎の平素の茶前酒後の様子も知れる。思うに如是の眼には蘇東坡があって、牧斎の胸には朝雲があったのではないかと伝記作者は云う。牧斎が如是を愛重する余り、実名を言わずに、或いは柳君と云い、或いは河東君と云うとある。今「有学集」を調べて見ると果してその通りである。当時の人が柳夫人と称したことも事実であろう。
 牧斎の「有学集」巻の第九、第十一に収録されたものを紅豆集と云う。紅豆二集を看ると、この樹は花の咲かないこと二十年たった辛丑の夏に初めて数枝に花を咲かせる。銭曽(如是)が八絶句を作り牧斎がこれに和した作がある。秋になって河東君(如是)が小童を使って枝を見させたところ僅か一顆だが実をつけていた。牧斎はこれを喜んで絶句十句を作る。銭曽(如是)がこれに和した詩がまた十首ある。牧斎はこの時すでに老いてはいたが、山荘に閑適し、詩酒に優遊して、夏には紅豆の紅い花が香り咲くのを看、秋には紅豆が高樹を覆い、赤い実が枝に成るのを得る。その喜びはいかばかりか。まして文名は世に高く、愛妻は内に在って詩文推敲の友となり詩文応酬の人となる。徐芳(じょほう)は記して云う、「牧斎は詩句が出来ると腰元を遣(や)って「どうだ」と誇って示す。柳夫人(如是)は直ぐさま詩句に対して素早く応答する。未だ嘗てその立場を変えることは無かった。或いは柳夫人の句が先に出来ると腰元を遣って報告する。牧斎は力を尽し、痛ましいほど工夫をし、その上へ出て圧倒しようとする。成って並べて看れば、相応のものを得る。牧斎の強く壮んな詩には柳夫人は未だ到らないが、柳夫人の上品であでやかな美しい詩には牧斎も時にこれに譲る。時には自信の作を互いに誇示し合って、二者の間はまるで敵国のようであった」と。これは誇張も甚だしい。柳夫人に才能があると云ってもそのようなことは無かったであろう。その詩人の伴侶として恥じないものは実にここにある。「有学集」巻第九に載せる採花醸酒歌は牧斎自ら河東君(如是)に示すと記す。およそこのような詩藻豊かな長篇は、柳夫人に詩文の才能が無ければ示すことは出来ないことである。
 しかしながら柳夫人が伝わるのは、書を能くし詩を能くするからではない。またその美貌と敏才によるのでもない。南京遊郭出身の卑しい身で、当時の風流大臣が身請けしたことによるのでもない。嘗て鴛鴦湖(えんおうこ)の舟中で詞壇の長者に百韻の詩を賦させたことによるのでもない。また詩中の句に柳夫人を称揚して、「瑤(たま)の光、朝(あした)に碧(へき)を孕み、玉の気(ほとぼり)、夜(よわ)に玄を生ず(瑤の光は朝に碧(あお)を含み、玉の気は夜に玄(くろ)を生ず)」といって、柳夫人の誕生を讃えて、「繊(ほそ)き腰は蹴鞠(けまり)に宜しく、弱らかなる骨は鞦韆(ふららこ・ブランコ)に称(かな)う。天も投壺(とうこ)の為に笑み、人は争博(そうはく)に従いて顚(くる)う。(細い腰は蹴鞠(けまり)に宜(よ)く、弱らかい骨はブランコに適する。天もサイコロ壺の為に笑み、人は賭博に狂う。)」と云い、柳夫人の肢体を褒めて薄病・軽寒・清愁・微笑の八字を点出して、柳夫人の風貌を讃えたためでもない、牧斎が柳夫人を納(い)れる時の詩に、

  銀(しろがね)の缸(ともしび) 壁を照らして 還(また) 影を雙(なら)べ、
  絳(くれない)の蝋 英(はな)に注いで 総(すべ)て 心(しん)を一にす。
  地久しく 天長く 頻りに語を致し、
  鷥(らん)歌い 鳳(ほう)舞い 並びに音(いん)を知る。
 (銀燭の灯(ともしび)は壁を照らし影を並べ、紅いローソクは花を照らして、総べて心を一ツにする。天地には久しく長く言葉も無く、鷥(らん)は歌い鳳(ほう)は舞い、そして音楽を知る。)

等の句があるからでもない。柳夫人が牧斎に嫁ぐことを喜んで牧斎の詩に和す者は当時の有名人に甚だ多く、沈景倩(ちんけいせん)は、「廻文(かいぶん)の詩就(な)って重ねて錦(にしき)に書き付け、無線の衣(い)成って自ずから霞(かすみ)を剪(き)る」と云い、馮定遠(ひょうていえん)は、「紅葉直ちに下(お)りて方(まさ)に藕(ぐう・蓮花)を連(つら)ね、絳蝋(こうろう・赤いローソク)僅かに焼(た)いて巳(すで)に心(しん)を見る、ただ鴎雛(おうすう)を取って鬢(びん)の様(かたち)と為し、間(かん)に鳳語を調えて笙(しょう)の音(こえ)を作(な)す」と云ったからでもない。柳夫人を語る理由は別にある。
 甲申(こうしん)の変は実に明朝転覆の始まりで、皇帝が縊死して都城は陥落する。明の臣下は正に国難に殉じるべき時である。柳如是は女性の身ながら児女のような態度をとらずに、牧斎に身を捨てて国に殉じて玉砕することを勧めたと云う。牧斎の性質は弱く、如是の意気の烈々に及ばず、無節の人となって後人の指弾を受ける。牧斎を伝える価値はないが、如是は実に伝えるべきものがある。
 弘光元年に南京が落ち福王が降伏すると、謙益(牧斎)は清に仕えて用いられる。もし謙益が死ねば如是がどうして生きよう。明が滅んでも必ずしも謙益は死ななくてもよいのである。則ち山谷に隠居して微碌な者の仲間となって暮らせばよいのである。であるのに、大臣の身で清朝の臣下となって官命を受ける。思うに清の要請圧迫を免れることが出来なかったためであろうが、謙益のためには悲しむべきことである。当時の如是の胸中の鬱屈はいかばかりか推知するに難くない。このようにして謙益は温柔(おんじゅう)に世に処したが、文章の盛名と顕貴の官歴は、上は之を疑い、人は之を憎み、讒訴を飛ばし弾劾をする情勢となって、清の順治四年三月晦日に何事も無く家に居た牧斎は、急遽召されて獄舎に投ぜられる。その時如是は病気にかかって床に臥していたが、これを聞いて決然と起って身を省みず謙益に随行し、「貴方、心を強くお持ちください。貴方に罪の無いことは私がよく知っています。請願の書を奏上して私が代って死ぬように致します。それでも貴方が赦されない時は、貴方と共に墓に入りましょう。」と慷慨して雄々しく言えば、牧斎もどんなに嬉しく思ったことか、後に自ら記す文に、「私もまた、それによって元気が出る」と載せている。急な投獄に牧斎は前途を危ぶんで、獄中は執筆厳禁のため書をおくる手段も無いが、流石に牧斎老は詩人である。昔、蘇東坡が弾劾された時に御史台から妻に出した詩を思い出し、その韻に和して詩を作り死が決まった時の如是に対しての決別の辞にしようと、風に臨んで暗誦し、不覚の涙に暮れたと云う。その詩が今六章を「秋槐集」に遺す。その一に云う、

  朔気(さくき) 陰森として 夏も亦凄(すさま)じ、
  窮盧(きゅうろ) 四(よも)に盖(おお)いて 天の低きを覚ゆ。
  青春 望みは断ゆ 帰りを催すの鳥、
  黒獄(くろごく) 声は沈む 暁を報ぐるの鶏(とり)。
  慟哭 江(こう)に臨みて 壮氏無く、
  従行 難に赴く 賢妻有り。
  禁ぜず 重囲(ちょうい) 郷(きょう)に還るの夢、
  却って淮東(わいとう)を過ぎて 又浙西(せっせい)。
 (北方の寒気は陰森として夏も凄しく、暗い空は四方を盖い天を低く感じる。帰りを催す鳥に青春の望みを断ち、牢獄に暁を報げる鶏の声は沈む。江に臨んで慟哭するも壮氏無く、従行するに難に赴く賢妻有り。郷に還る夢の、却って淮東を過ぎて又浙西へと重囲するのを禁じない。)

 慟哭従行の一聯(いちれん)は、門弟は甚だ多いが頼みに出来るものは無く、頼みは家人(かじん)一人だと言って、凄冷(せいれい)の懐(おもい)、感謝の意を表す。獄の夜の郷(さと)の夢、さぞかし牧斎は如是と手を取って泣いたことであろう。その二の腰聯(ようれん)に云う、

  肝膓(かんちょう) 迸裂(ほうれつ)す 題襟の友、
  血涙 糢糊たり 織(しょく)錦(きん)の妻。
 (腸(はらわた)を裂く唱和の詩友、血や涙にくれる流人の妻。)

 唐の段成式(だんせいしき)や温庭筠(おんていきん)等が唱和した詩集を「漢上題襟集」と云うことによって肝膓の句がある。晋の竇滔(とうとう)の妻の蘇若蘭(そじゃくらん)が夫の流沙(りゅうさ)に移されたことを思い、錦の上に廻文旋図の詩を織って贈った故事によって、血涙の句がある。如是を蘇氏と比べたのである。その三には、

  命(めい)を並ぶ 何か当(まさ)に 石(せき)の友に同じかるべきぞ、
  囚を呼ぶ 誰か為に 章が妻に報ぜん。
 (運命を共にするは何か当に、石崇の友と同じことであることか、囚人を呼ぶ声は誰の為に王章の妻に報じる。)

の一聯がある。石崇(せきそう)の友の潘岳(はんがく)の「白首帰(き)するところを同じゅうせん」の詩句は予言的で、共に囚われた故事によって前の句がある。王章が獄に繫がれた時に、囚人を数え呼ぶ声を聞いて、その数が一ツ減ったことで、我が夫が殺されたことを妻が知った古話によって後の句がある。呼囚の句に牧斎の当時の窮状と如是の平生の機敏さを察することが出来る。其の四に、

  夢は虎穴に囘(かえ)りて 頻りに母を呼び、
  話(わ)は牛衣に到って 更に妻を念(おも)う。
 (夢は獄舎に帰りて頻りに母を呼び、話は牛衣の個所に到って更に妻を思う。)

の句がある。虎穴は獄舎の名。牛衣は王章が困苦のあまり牛衣の中に臥せ、妻との別れに際し啼泣した時に、妻がこれを励まして、疾痛困苦に自ら激昂せずに啼泣するとは何んと卑しきやと言った故事である。その第六章の後半に云う、

  後事は 従(まか)す他の手を携える客に、
  残骸は 付与せん眉を画くの妻に。
  可憐なり 三十年来の夢、
  長白山の東 遼水の西。
 (後事は他の手を携える客に任し、残骸は眉を画く妻に与えよう。可憐であった三十年来の、長白山の東・遼水の西での夢のくらし。)

 蘇東坡の詩にたまたま妻の字があることに因るとは云え、牧斎が如是を愛し如是を重んじることは、この詩によって詳しく知ることができる。そして如是が嫋(たお)やかな身体の中に凛冽の気象を有していたことを徴知(しょうち)すべきである。牧斎は伝えるには不足だが、如是は実に伝える価値がある。
 牧斎は獄舎に在ること四十日で無事家に還ることができた。夫妻の喜びはどれほどであったろう。その後は平安な月日を送っていたと思える。庚寅(こういん)の年の人日(じんじつ)の節句に、内に示すの詩が二篇ある。如是に示したのである。その一の末に、

   閨中 刀尺の好きに憑仗(よりたの)みて、
   春色を剪裁して 先庚(せんこう)を報ず。
 (寝室では縫物好きを頼みに、春景を剪裁して先祖に報いる。

 その二の一聯に云う、

  花は図して 却って喜ぶ 同心の帯(たい)、
  鳥を学びて 応(まさ)に師とすべし 共命の禽(きん)。
 (同心の帯に花を画いては却って喜び、共命の鳥に学んでは正に師とする。)

と。雑宝蔵経に共命鳥は雪山(せつざん)の鳥で一身で二頭と記されている。牧斎が如是を大事にする状(さま)が想像できる。如是の和韻の詩が二篇ある。その一の末に云う、

  新月半輪 灯乍(たちまち)穂(ひい)づ、
  君が為に酒を酹(そそ)いで長庚を祝す。
 (新月半輪の灯、忽ち出(い)ずる、君の為に酒を注いで長寿を祝す。)

 その二の頷聯(がんれん)に云う、

  地は劫外(ごうがい)に於いて 風光近く、
  人は花前に在りて 笑語深し。
 (地は郊外に於いて風光近く、人は花前に在りて笑語深し。)

と。如是が淑やかに、穏やかな時を楽しんでいる様を見るが善い。このように牧斎夫妻は、栄華を誇ることこそ無かったが、清間を楽しみ暮らして幾年、その間に牧斎が晩年の仕事としていた「明史」は未(いま)だ成らないうちに、書庫のある絳雲楼と共に灰燼(かいじん)となる惨事があった。それからは牧斎はいよいよ仏道に潜心して、貧苦が次第に募り負債が山のようになる悩みもあったが、猶その日その日の平安を得ていたが、庚熈六年(七年とも云う)牧斎が病んで死ぬと、悲風がたちまち吹き下ろし秋蘭はポッキリと折れる。
 牧斎は負債が多かった上に、晩年は益々窮乏して苦しんでいたが、それだけでなく、後継の子息は柔弱で才幹も気骨も無く、そのため郷里の有力者達は心中これを侮って、且つは銭家の家名が盛んなことを妬ましく思い機会が有ればと隙を伺っていたが、牧斎の死を聞いて、その者共が忽ち群がり起って、負債を求めることを口実に銭家に押し寄せ、騒ぎ罵ったり、壁を叩いて衝撃を与えたり侮辱の限りを極めて、牧斎の家を壊して婢妾までも奪おうとする勢いを示した。牧斎の子は心が弱いので魂を失ったようになって、出るに出られずただ茫然とするだけであった。如是は牧斎の死の時から既に殉じる心で居たが、ここに際してハラハラと涙を流し起って云う、「私がこれ等に対応します。」と、そして小悪党共に告げて、「故人がどうして汝らに借財があると云うのか、又たとえ借財があるとしても故人のことである。私どもの知るところではない。逃げも隠れもしない、しばらく待て。」と云う。小悪党共も云うだけ云ったので矛を収めた。その夜、如是は血を以って訴訟の文を書き、子悪党等が勢い込んで弱気を侮り、憂いに乗じて辱めを与えたことを切々と書いて、使いを遣って官に訴えた。その後で自身は心静かに縷帛(くみいと)を取って項(うなじ)を結び、死生を一瞬に超え娑婆を瞬時に出て、身を亡き夫の霊牀の近くに損(す)てて、如是の魂は飄揚として牧斎の後を追う。鳥を学んで応(まさ)に師とすべし、共命の禽とあった偶然の一句も象徴的で、死生に亘って追随仕合ったのは、どれほどの深い縁(えにし)であったことか。
 役所は柳夫人の訴えを見て大いに銭家に同情したが、間もなく柳夫人の死を聞いて、小悪党共を捕らえて、脅迫して人を死なせた罪に処す旨の嚴命を発する。これを聞いた小悪党等は皆逃げ隠れて、周囲に近づかなくなって事は自然と解決する。柳夫人の出身は卑しいが、その心は甚だ烈しい。呉の人々は此れを憐れみ此れを美として、詩を作り誄(るい)を作る。その多いこと冊を累ねるという。牧斎は伝えるに足らずとも、如是は実に伝える価値がある。
 柳如是の作る詩画、今も世はこれを愛重する。花の顔(かんばせ)は已(すで)に亡(な)いが、堅いその思いやりの心は長(とこ)しえに遺(のこ)る。人はその美に価値を見ることなく、その義に価値を認め、称えるが善い。
(大正五年九月)

注解
・翰林院編修:国家学芸院の編修職。
・明の晩期の状況:李自成の農民反乱によって明が滅亡すると,勤皇の志士が明の遺王を擁立して明を再興しようとした。最初謙益は諸大臣と共に潞王を立てよとしたが、馬士英等が福王を皇帝に擁立することを知り賛同する。福王は南京で即位し南明政権を成立させ弘光帝となる。しかし、王が暗愚で、政権内部もまとまらず、清に滅ぼされる。・
・沈徳潜:中国・清の学者で文人。
・閻潜邱:中国・清の学者。
・李攀龍:中国・明の詩人、文人。古文辞派。
・王世貞:中国・明の学者で政治家。古文辞派。
・古文辞派:中国・明で起こった文学運動の一派。文学は「史記」等の古典の文章、杜甫等の盛唐の詩を模範とすることを良いとする。
・鍾惺:中国・明末の詩人。竟陵派。
・譚元春:中国・明末の詩人。竟陵派。
・竟陵派:古文辞派の模倣を否定して自己の真情を重視する。鍾惺や譚元春の出身地の名を取って竟陵派と云われた。
・魏忠賢:中国明代の宦官。政務に関心を持たない天啓帝に代わって政務を掌握し、専制権力を握る。
・東林党の一派:魏忠賢と勢力を争った一派。
・頷聯:漢詩の律詩は八句でできていて、一・二句を起聯、三・四句を頷聯、五・六句を頸聯、七・八句を結聯と云う。

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