幸田露伴の小説「幽情記⑪ 金鵲鏡」
幽情記⑪ 金鵲鏡
「往時は渺茫(びょうぼう)としてすべて夢に似たり、旧友は零落し半(なか)ば黄泉(よみ)に帰す。これを水と言はんとすれば、即ち漢女が粉(ふん)を添える鏡清瑩(せいけい)たり。花と言はんとすれば蜀人が文(ぶん)を洗う錦なり。我とても娑婆の故郷に立帰らば、錦の袴、君が為。昔を語り申すべし。夢驚かし給うなよ。(往時は遠く遥かに霞んですべては夢のようである、旧友は零落し多くは冥土の人となる。これを花の映る水にたとえれば、漢の美女が化粧する鏡のように清く輝き、水に映る花にたとえれば、蜀の人が花柄を洗う錦のよう。私とて現世に立ち帰れば、故郷に錦を飾り、お前の為に昔のことを語り申そう。決して驚き給うなよ。)」
これは謡曲「松山鏡」にある孝女の母の霊が現われる場面での詞(ことば)である。サテその次は、
「唐土(もろこし)に陳氏とて、賢女の聞えありけるが、世の習い、思わずも夫遠行の仔細(しさい)あり、これや限りと思いけん、形見の鏡を破(わ)れて猶(なお)光ぞ残る三日月の、宵に待ち、明けては恨み、文も絶え、主も来ず、憂き年月を古里の、軒端の荻の秋更けて、風の便りに伝え聞けば、夫は楚の国の主となり、あらぬ妹背(いもせ)の川波の、立帰るべき様(よう)もなし。さては逢うことも叶わずに、かたみの鏡我ひとり、涙ながらに影見れば、半月は山の端にうち傾いて、泣くような、為(せ)んかたもない折節に、何処(いづこ)よりとも知らざりし、鵲(かささぎ)一羽飛び来たり、陳氏の肩に羽を休め、飛びめぐり飛びさがり、舞うよと見えしが不思議やな、有りし鏡の破片(われ)となり、故(もと)の如くになりにけり。満月の山を出で、碧天を照らす如くなる。これや賢女の名を磨く鏡なるべし。(唐土に陳氏と云う賢女で名高い女性がいたが、世の常で、思いがけず夫が遠方へ行くことになって、これを限りにモウ逢えないと思って二ツに割った形見の鏡、割って猶も光って残る三日月のような破れ鏡、宵は待ち明けては恨み、便りも途絶え、主も来ず、辛い年月を古里の軒端の荻の秋更けて、風の便りに伝え聞けば、夫は楚の国の主となり、離れ離れの間柄、立帰るような様子もない。サテは逢うことも叶わずに、形見の鏡に我ひとり、涙ながらに影見れば、半月は山の端にうち傾いて、泣くような、どうしようもないその時に、何処(どこ)からとも分からない、鵲(かささぎ)一羽飛んで来て、陳氏の肩に羽を休め、飛びめぐり飛びさがり、舞うように見えていたが、不思議にも旧(もと)の鏡の破片(われ)となり、二ツの破片は旧(もと)のように合わさって、満月が山の端を出て碧天を照らすようになる。これぞ賢女の名を磨く鏡であろう。)」とある。
破鏡の話の本(もと)は二ツある。一ツは「神異経」で、もう一ツは「本事詩」である。
「神異経」は東方朔(とうほうさく)が著わしたと云うが、実際は東方朔の名を借りた晋以降の偽作であう。しかし隋以前の書であることに疑いはない。その中に記す、「昔、夫婦があり、別れる時に鏡を割って各自一ツを持って信(たより)とした。その妻が人と情を通じると、鏡は鵲(かささぎ)に変って夫のもとに飛んで行き、夫はこの事を知る。後人はこれによって鏡を鋳(い)る時は鵲を作って鏡の背面に置く」と。
実際に支那(中国)の習俗に於いては鏡の背面に鵲を鋳ることは常習のことと見えて、李白の詩の句にも、「影中の金鵲(きんしゃく)飛びて滅せず、台下の青鸞(せいらん)思いて絶えなんと欲するなり、又、明々たり金鵲の鏡、了々たり玉台の前」などとあり、李嶠の詩の句でも、「清輝鵲鍳(しゃくかん)飛ぶ」などと云っている。
しかし、鏡(きょう)背(はい)に鵲を鋳ることは、「神異経」に記す伝説が先にあった後に起ったことでなく、鵲を鋳ることが前々からあって、後に伝説が生まれたのかも知れない。また「詩経」の召南の鵲(しゃく)巣(そう)の詩に、「維(こ)れ鵲巣(しゃくそう)あり、維れ鳩これに居る、この子ここに帰(とつ)ぐ、百両これを御(むか)う、」と云うのを序章とする三章の詩であるが、その詩の意味は夫人の徳を美しいとするのである。これによって女性の用具である鏡に鵲を置くと云ってもおかしくはない。
また鵲は七月の初め頃、首の羽が脱けて禿になるが、それは七夕になると天の川に橋を造って織女を渡すのでそうなるのだと云う伝説がある。「雲輧(くものおんなぐるま)鵲橋を渡る」などと云う権(けん)徳(とく)与(よ)の七夕の詩や、「彦星の行合(ゆきあ)いを待つ鵲の渡せる橋を吾に貸さなん」と云う菅原道真の歌の句なども、皆この伝説に本(もと)づいている。星の夫婦の契りが永遠であるのもこの鳥の力によるものなので、これによって女性の用具の鏡に鵲を置いたとも、云えば云えるだろう。
それはともかく、「神異経」の中の鏡の話は、「松山鏡」の中の鏡の話と鏡の片方が鳥になるということが似ているが、その他の事は同じではない。
「本事詩」は唐の孟棨(もうけい)が著わしたもので、その情感の篇に記す。陳国の太子舎人の徐徳言(じょとくげん)の妻は後主叔宝(しゅくほう)の妹で、楽昌公主に封じられた。才色勝れ、並ぶ者が無いほどであった。しかしこの時すでに陳国の運も末となって、世は騒がしく国も亡びようとする時なので、無事では居れないことを知って、徳言は妻に対(むか)って「大層恐ろしい世になった。こうなっては、私はかえって貴方の禍(わざわい)の種子となろう、貴方の才能と容姿なら国が亡んでも必ず権門貴人の家に入ることもできよう、私はどうなっても構わないので此処で永い別れをしよう、もし猶も天運が幸いして情(なさけ)の縁が断えなければ、また逢いたいと思う、また逢うまでの形見に」と、一面の鏡を打ち破り各々その片方を取り、約束して云う、「いつか必ずこれを正月の満月の日に都(みやこ)の市で売り給え、私がもし生きてこの世に居れば、都に上って市で破鏡を売る者を探し訪ねるから」と云う。間もなくして乱が起り、人は右に左にと逃げ惑い、陳国はあえなく亡んでしまう。
徳言の妻は生き永らえて、はたしてその美しさのお陰で越国公の楊素(ようそ)の家に移し入れられる。楊素は文武を兼ね備えた当時の英雄で、陳国を亡ぼしたのも殆んど楊素の功績によるものであった。そのため隋帝はこれに酬いて越国公に封じ、かつまた陳主の妹と妓女十四人を賜った事が、「隋書」巻四十八の楊素の伝に出ている。若い時から豪放で大志を抱き、博学で文章も巧み、しかも智力鋭く、能力高く、戦えば勝ち、攻めれば取り、ある時に妻の鄭氏を叱って「我がもし天子になれば、さぞかし其方(そなた)は皇后となるに堪えられないことであろう」と云ったと伝わる。楊素の館に閉じ籠められた公主はどうすることも出来なくて、暁の風の音、夕べの雲の色、見るもの聞くもの、味気なく暮らしていた。また徳言の方では国が亡んで国主が捕らえられるという大変事に、辛くも命を保ち、散々な辛苦の果てにようやく都にやって来た。かねて誓いの正月の満月の日になって、妻がもし生きていれば鏡の半分を売るだろうと、旅の疲れも何のその、その日の市にヨタヨタと出かけて行った。疑いの心は弱く、憂いの眼は暗く、市のありさまを覗(うかが)えば、西にも東にも多くの人が群がって、売る者買う者が声々に騒ぎ合う中に、笑いどよめく一団の人垣がある。何かと思って見ると、御屋敷の下男と見える男が、破れた鏡の半分を高く差し上げて、「欲しい人は無いか、値は百両」と叫ぶと、馬鹿だ気ちがいだと人々が笑い罵っているのである。徳言は胸躍らせ慌てて近づいて、もしやそれではと見ると、間違いなくその鏡であった。直ちにその人を連れて我が宿に着き酒食でもてなし、鏡を売る事情を訊きただせば、男はただ主人の命令でやっているのだと云う。主人は誰かと落ち着いて問い尋ねて、ついに詳しく旧妻の現状を知ることが出来た。楽しかった寝屋(ねや)の睦言(むつごと)、さみしい今のあばら屋のひとり身、変れば変わる有り様に、彼を思い此れを思って感慨止み難く、吾が懐(ふところ)をかき探り取り出した片割れと、男が持ってる片割れを合わせると、ピッタリ一致した。けれども因縁は元に戻り難いと、ガックリとして詩を作って云う、
鏡と人と 倶(とも)に去りしが、
鏡は帰りて 人は帰らず。
無し復(また) 嫦娥(じょうが)の影、
空しく留(とど)む 明月の輝(てり)。
(鏡も人も共に別れ別れになったが、鏡は帰り人は未だ帰らない。名月は空しく輝いている。)
辞(ことば)尽きて情(おもい)尽きずとは、このようなことを云うのか、徳言が此の詩を男を介してその主人に渡せば、徳言の妻はこれを見て、涙を流し顔も挙げられず、思い迫って食事もとれなくなった。楊素は聡明で覚りの早い人なので、これを見て何か事情でもあるかと下女を使ってその事情を知ると、悲しみに心を傷め、威儀を正して、徳言を召いてその妻を還した。そして多くの贈り物を取らせ思いのままにさせた。徳言夫妻の喜びはいかばかりであったことか。夫妻が恩を感謝して帰ろうとする時に、楊素は徳言の妻に詩を作らせる。その詩に云う、
今日は 何の遷(せん)次(じ)ぞ、
新官 旧官に対す。
笑うも啼くも 倶(とも)に敢えてせず、
方(まさ)に験(おぼ)えぬ 人と作(な)るの難きを。
(今日は何の遷り変りの時か、現主と旧主が対面する。笑うことも無く泣くことも、共に出来ない。正に人としての難しさを経験する。)
破鏡は再び一ツの鏡となり、夫婦は江南の地で一生を終ったと云う。
「松山鏡」の中の陳氏の物語は、その鏡が鵲となるところは「神異経」の記述と同じであるが、しかし内容は「神異経」の話と違っている。陳氏の名は「本事詩」にあるが、「本事詩」の話には鏡片が鵲になると云う話は無い。「神異経」の話と「本事詩」の話が一ツになって陳氏の名を用いたもの、これが「松山鏡」の話である。「松山鏡」の作者は何故このような事をしたのか。なお考える余地がある。
陳氏と徐の分鏡のことは勿論面白い話で、戯曲や小説の好題材である。そのため元の沈和(ちんわ)甫(ほ)と云う者はこれを書いて、「分鏡記」を作る。和甫、名は和、杭州の人、詞文を能くし、音律に通じる。元曲における南調と北調の合体はこの人から始まると云う。「瀟湘八景」や「歓喜冤家」等の元曲は、巧妙を極めていると称えられる。元の第一流の元曲家関漢(かんかん)卿(きょう)に間違えられることからか、蠻子(ばんし)関漢卿と呼ばれたとか云われる。「分鏡記」は元曲選中に収められている。
楊素の事が戯曲に入っているものに、別に陳氏と徐の事に似ているものがある。名高い「紅払記」がこれである。「紅払記」は、唐の李靖がまだ出世する前の時に、楊素の侍女紅払と相愛の仲となりこれを盗み去ったことを記す。その時楊素は李靖を追わなかった。これは陳氏を咎めずに徐徳言に与えたようなことで、これも珍しい。楊素は寛大な長者とはいえないが、「三略」に云うところの英雄の心を持つ者であると「史」は称える。楊素に従って戦った者は、僅かな功であっても必ず記録される。そのため残忍であっても部下は楊素に従うことを願う。楊素の人となりはこのようであった。楊素が何で婦女を惜しんで将士を失うことがあろう。コレが「分鏡記」や「紅払記」等の出る理由である。そしてまた実に楊素は宮室を壮麗にし、侍妾を艶美にすることを好んだので、その才気と男気溢れた雄偉な人柄は劇中の人として格好の人と云える。陳氏と徐の事は唐代の頃に語り伝え聞き伝えられて、誰もが知る情話となったものとみえる。李商隠の詩に、「越公の房妓に代って徐公主を嘲(あざけ)る」がある。
笑うも啼くも 倶(とも)に敢えてせず、
欲するに幾(ちか)し これ声を呑むことを。
遽(にわか)に遣る 離(わかれ)の琴の怨みは、
都(すべ)て由る 半ばの鏡の明らかなるに。
応(まさ)に防ぐべし 啼くと笑うとを、
微(すこ)しく露わさん 浅きと深きとの情を。
(笑うことも泣くことも敢えてしないで、遽(にわか)に奏でる琴の別れの調べ、全ては二ツの鏡が一ツになったことに由る。正に笑うことも泣くことも無く、微かに露わす浅深の情。)
陳氏の詩の句をとって、新は浅く旧は深いと云う詩人の戯れは大層可笑しいと云うべきか、また「貴公主に代る」の作があり、徐徳言のもとに還えったと云えども、楊素の恩を憶わないことは無かったと詠んでいる。作者の李商隠は故事を借りて思うところを詠んだのか知らないが、陳氏と徐徳言の事は永く人口に膾炙して、我が国にも流伝し、おとぎ話にさえなっている松山鏡にも引用されることになったのであろう。
(大正六年一月)
注釈
・東方朔:中国・漢の文人。
・李白:中国・盛唐の詩人。
・李嶠:中国・初唐の詩人
・権徳与:中国・中唐の政治家,詩人。
・菅原道真:平安時代前期の政治家、文人。
・太子舎人:太子の付き人。
・三略:中国における代表的な七大兵法書の一ツ。
・李商隠:中国・晩唐の政治家、詩人。