
幸田露伴の随筆「辛」
辛
世渡りに油断のある者の常で、春の夜の心好さに夜更かしをすると、その明くる朝はいつも寝足りないような気がする。が、眼を覚まして見ると街中(まちなか)に住んでいる身には、表通りの賑やかさに既に日盛りなのが感じられて、暑いな!と思いながらやがて起きると、縁側の硝子障子に和(やわ)らかに日が射している。硝子障子の日射しと云うものはまことに感心なもので、冬は冬らしく何処となく冷たく白々と光っていて、冬ですよ!と人に教える。夏はまた夏でキラキラと度強(どぎつ)く、触ったら熱いかと思われるほどに、赤に金色の交じった輝きなどをして、夏だよ!暑いよ!今日は三十二度になるよ!などと人に教える。今は春まだ深くは無いが、正に春には相違ない、如何にも物柔らかい。触ったら羽二重の萎え気味になったもののように感じるだろうと想われるフックラとした光線を、水の中で豆腐を扱うほどの柔らかな手加減で受け取って、そして縁の上へそれを落としている。春じゃありませんか、と告げている。春だナアと合点させられる。
空気は水気を有(も)っていて、しかも明るい。チラリと鳥の影がさした。眼に入る他家(よそ)の樹々の梢は葉を落としたまま、まだ芽出しなどはしていないのであるが、何処(どこ)となく霞んだようにぼうっとして賑やかに見えた。もう枝々に水気が上って、その色が寒い頃とは少し変わって来たせいであろう、ゆるりと楊枝を使って歯を洗う。口へ含む水が冷たくないのではないが、却って心好い気がする。水に近い生温い湯で顔を洗っても寒い時なら嬉しくない筈なのに、今は少し誇らしい贅沢をしている気になって、手拭で強く拭った頬先や手の甲に冷たい空気が触れるのが、自分が生き生きと生きているのを感じさせて貰ったようで、軽い満足を覚えた。
正座ではあるが寛いで坐る。手に取った番茶一碗の湯気が、有無の間と云うものはこれであると、薄々と淡く見える。その香りがほんのりと上って来る。何(ど)の神様から頂戴したとは思わないが、いわば今日(こんにち)様(さま)に、様と云う称号を奉りたい、その今日から賜った御礼を申し上げたい。応答はないが感謝の気持ちで呑む。
やがて膳が据えられた。飯の色、その匂い、何もコレはと云うことはない。が、味噌汁の色がいやに濃くて透明度が不足過ぎるように思った。いやに甘臭い鈍い匂いが、野暮だナアと思われた。しかし今日は春が長(た)けたのだ。どろんとして、そして、たるい匂い。いけない。湯上りにセーターを突き付けられた心持ちだ。アア、本当に春になって来たのだ。
江戸は亡びた。東京は、どうなるか分からない。もともと江戸味噌だってコンナものでは無かった。元来が三州や名古屋や京都や仙台のような、それぞれの長所を持った味噌では無かったけれども、それでも妻恋坂や神田明神あたりで出来た味噌は、暖気になったからといって厭気のさすものでも無かった。それが今は、早造り早造りと賢い方法に従うからだろうか、どの区へ行っても文明の齎(もたら)した味噌に出会う。そしてそのお陰でもあろうか、世間の様子を見るにだんだんと味噌汁を欲しがらない人が多くなって来るようである。アア、こうして世の中の物も嗜好も習慣も感情も順々と変わって行く訳だ。道理で今日は自分も欲しくない。が、好い、好い、それも愈々(いよいよ)春が春らしくなったからだ。と、時候の方を讃美して、汁椀の方は昨日までの交際の義理を欠かない程度に手に取る。
小皿に濃い緑色の菜の漬物が少しばかりある。見ると芥子菜(からしな)だ。真白な皿の上にくっきりと濃い緑、その濃い緑のしっとりした色気がこちらの眼に食い入ると云うよりは、こちらの眼の光を吸い取ると云うように、落ち着いていて、物しずかに、程よい長さの、程良い嵩(かさ)で横たわっている。他の菜(な)と異なって茎も緑だが、葉はまた特に緑が濃くて、大胆で、自信のある画家でなくては出せない手強い色をしている。翡翠(ひすい)色(いろ)の、深い、そして強い、そして爽やかさを失わない、その色はマア何という美しい春の神の贈り物であろう。目が先(ま)ず喜び、心が先ず味わい、そして賞しておもむろに之(これ)を取る。少し生な匂いが好い、舌ざわりが滑(すべ)っこくなく野性味のあるところが好い。噛むとピンと微(すこ)しく辛いところが仙界の鳥のように人に狎れないところがあって好い!、春だと思った。
(昭和三年四月)