人は人を乗り換える。友達も、恋人すらも。
こいつまたなんか言ってるよ。
「人との繋がりは、互いが続かせようという意思が
なければなくなってしまうものである」
そう、神にでもなったつもりか、というようなゴミは言っていた。
まぁ仮にも神に近づいた、と思ってそうなぐらいのやつだから、間違ってはないんだろう。少し考えてみると確かに僕たちみんな人生のそれぞれのステージで付き合う人が変化していく。
家族から始まり、小学校、中学校ぐらいまでは大きな変化はないが、高校で全くの新しい環境に身を置き、専門学校や大学、就職、そして新たな家族。
所属している物理的な場所、組織、趣味やその他のコミュニティによって出会う人が増え、そこを離れると関わる人が減る。いつしか日常の中から消え、思い出すこともなくなってしまう。
もちろん深く関わり、心を通じ合わせ、例え物理的な距離が離れようとも心理的乖離はしない関係性というのも存在する。しかしそれはきっと限りなく貴重で尊いものだ。思い出す頻度は減れど、互いに互いの存在を心のどこかに居場所を無くすことなく生きていくのだろう。
さて、前置きはここら辺として。
今回のこの文字列でだらだらと書き出したいことは2つ。
こちらは思い出すけど、きっと向こうは思い出すことすらもないんだろうな、って人が自分は人より多い気がする。
その落ちづけどころのない気持ちの吐露。
そしてもう1つ。環境によって関わる人が変わる。ならば人との関わりはほとんど一時的なもので、それは恋人にも適用される話なのではないだろうか。
ここら辺をくどくどと、だらだらと。無駄に言葉を消費しながら、時間を浪費しながら独り言をつぶやきます。
何笑ってんですか。先輩はこっち側でしょ?
彼女は僕を見透かすようにそう言った。
きっと彼女は覚えていない。
僕にそう言ったことも覚えてない。きっと僕のことを思い出すこともない。
それっぽちの微かな瞬間。そんなちっぽけな一瞬が衝撃と共に今も僕の中には息をして残っている。自分が他人には見せるつもりのない「それ」を見透かされたような気がしたからだ。
僕は勝手に彼女に「それ」を感じていた。
あぁ、きっと彼女は「それ」を持っていて、同じ世界に住む住人なのだろうと。
しかし僕はそれを見せたつもりはない。片鱗を出したつもりもない。さらに特に仲良くもない。たまたま一緒のそんなに頻繁に集まらないコミュニティのいち後輩。ただそれだけ。
僕は今になっても思い出す。その出来事も、その子のことも。
でもきっと、今の彼女の世界に僕が息をさせてもらえる居場所はこれっぽっちもないのだろう。
勝手に思い出し、勝手に懐かしみ、どうしてるかなぁと思い、その子の発信するSNSだけを見て、自分の中で完結づける。
あーーーーーー。あーーあ。あーーーーー。はぁ。
意外と話すとおもろいな
そいつは昔の同級生。僕が陰キャだとしたらその子は陽キャ。クラスで写真を撮る時に端っこで映るのが僕だとしたら、はいちーず、の掛け声をするのがそいつ。もちろん真ん中。そんなやつに言われた一言だった。
一見関わり合いのなさそうな僕らが唯一話す時間。それは登校の時だった。
2分到着が遅れると遅刻する電車に乗っていたのは僕とそいつ。あとはモブ。それも毎日。息を切らす一歩手前の速度で歩き、歩き、話す。
何を話していたのかは覚えてない。
ただ、明るく、外交的で、盛り上がることの好きなそいつは頭がよかった。
卑屈になって言っているわけではない。あまりにも自身とは違う種類の魅力を持ち合わせているやつであったことには間違いなかったというだけだ。
そこも含めて話していて楽しかった。特に何か共通の趣味があるわけでもなかったはずなのだがその楽しかった、という感情の記憶だけが懐かしく、色あせてなお輝きを失わずにいる。
まぁいわゆる陰キャが陽キャに認められた気がして嬉しくなっているだけのキモイ現象、ともいえるだろう。当時の僕としては第三者が見るとそのよういしか見えないだろうな、とも考えていたがまぁ、勝手に自身の中では対等だった。まぁそれだけが事実としてあるならいいか。
なんの仕事してんるんだろう、今話しても楽しいんだろうか、たまに更新する世の中の核心を突くようなSNS、変わってない感じして好きだぜ。
まぁでもそれも全て、その場限りのものなんだろうな。
中継地点
こんな風にこっちは割と色々覚えているけど、まぁ向こうはそんなことも、僕の存在すらも日常の一部にはいないんだろうな、と考えるとやっぱり人間はその時限りの関係性を繰り返して生きていくものなのかもしれない。
共に過ごす時間や密度は違えど、新たな出会いと終わりのある付き合いを繰り返し、今ある自分とたまたま近くにいただけの人と時を過ごす。
まぁそれが、普通なんだろうな。
結婚はそれに抵抗できうる唯一となれるか。
さてそれではそれを友達ではなく恋人に当てはめて考えてみよう。
人生のステージ、いわゆる進学や就職などのタイミングによって付き合う友達が変化していくのが人生だ、というのならば恋人はどうなのだろうか。
高校の時から付き合い続けるカップルがどれだけいるだろうか。大学で恋人が2人以上できたことのある人はどれくらいいるのだろうか。バイト先、サークル、学際マジック、就活マジック、えとれとらえとせとら。
その時の自分の状況、精神成熟度、関係性、タイミング。
色々なものが重なって出逢って、仲良くなって、別れて。
そしてもう二度と、会うことすらもない。
でもそれはきっと仕方がないことなんだと思う。環境が変わると自身の価値観も変わることもある。自身の成長と相手の成長が釣り合わないこともある。急にいつまで子どもでいるつもりだろう、と思うことも、なぜかいつの間にか勝手に大人になっておいていかれた、と思うことも。
きっと、きっと色んな理由で別れてく。
人生のひと時を1番濃く共有したまでの関係性を築いた相手と、もう二度と会うこともなくなっていく。
そのわかりやすいタイミングが環境の変化であるというだけだ。
では、そのタイミングがなくなるのはいつか。
きっと就職後なんだろう。
だから結婚がそれら変化していく人との関係性というものに対抗しうる
唯一の手段、名称、契約となる。
なるだろうか。
結婚していても関係性が破綻している人なんてごまんといる。
ただタイミングがないだけで別れてない。不満はあるけど別れるための行動の浪費がすごい。子どもがいるから。
そんなことを思うと、人はタイミングなんて関係なく、誰かと一対一の関係性を結ぶ時、その関係性の温度感や親密度、距離感を崩すことなく変化させ続けることは非常にハードルの高いことであり、やはり人によって周期は変わるだろうが一定の期間ごとにそれが例え恋人、配偶者であろうとも変化させていく生物なのではないだろうか。
試しに結婚して5年後に更新しなければ継続にならない、結婚破棄という形になる制度になってみたらこの仮説は重みを帯びるかもしれない。
ゴミのたわごと、まとめ。
まとめ。
人は同じ人とずっと一緒にはいられない。
それは友達はもちろんのこと、恋人であろうとも、結婚した相手であろうとも。
理由。人との関係性は随時変化していくものであり、それが変化、である限り同じ温度感を保ち続けることは幻想であり、環境に大きく左右されるから。
そんなことがわかった。
わかったうえで。全く同じなんてものはないと知った上で。
僕はあの日のことを思い出す。
あの瞬間を思い出す。
あの感情を思い出す。
君のことを、思い出す。
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